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【国際線フライトと海外の旅の物語】(第5回) 1974年「バングラデシュ」の苦い出来事

 1974年11月、バンコクでは出発前にハプニングがあったが初めての「バングラデシュ」。

 予定通り首都ダッカ郊外で2階建ての友人宅に無事到着した。周囲はたんぼだったが洪水で多くの田んぼが池になっていた。友人はオランダ人の男性ボランティア。
到着後直ぐ、この旅の目的実行のためそれぞれ役目を分け動き出した。
私は渉外担当として友人と共に関係官庁に出かけ交渉を開始した。しかし、ある程度覚悟はしていたが独立後の国の統治機能が追いついてない現実に直面することになり改めて簡単でないことが分かった。。。窮地の策としてダッカの日本大使館の1等書記官にも大変お世話になった。
 ”成果なし”での帰国も覚悟した。紆余曲折があったが幸いにも3日目で目的の許可が得られた。独立後初めての正式許可だった。

 日本から携行した機材の一部は不調になったが他は概ね良好に作動し、当初計画の活動目的は遂行できた。滞在期間一杯世界に向け発信し続けた。初めての海外遠征にしては大成功だったと思う。

 あっという間の10日間だったが滞在期間中、友人宅周辺以外殆ど遠くに出かけていないので残念ながら当時の現地事情を深く知ることが出来なかった。しかし、それでも渉外担当だった私は街に出かける機会があったのでダッカ市内の模様を少しは知ることができた。
 その中でオランダ人の友人が勤めていた赤十字病院と立派なインターコンチネンタルホテル等のことを覚えている。特にインターコンチは周辺に浮浪者が溢れていたがホテルはまるで治外法権のような別世界だった。当時ダッカは今日のような高層の建物は皆無だった。
 また、こんなこともあった。滞在中、友人のバイクに乗せて貰ってダッカの旧市街に出かけた時、多数の人並みの中で、顔を覆った人に何かくれと衣服を引っ張られた。振り返ってその人の顔を見ると、何と顔の皮膚が崩れているではないか。一見にして天然痘(ハンセン病)だと思った。一瞬冷や汗がでた。
 この年のバングラデシュは大洪水後だったから特別な国情だったかも知れないが街の至るところに地方から首都へ出てきた人が溢れ返っていた。また逆に少数の裕福な人もいた。一部の裕福と大多数の貧者のコントラストにも強い衝撃を受けていた。

 予定した旅の目的を遂行しバングラデシュの旅を終え無事帰国することができた。
大阪空港到着後の検疫時、我々それぞれ身体にブツブツがあるのと、バングラデシュからの帰国を申告したら検疫官は驚いて直ぐ別室に連れて行き聞き取りされたのを覚えている。今だから笑い話なるが検疫で何が起こったか良くわからなかったが聞き取り後、今後何かあれば報告することで放免された。

悲しい出来事
 滞在期間中全面的にお世話になったオランダ人と帰国後、突然音信不通になり全く連絡が取れなくなった。何が起こったのか心配した。数週間の沈黙後、理由が分からなかったが秘密警察に連行されたらしいとの噂が流れた。また、オランダ大使館が捜索したところスパイ容疑で拘束されているらしいと報道された。オランダ大使は強く抗議し、数か月後オランダ大使館は彼を救出し帰国したという。
 当時、オランダには徴兵制度があり、大学生だったと思うが彼はそれを忌避し、徴兵の代わりに海外ボランティアとしてダッカの赤十字病院のレントゲン技師として派遣されていたのだ。誠実なボランティアの彼がスパイ容疑を掛けられ国外退去は心外で無念だったに違いない。 
 1974年以来彼とは会ったことがないが以前、彼が健在であることを雑誌で知って嬉しかった。あれから47年、互いにそれなりの年代となった今も健勝であって欲しい。

 尚、初めてのバングラデシュ訪問から20年後の1994年に再びダッカを訪れる機会があった。首都ダッカ市内は大きく変わっていた。インターコンチネンタルホテルは同じ場所にあったが周囲の環境が変わったせいか昔のような威容さはなかったのを思い出す。2度目のバングラデシュのダッカ訪問からでも27年になるが今ではもっと変わっていることだろう。
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