今回の訪タイは義理弟の現地での葬儀への出席が目的であった。
重篤連絡を受けたがあいにくパスポートが切れていて直ぐに飛べなかった。パスポート取得に1週間を要したが発給までに彼は逝ってしまった。三人兄弟の長女姉が先にバンコクに飛び弟を看取って帰国した。続いて私の妻である二女姉と共に葬儀に間に合わせるべく飛んだのだった。
訪タイにあたってはパスポートの他に飛行機の予約に少々手こずった。突然の出来事だったのでフライトの選択肢が狭められ、今回は中部国際空港から飛んだ。現在は滋賀に住んでいるので当初、関西国際空港からLCCを含めて検討したが希望とマッチせず、最終的に中部国際空港からのJAL便を選択した。3年前まで千葉県船橋市に住んでいたので成田まで近かかった。滋賀に住んでみると関西国際空港まで3時間近くもかかり、不便さを感じる。渡航先にもよるが中部国際空港の選択肢もあることが今回分かった。
この時期のタイは乾期で一年の内で比較的気温が低いシーズンなのだが現実は日中30度越で暑かった。日本との気温差30度は厳しいが、それでもむわっとした暑さが懐かしかった。かれこれ6-7年ぶりのタイである。私とタイとの関わりは結構古い。最初は1974年である。1993-95年の2年間、バンコクに家族同伴で赴任し、生活したところでもある。昔はドンムアン空港だったが現在はスワナブーム空港がメインである。その後も仕事やレジャーで来ているので違和感は全くない。
今回感じたことを少し述べると、
・昔と比べると、サムローとバイクが少なくなり車が多くなった
・地下鉄やスカイトレインも出来たが相変わらず車が多い
・町のゴミや埃は少なくなり綺麗になった
・屋台が少なくなった
・生活が良くなったのか肥満体の人が多くなった
・郊外が広くなりモールなどが多くなった
・コンビニが多く見られるようになった
・物価が昔の2~3倍程度になった
・相変わらずエアコンは効かし、室内では肌寒い
しかし、それでも工夫をすれば安くて快適に過ごせる。特にタイの美味しい飯、料理が食べられるのがたまらない。大通りのレストランは高目だが枝道の食堂では200円程度でも美味しいタイのご飯が食べられる。私はタイ炊き(水炊き)が好きで今回2度も「MKレストラン」で食べた。MKのタレの味は忘れがたい。今回の旅ではタイ飯だけで過ごし日本食は食べていない。
アコモデーションは当初、義理弟の住居があったMinburi地区のコンドミニアムだったが最後の1日半はバンコク市内のホテルにした。そこは昔、家族と住んでいたスクムビットエリアの小さなホテルだったが十分だった。
ホテルから徒歩で数分のところに当時住んでいた、今もあるマンションを訪ねた。オーナーにも会いたかったが残念ながら不在だった。このマンションは昔は住民の大半が日本人だったが今はいないという。敷地内に入れて貰い散策した。子供達が毎日泳いでいたプールやテニスコートも昔のままであった。ここから毎日スクールバスで日本人学校に通っていた。
このマンションは静かで便利なところにあり、近くの日本人が利用するスーパーにも出掛けてみた。変わっていない。値段は少々高いが日本物はほぼ何でもある。周辺の店はかなり変わっていたり今尚残っている店もある。四半世紀前が懐かしい。親しくしていた近くのタイ家具店にも訪れたがオーナーは不在だった。1995年の帰任前に特注で作って貰ったライティングデスクは今も我が家で健在である。同型のデスクは今もこの店で販売している。
マンションのオーナーも含め高齢になっていたが健在だった。これからも長生きして欲しい。
バンコクの中心街エラワンの昔ワールドトレーディングセンターはセントラルワールドと名前は変わり、その中に伊勢丹があったが撤退し、地元資本のデパートになっていた。また、昔このWTC内には紀伊國屋書店や膳(ZEN)スーパーもあり、タイシルクのジムトンプソンの店もあった。
エラワンの交差点のところにある観光名所、像の「エラワン祠」ではタイダンスも行われていて相変わらず人で溢れていた。その他、昔良く行ったチャトチャクのウイークエンドマーケットなども行ってみたかったが時間の関係もあり見送りした。
バンコク市街地は広域化し、中心街は高層化、密集している。相変わらず車が多く騒音、排気ガスがきつい。朝夕の渋滞は激しく広域化している。道路の整備は感じられるが鉄道の拡充は遅々といった感じである。
人びとは豊かさは増し、中間層が厚くなったと感じる。物は溢れ、今や小さい子供を含めほとんどがスマホを持っている。メータタクシーは定着し、運賃交渉の必要はない。ソイバイクやツクツクは今もあるがだいぶ少くなくなった。
しかし、タイ語の柔らかい言葉と優しい国民性は変わらない。今度いつ行けるか分からないが今回は亡き義理弟が呼んでくれた思い出深い旅となった。
<おわり>