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【滋賀・近江の先人第188回】天台寺門宗(寺門派)の宗祖/智証大師・円珍(香川県・大津市)

 円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年・4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗(園城寺寺門派)の宗祖。諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
法号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」である。


概説
弘仁5年(814年)讃岐国(香川県)金倉郷に誕生。多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。

空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り義真に師事、12年間の籠山行に入る。

承和12年(845年)役行者の後を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。承和13年(846年)延暦寺の学頭となる。仁寿3年(853年)新羅商人の船で入唐、途中で暴風に遭って台湾に漂着した。

天安2年(858年)唐商人の船で帰国。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様。その後、比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場とした。

後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となる。

寛平3年(891年)入寂、享年78歳。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上も注目される。

著作
著作は90を数え、円珍の教えを知る著作である「法華論記」「授決集」の他、自身の書いた入唐旅行記の「行歴抄」など著名である。『智証大師全集』全3巻がある。「行歴抄」では、円載との確執が描写されている。

肖像
国宝・智証大師像(中尊大師)、園城寺所蔵。平安時代の作。
円珍は、園城寺では宗祖として尊崇され、同寺には国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。同寺唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と称する2体の智証大師像があり、いずれも国宝に指定されている。いずれの像も頭頂が尖り、頭部の輪郭が卵型を呈する独特の風貌に特徴がある(これを「霊蓋」(れいがい)といい、左道密教では未来を予知できる能力を備えるとされ、非常に崇められた。反面、その験力を得ようと切り取られることもあったため、入唐時に諭され非常に警戒された)。

円珍の書
書風は「枯枝のような」と評される独特のものである。真跡は20余点現存し、その代表的なものは次のとおりである。

東京国立博物館所蔵の国宝「円珍関係文書」のうち。古今集の歌人である遍照僧正への返信で、年はなく5月27日の日付があるのみであるが、晩年の手紙と推定される。一見稚拙のようだが、古渋な勁い書である。

    園城寺所蔵の国宝「智証大師関係文書典籍」のうち。入唐からの帰国後、伝法のための公験(証明書)を請求するため、朝廷に提出した文書の案である。貞観5年(863年)11月13日の日付がある。書風は行書風の特徴ある楷書

<Wikipediaより引用>
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