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【滋賀・近江の先人第71回】太宰治と入水を供にした近江ゆかりの女人・山崎 富榮(東近江市)

 山崎 富榮(やまざき とみえ、1919年(大正8年)9月24日 - 1948年(昭和23年)6月13日)は美容師。東京生まれ、母は滋賀県出身で、滋賀県八日市町(東近江市)に一時疎開。29歳没。

作家・太宰治の愛人の一人であり、最晩年の太宰の看護や執筆活動の介助を続けたことと太宰と共に入水心中を遂げたことでも知られる。

  

******* 今回ブログ筆者が調査してみて *******

 滋賀県は太宰治との因果関係が強い。奇しくも二人の滋賀の女性が際立っている。一人は太田静子(愛荘町)であり、もう一人は山崎富栄(東近江市)である。

特にブログ筆者の地元の東近江市・御代参街道(八日市本町通り)とときわ通りの角に「山崎富栄」との強い関わりがあったのだ。

 山崎家は昭和20年(1945年)4月、母信子の郷里、滋賀県愛知郡押立村横溝(東近江市横溝町)に近い旧八日市町(東近江市八日市本町)の「鍵屋薬局」の借家に疎開した。

 八日市本町通りとときわ通りの角で、「カギヤ(鍵屋)薬局」の真ん前が山崎富栄と両親が戦時中一時、疎開のため住んでいた「山崎洋服店」(注:一部の書籍等に山崎洋装店とあるが当時の看板写真には「山崎洋服店」とハッキリと写っている)があった。

 富栄は八日市には1年しかいなかったが山崎家は疎開した昭和20年(1945年)から富栄が昭和23年(1948年)の死後も、父母が亡くなるまで居住していた。 (父晴弘昭和32年(1957年)、母信子昭和37年(1962年)没)

↑正面左側が元「山崎洋服店」、右側が元「竹川履物店」。同一建物で家屋内で2つに仕切られていた。(現在は正面のカギヤ薬局の倉庫)

↑元山崎洋服店(現、正面のカギヤ薬局の倉庫で、現、ときわ通り側)

 旧八日市には、戦後大陸から引き揚げ後、富栄の母信子の弟黒川嘉一郎が八日市本町通り(御代参街道)とときわ通りの角の一等地に「思い出食堂」と言ううどん屋を開店させていた(後にクローバー美容室になった)。

 山崎家(晴弘、信子、富栄)はこのうどん屋の隣で真向かいのカギヤ薬局の持ち家を借り、1階に「山崎洋服店」とし、洋裁指導と洋服仕立てを生業とし、2階を住居とした。(当時、御代参街道(本町通り)側が竹川履物店、ときわ通り側が山崎洋服店で、同じ建物内で仕切られ、2階への階段も別々であった)

 戦前の八日市には大きな「陸軍八日市飛行場」があり、本町通り(御代参街道)と金屋通りは湖東地域で最も活気のあった八日市の中心街の一等地であった。富栄の母信子の弟黒川嘉一郎が中国大陸から引き揚げ後、この1等地に「思い出食堂」を開店させていた。その隣が山崎洋服店となる借家を黒川嘉一郎が手配したのだった。

 昭和21年(1946年)、「思い出食堂」に代わって、黒川嘉一郎の娘(富栄の従妹。戦前、山崎晴弘の教え子でもあった)が「クローバー美容室」を開いた。ブログ筆者も小さい頃からこの美容室を存在を知っていたが山崎富栄のことは全く知らなかった。代変わりはしているものの今も存続し、黒川一族が経営しているという。

↑「思い出食堂」があった場所(富栄の従姉妹経営のクローバー美容室。代変わりしているが現在も残る。右隣が元山崎洋服店)

 富栄の人柄について、疎開中の富栄を知る八日市出身の映画監督、故「出目昌伸」は山崎洋服店から50-60m程度の近くでときわ通りにあった「出目又化粧品店」で、また隣で開院した元の出目医院の出目弘の弟として生まれているが、「富栄はメガネが似合う歯切れの良い都会女性」だったと言っている。明朗闊達で垢抜けた人だったらしい。田舎人から見ればハイカラさんだったろう。

昭和20年(1945年)7月、陸軍八日市飛行場があった八日市への空襲時、富栄は老人や子供を近くの山(*延命山のことだろう)まで避難引率する役をしていた。また、町内共同の防空壕堀りにも参加していたという。(「恋の蛍」より引用))。

富栄は終戦間際の昭和20年(1945年)4月から21年(1946年)4月までのわずか1年間しか八日市にいなかった。戦時中、疎開先の八日市で都会育ちながらも積極的に町内活動に参加していた様が見える。富栄は八日市に短期間しかいなかったが当時の富栄を知る人は悪く言う人はいなかった。富栄を知る人は太宰と入水心中後、世間から受けていたような悪女の人柄ではなかったという。

富栄は終戦の翌年昭和21年(1946年)4月、父母は八日市に残るも八日市を離れ、美容師として関東に戻った。上京後、最初は鎌倉でその後、三鷹に移っている。その三鷹で昭和22年(1947年)3月、運命の太宰治と出会うのである。入水心中する昭和23年(1948年)6月まで、1年ちょっと前のことであった。富栄は上京後2年、心中の昭和23年(1948年)まで終戦後も両親が住む八日市には一度も帰っていないかった。

 昭和23年(1948年)6月、太宰と富栄の入水事件後、69歳の父が上京し、太宰側から全く冷遇される中、娘富栄の遺骨を抱き八日市に戻った。その直後から世間から父晴弘が亡くなる昭和32年まで富栄に対して激しい非難が浴びせられ続けた。一介の名も無い戦争未亡人・美容師富栄が、妻子があって才能ある流行作家太宰治を人食い川(玉川上水)に引きづり込んだというのである。

 富栄の人生を概観してみると、良家の子女として生まれ、先の戦争前までは何不自由なく父母の愛を受けて育った。一方、男子の子供に代わり、富栄は父の美容服飾の教育事業、学校の長を継ぐべく存在として期待と技術伝授など薫陶を受けている。そのようにして育った富栄は世間で言うお嬢様育ち、純粋培養人間だったとも言える。

 そんな富栄への負のインパクトは震災や戦争による父の東京婦人美髪美容学校の軍への取り立て等により大事な財産を失ったこと、終戦間際に結婚したが短期で戦争未亡人になったことなどが考えられる。また、父の事業の後継者として期待へのストレスがのし掛かっていた。これらの蓄積した反動がごく短期に太宰への傾倒、思慕、愛、恋に走る自己開放、やや反理性的な行動要因でもあるまいか。

 恋は盲目、純で一途な富栄は太宰の虜となり、例え太宰が有能な作家であったかもしれないが自殺願望常習犯の太宰の悪魔に取り込まれたとも言える。富栄は29歳になっていたが純粋培養で生育され、おぼこかったかもしれない。世間では富栄への理不尽な非難があったが富栄は太宰の魔性に引っかかった被害者だった一人とも言える。

 富栄の両親は太宰と富栄の心中に関して、残された津島家(太宰家)の妻子に取り返しのつかない悲運を負わせた富栄を恥じて、世間からの一方的な非難にも係わらず何事にも控えに望んでいたとある。特に太宰の作家仲間や言論界も理不尽に富栄を非難中傷の論調で両親を苦しめた。少なくとも太宰、富栄とも成人で、その片方の富栄及び親族だけが一方的に非難中傷される所以がないことである。

 また、もう一人の太宰治の愛人、太田静子(旧愛知郡愛知川町・滋賀県愛荘町)は奇しくも同じ滋賀の女である。太田静子及びその子「治子」(後の作家大田治子)、その他の愛人への仕打ちを考えても太宰の身勝手な罪をもっと糾弾されてしかるべきであろう。

 昭和30年(1955年)1月、陰日向に山崎晴弘と信子を支えた信子の弟黒川嘉一郎は亡くなったがその娘がクローバー美容室を開いており、頼りにし、東京に戻る望みは捨てた。父晴弘は富栄の死から9年後の昭和32年(1957年)1月26日、八日市にて76歳で生涯を閉じた。晴弘は日本最初の美容学校であるお茶の水で「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)を設立し、1万人もの美容師の弟子を育成した立派な教育者であった。

 「山崎富栄」の母信子(旧姓黒川信子)の郷里滋賀県愛知郡押立村横溝(東近江市横溝町)の「正円寺」は黒川家の菩提寺である。疎開から戦後の昭和32年(1957年)までの12年間、八日市に住んだが山崎晴弘の葬儀は正円寺の住職により行われたという。父晴弘は愛する富栄の死後、世間から一方的に太宰治との入水自殺をした娘の行いの非難を一身に受け深い失意の下での死は無念であっただろう

 母信子は夫晴弘の死の5年後、昭和37年(1962年)、同じく八日市で息を引き取った。81歳だった。信子はカギヤ薬局では昭和40年頃まで住んでいたと聞いたが正確には母信子は昭和37年(1962年)に亡くなっていた。信子は晴弘と共に日本最初の美容学校であるお茶の水「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)の設立に貢献した先駆者であった。

 山崎富栄に纏わる現存する建物は八日市のカギヤ薬莢の借家物件のみらしく、「恋の蛍」の作家松本侑子が何度かカギヤ薬局にも取材に来たことがあるという。山崎富栄や両親が亡くなって半世紀以上経つが、身近に当時のこと知る人から当時の片鱗を直接聞くこともできた。山崎親子が住んだ借家は今はカギヤ薬局の倉庫になっているが倉庫内の一端を見せて貰い60年以上前の生活の一旦を見る思いがした。

 当時、父晴弘は中小企業・零細企業の集まりである「八日市商工会」に加入していて、会そのものは現在のアピア八日市店の所(京都銀行八日市店の角の前付近)にあったという

 富栄死後の両親を知る人から、小柄でやせ形、穏やか人柄、晴弘氏は晩年、嘆が詰まり苦しんでいたことも聞いた。信子は上品で色白で美人だったらしい。また、世間での酷評非難とは裏腹に富栄を直接知る人からは富栄の悪口を言う人はなかったという。また、最近に富栄の従妹さんに会うことが出来た。富栄と両親の人柄についてもう少し聞きたかったが遙か昔の話であり、また、知っていることは過去の取材で話しているのでもう触れて欲しくないとのことだった。入水事件発生後70年以上も経ち、当時を知る人も高齢になり、今後、更に当時の出来事を知る人は歴史の彼方に消えて行く。

 昨年平成30年(2018年)、太宰治の生誕110年、太宰と富栄没70年だったがブログ筆者が船橋市在住だった時、「船橋の太宰を訪ねて」で歩いた時のブログを参考までに紹介する。

ウォーキング三昧ブログの「船橋の太宰を訪ねて

船橋時代の太宰治 足跡探索ウオーク

船橋時代の太宰治 足跡探索ウオーク パート2

<以上、2019年11月 「スローライフ滋賀」筆者>

【滋賀・近江の先人第72回】太宰治の愛人で小説「斜陽」の題材提供・太田静子(愛荘町)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/f39d62fa82f4846bd3effcd00b8997e9

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山崎富栄の人物

東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)生まれ。父山崎晴弘は日本最初の美容学校であるお茶の水「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)の設立者。母信子(旧姓黒川)は旧湖東町出身(東近江市横溝町)で、富栄は3男2女の二女。

父三輪晴弘は明治12年(1879年)、東京市本郷区に生まれ、山崎源七、登ミの養子となり、山崎性にになった。60歳半ばまで御茶ノ水界隈に住んでいた。疎開先の八日市で富栄の死後9年後の昭和32年(1957年)に失意の中亡くなっている。山崎家は亡くなるまで八日市本町のカギヤ薬局の借家に住んでいた。母信子は明治14年(1881年)、滋賀県愛知郡押立村横溝の黒川勇助、ぬいの長女として生まれた。母信子は昭和37年(1962年)に亡くなった。信子の兄弟は3人で長男嘉次郎は先に亡くなり二男は黒川嘉一郎(弟)である。嘉次郎の子「つた」は山崎晴弘・信子の3男輝三と結婚したが後、輝三死亡。従って山崎家で残ったのは長男山崎武士のみ。

富栄は父の薫陶を受け、美容技術の英才教育を受けて育つ。京華高等女学校から錦秋高等女学校(後の錦秋学園高等学校、現在は廃校)に転じて卒業。女学校卒業後、YWCAで聖書や英語、演劇を習う。日大附属外国語学院修了。美容学校助手、宮内庁出入り美容師、洋裁整容女学校講師。義姉山崎つたと共に、銀座2丁目でオリンピア美容院を経営していた。

1944年(昭和19年)12月9日、三井物産社員奥名修一と結婚。しかし12月21日、新婚わずか10日余りで修一は三井物産マニラ支店に単身赴任。この地でアメリカ軍上陸を受けて現地召集され、マニラ東方の戦闘に参加したまま、行方不明となった。

1945年(昭和20年)3月、東京大空襲により、オリンピア美容院とお茶の水美容学校が共に焼失。両親と共に、滋賀県神崎郡八日市町(現・東近江市)に疎開し、山崎家は「山崎洋服店」を開店したが富栄は1年ほどで上京。

1946年(昭和21年)春、義姉山崎つた、お茶の水美容学校の卒業生池上静子と共に鎌倉市長谷で美容院マ・ソアールを開業。11月14日、東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)に移住。お茶の水美容学校の卒業生塚本サキが経営するミタカ美容院に勤務する傍ら、夜は進駐軍専用キャバレー内の美容室に美容師として勤務。

1947年(昭和22年)3月27日夜、屋台のうどん屋にて飲酒中の太宰治と知り合う。次兄・山崎年一(としかず)が旧制弘前高等学校で太宰の2年先輩だったことや、富栄の下宿が太宰行きつけの小料理屋の筋向いだったことから太宰に親しみを持つようになる。このとき富栄は太宰の著書を一冊も読んでいなかったが、「戦闘開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する」と日記に書いた。

5月3日、太宰から「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ちかけられ、太宰夫人・美知子の立場を気遣いつつも、「でも、若し恋愛するなら、死ぬ気でしたい」と答える。5月21日、太宰と初めて結ばれる。7月7日、奥名修一戦死の公報を受け取る。

7月14日、日記の中で両親宛の最初の遺書を書く(ただし発送せず)。「太宰さんが生きてゐる間は私も生きます。でもあの人は死ぬんですもの」。

11月12日、太田静子が太宰の娘治子を出産。富栄は激しい衝撃を受ける。

富栄は健康状態が悪い太宰のために看護婦役として付き添い、約20万円の貯金を太宰の飲食費や薬品代、訪問客の接待費などに使い果たしていたが、1948年(昭和23年)5月下旬頃から太宰との関係に齟齬を来たすようになり、捨てられることを予感して、しばしば嫉妬の念を持つようになっていた(このころ筑摩書房主人古田晁は、肺結核が再発した太宰の健康を案じて、甲州御坂峠(山梨県)への転地療養を計画していた)。

6月13日、太田静子に宛てて最後の書簡を投函(「修治さんはお弱いかたなので 貴女やわたしやその他の人達にまでおつくし出来ないのです わたしは修治さんが、好きなので ご一緒に死にます」)。同日深更、太宰と共に玉川上水へ投身。

6月14日、津島美知子と鶴巻幸之助が警視庁三鷹署に捜索願を提出。6月15日早朝、北多摩郡三鷹町を流れる玉川上水の土手に、二人が入水したとみられる痕跡が発見される。同日正午頃、下流の久我山水門にて、男物と女物の下駄がそれぞれ片方ずつ発見される。

6月19日午前6時50分頃、投身推定現場から約1km下流の玉川上水に架かる新橋付近にて、太宰と共に赤い紐で結ばれた水死体となって発見される。富栄の死顔は「はげしく恐怖しているおそろしい相貌」(山岸外史『人間太宰治』所収「微笑する死顔」)だったが、太宰の死顔は富栄とは対照的に穏やかでほとんど水を飲んでいなかったことから、太宰は入水前すでに絶命していたか仮死状態だったと推測された。28歳没。

6月21日、東京本郷の山崎達夫宅(従兄弟)にて密葬が行われた。

しかし、富栄の日記「愛は死と共に」の昭和22年(1947年)6月10日には「ああ、もう生きていることが、つろうございます。愛人をもって、夫の生死を案じ、第3者からこづかれて、それでも黙って生きているのです」と切なく聞こえると書いている。

<Wikipedia及び 『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』松本侑子、「太宰治の文学の旅」鈴木俊亮、「山崎富栄の生涯」長篠康一郎参照>


コメント一覧

平尾葉子
私の父は黒川亨,生前父から山崎富江さんの事を少しだけ学生時代に聞いた覚えが有りました。今回私は父と富江さんが従兄弟となる事,そして小さな頃は父の車に乗り大津から八日市に行ってました。クローバー美容院の懐かしい写真を拝見しました。ただ黒川喜一郎が昭和30年になくったと有りますがそれは間違いじゃ無いですか?30年生まれの私はお祖父様は健在されてましたし幾度も小さな頃遊びに行ってました。そしてもう一つびっくりしたのが学生時代頃迄の本籍が東京都文京区本駒込2町目だったのを記憶しており,私にあまり話さなかった山崎富江さんの事をもっと知りたく思います。私の兄が八日市のうどん店の前で乳母車に乗って居る写真も見た事も有りますがあまり話してくれなかった話しが結びついて行き,横溝に墓が有り生前,父母が盆前に掃除行ってました。父から生前にもっとしっかりと聞いておけば良かったと今回思い,知りたいと思いコメントさせて頂きました。
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