どさ

詩を投稿しはじめました。
そのうち、紀行文も予定しています。
落ち着きに欠けたものが多くなりますがそれしかありません。

アラビア式恋愛治療法(その2)

2020-01-31 22:33:10 | 猫と和解せよ日記

アラビア式恋愛治療法(その2)

(令和二年1月31日)

   今年の札幌雪まつりに、中国チームは参加を見合わせるそうだ。すわ、新型コロナの影響を配慮しての措置かと思ったが、関係者によると、春節休暇に浮かれた中国側スタッフが訪日ビザを申請しそこない、全員来られなくなったとのこと。そうだった、相手は中国だった。長期赴任していたわたしも、しばしば思い違いをする。中国側が、日本で言う“世間様”を気にして行動を自主規制することはまずない。日本人感覚で批判したり賛同しても、結果的に的外れ、怒ったり心配しただけ損という場面によく出くわす。逆に、彼らは彼らの確固とした行動規範を持っているので、そこを理解しない日本人が、良かれと思ってわざわざ実行し、結果、彼らの逆鱗に触れるという場面にもよく出くわす。戦後の日本は、ある意味、他民族のココロの仕組みを把握する機会を大きく失っており、交渉を持つ際には、意識的に相手側の行動規範を推し量っていくことは重要である。

   行動規範を、直感的に把握するには、その民族の宗教の売りの部分を観察するのがお勧めである。すなわち、各々の宗教ですご~く大事にする教義は、それを信じる人々にすご~く欠けたものであると捉えておけば、当たらずとも遠からじ、色々な齟齬を防止できる。例えば、

・キリスト教は隣人への愛

・儒教では礼節

・イスラム教は寛容

   一方、この欠けた部分から学べることも多い。欠けた部分とは、要は不得手なことである。愛が過ぎて、右左に頬を出し続けていれば終いには殺されるだろうし、礼儀正しく、手出しを控えていれば喧嘩に負けるし、寛容すぎるカモは必ず喰われる。それゆえ、彼らは、その不得手を実行する際に、抱き合わせに安全装置を組み込むよう、工夫をしており、そこが大いに学べるところである。

(その1)で紹介した、恋愛治療で、神医とスルタンは、寛容を示すと同時に、カモになるのを防ぐ手立てを打った。この手法は、寛容を示す必要に迫られたとき、カモにならない仕組みである。

 だいぶ昔、職場研修で、受講した研修から一つを小レポートにまとめる作業があった。わたしに当たったのは管理マネジメントで題材は、

“娘が不良とつきあい、両親は強くこれを諫め続けた。すると、しまいには娘は不良とともに家出してしまった。両親はいかにすべきであったか”

   わたしは、このケースは、両親は事態に対し寛容であるべきと同時にカモになるのを防ぐ手立てをこうじる必要があったのだととらえ、以下にまとめた。

「アラビア式恋愛治療法」

(スルタンのお妃の症例と治療法を引用した上で)

 「この治療法を参考にすると、ここで最も重要なのは娘の心身問題である。放置しておけば娘は、非行化や扶養能力のない出産など、社会参加の機会を大きく制限されることになるだろう。また強制的な離別は、娘の心にトラウマを残し、人生上の適応に障害をきたすであろう。画期的な解決策がないのであれば、まず両親は娘と不良の交際事実をとりあえず容認し、両親・娘・不良と日常的な対話チャンネルを構築しておき、破滅的な事態を防ぐよう監視し続け、その後、チャンネルを通じて、不良に条件を付けていくのはどうであろう。怠け者なら勤勉を要すること、カッとくるなら忍耐を要すること、群れているなら離脱させること・・、こういった条件を、娘自身が発案・納得して不良に課すよう誘導する。当然、不良は不良ゆえ達成できない。不良が馬脚を現したところで、娘は愛想を尽かし交際をやめるだろう。しかし、もし不良が達成したなら、それはもう不良の要件を満たさないので、両親は交際を正式に認め祝福すれば良い。説得するならば、あらかじめ狭い出口を設定せず、説得者自身も変化して和解できる仕組みが重要かと思われる。」実に単純な回答をしたつもりだった。

   しかし、その後、人事から呼び出しがあり、提出したレポートについて、なにやら文句をたれやがる。その文句に曰く:

「これは興味深いが、引用部分は少々暴論めく。また、きみの主張自体、ここでの管理者に求められていることではない。つまり、説得者は忍耐力を持って徐々に説得を積み上げ、被説得者に世間様の存在を気づかせ、自発的に行動を規制するよう誘導するので充分なのだ。まかり間違えても、説得する側が変化するような仕組みを組み込んではいけない。そんなものはおえらい人に任せておけ。」

・・なんでこの野郎おえらそうに~、猫と人でさえ関係の中で相互に変化するもんだべや・・、あ、でも良いことを聞いたぞ。では、貴方様は、わたしが世間様に気がついて自主規制するまで忍耐を続けてくださるのですね、“إن شاء الله(インシャラー)”

(アラビア式恋愛治療法おわり)

 


アラビア式恋愛治療法(その1)

2020-01-28 23:50:19 | 猫と和解せよ日記

アラビア式恋愛治療法(その1)

(令和二年1月28日)

    わたしの暮らすS市のH大学前には、書店や古書店、喫茶店が多い。徘徊するたびに、なんらかの店に巡り会う。H大学の横に暮らして数年たつが、それでもいつも、何かを見つけるのは不思議なものだ。ただ、H大学も大きい。総敷地面積は6億㎡以上あり、山手線内より大きい。S市内のこのキャンパスはそのごく一部なのだが、それでも周囲は20km近くあり、考えなしに徘徊すると、川・沼・草原、子連れ鴨・狐・自転車、森・畑・研究施設など諸々がモザイク状に散らばっているため、まず迷って出られなくなる。この土地に寺社が加われば、それはもう間違いなく一つの地方都市だろう。

   そして、大学の外辺、西側には、これまた、学生街でも繁華街でも田舎町でもない、なんとも形容しがたいタウンが長さ6kmにわたって形成されている。

   先日、そんなタウンで、ある店舗の張り紙に目がとまった。

    猫と和解せよ

   なんだろうこれは? 店舗を見る。それは古書店で、古書店はガラス貼りで、ガラス越しの本棚では猫二匹、発酵中の生地のように丸く寝そべっている。わたしはためらいなく入店する。

 猫二匹は、文庫が敷き詰められた上に寝そべっている。なるほど、通りに面し、陽の当たるこの場所は、本には痛いが、猫には心地よい。一冊50円でまとめられたこの本棚は、まさに猫の発酵のため店側があつらえた場所だ。

   手前の猫は焦茶のトラで、ヨガ行者のように眼を閉じている。本を探すそぶりで頭をなでると、焦茶は眼を閉じたまま「いっつも、いっつも・・本当にめいわくなのよね~」というオーラをゆらゆらと内から発する。奥の一匹は銀地に黒い縞模様、ずいぶん高貴な感じだな、とやはり手をかざす。すると銀地は薄目をあけ“ふーぅー”と威嚇する。かまわずなでるとかまわず【がぶ】、わ、痛ぇ。あーぁ血がにじんでいるよ、うれしい、うれしい。

   その後店内を徘徊し、もう一回噛まれようと近づく。新宿の自称預言師シャンティーさんによれば、見知らぬ猫に噛まれる夢はライバルの出現を暗示するそうだが、夢でなくても、そこにはいた、ライバルが。

   ライバルは老夫妻とねぇちゃんで、本を探すそぶりで猫の前に行列している。ねぇちゃんに到っては相当な常連のようで厚手の手袋をつけている。

まず、老婦人が手をかざす。銀地も気前良く

【がぶ】 “痛い”

続いて、他の民も

【がぶ】【がぶ】 “痛い 痛い うれしい うれしい”

罪深き我らは、猫と和解する心などはなから持ち合わせてはいなかったのだ。

                 ・

 さて、銀地らの人気は高く、独占するわけにはいかないので、わたしは改めて店内を徘徊し始めた。文化人類学的なものに強い書店のようであり、きちんとコーナー化されている。「贈与論」「右手の優越」「野生の思考」「想像の共同体」・・等いずれも最初の数ページ読んだだけでぶん投げた本が並んでいる。うむ、わたしの青春の墓標のようだ。そして眺めていると、ひょっこりとあるタイトルが飛び込んできた。

「アラビアの医術」(昭和40年)

あ、知ってる。

これは少年時代、父の本棚にあった本であり、なんとも摩訶不思議なタイトルにひかれて、読んだことがある。アラビアの医学観念、さまざまな治療の臨床例が載っていたが中身はほとんど憶えていない。が、一つだけ強烈な印象をわたしに残したものがあった。それは精神療法で、特に恋愛に対する治療法であった。以下、記憶するところを紹介;

 

昔、アラビアのスルタン(王)の愛するお妃さまが病となった。お妃さまは、飯は食わなきゃ、熱は出る。目はうつろで耳おぼろ。日々衰え痩ほそり、どんな薬石とて通じない。血の涙を流し悲しんだスルタンは、ついに伝説の神医イブン・シーナを探しだし、すがる思いでお妃を診せた。すると神医の診断に曰く:

「スルタン、こりゃ恋の病ですな。どんな薬も草津の湯でも、こればっかりは治せません」

「何か方法はないのか?」

「一つありますが少々大胆ですぞ、実行してよろしいですかな?」

「なんでも良い、朕はこの世のなにより妃を愛する。妃は朕以上に朕なのだ、どんな方法をとっても良い」

それを聞いた神医は、お妃さまの恋い焦がれる相手(故郷サマルカンドのある男)を探し出し、男とお妃さまを一緒に住まわせた。もちろんお妃さまは間をおかずに回復し、その輝く美しさを取り戻した。さすれば神医は、頃合いを見計らって男に毒を盛り、見るもおぞましい醜男に変えた。すると、お妃さまの愛情は冷め、スルタンを愛し、スルタンとお妃さまは幸せに暮らしました。めでたし、めでたし。

ほう、アラビア式とはこういうものか。(それにしても、この医者は神なのか?)

   感嘆すると同時に、この内容はたいへん的確なものだと記憶に残った。それから十数年後、実際、ある研修の小レポートに応用したことがある。結果は、人事方面からの呼び出しとなったが、いまだわたしはあの暴論を気に入っている。

(その2へ続く)


ぱんだ色

2020-01-25 05:34:29 | 禽獣日記

パンダ色

(令和二年1月25日)

 

 パンダは愛らしいですね。いつまでも、これからもみんなのお友達です。

https://www.youtube.com/watch?v=3A8bb9qHhHw

 

 パンダの故郷の中華人民共和国は今日が春節。今年は1月24日から30日までが休日となり、里帰りや旅行などで30億もの人間が移動する。日本にも、巨大なガラガラを曳いた人々が、ガラガラしがちな商店街や観光地を行き交い、賑やかに消費してくれる。

 もっとも、ガラガラのサイズはさほど変わらないものの、消費の中身は、一時期の高級グッズ爆買い一辺倒ではなくなっている。中国政府が、数年前から外国からの土産品にかける関税をあげたことや、今回は、ネット転売の代理人を登録制にしたことが大きく響くだろう。たぶん、高級時計コーナーで、転売目的のやり手婆とその仲間たちが、あれこれ物色する姿はどんどん減るはずだ。では、わざわざ日本に出向いた人々は、どこで何をどう消費したがっているのだろうか?

 

 確実に増え、消費額もバカにならないのが、ぎりぎり若い女性層の“コト消費”である。彼女らは駆け出しに比べ小銭を持ち、また、ぎり若いので“自分探し”や“占い”のような被暗示性の強いサービス財を嗜好する。しかし、風水などの東アジア・オカルトに疎い今の日本人は、占いや、その分野で付加価値化した商品の供給はいたって弱い(この分野は台湾にもっていかれると思う)。やはり日本は、・・彼女が、イベント参加や旅先で質の高いサプライズに出逢い、出逢ったサプライズを発信し、共感したぎり若いのが再びサプライズを経験、さらに発信・・という具合にリンクが広がる仕組みを構築することである。この際、彼女らをクーポンやポイント還元で囲い込むことは当然であるが、この囲い込みを設計する際、発信者は何人に発信すれば良いのだろうか?手本となる値はあるのか?あるとすればそこにクーポン発行のピークを仮置きしていけば良いわけである。

 

 答えからいくと手本の人数は4.5人である。パーコレーションという概念の臨界浸透ボンド数という考え方からいくとこういう値が導き出される。

 では、1人が4.5人に発信する事は何を意味するだろうか?

   これをおおまかに掴むため、先ほど、子供たちに質の低いサプライズを供給したパンダ先生に、罰として腹開きになってもらう。

 このパンダ図では、パンダの色は白黒つけられない。白地に黒でもあり、黒地に白でもあり、口や目の部分は緑色であると言えるだけだ。だが、パンダの黒色領域に注目すると、それは白色領域を分断して腹開き図の端まで達している。一方、緑色領域は端まで達せず、白や黒の領域の中の一領域の状態である。もし、ここで、腹開きパンダが宇宙だとする。そして、その端は無限まで続いているものとしよう。すると、黒色領域も無限まで拡大されるが、緑色領域は同じ領域のままである。これは言い替えると、ある世界に内包されている領域には、無限に拡がるものと有限のままのものがあるということだ。そして、その両者を相が異なると表現する。実は、上であげた1が4.5に発信する(=つながりを持つ)とは、この値が“相が変化する”境界点であることを意味する。つまり、1人が4.5人につながり、それが続くと、その領域は無限大に大きくなる。

 

 この値を大きいと思うか小さいと思うかはそれぞれの受け止め方であろう。しかし、この値は、古来、しばしば我々の前に現れている。噂話の流布では1人が4~5人にひそひそささやけばよいし、流行するスタイルなどは1人の振る舞いが4~5人に模倣されればよい。ねずみ講の勧誘ノルマや不幸の手紙も4~5という数値が現れやすい。もっとも、今、我々が気にかけておくべきことは、伝染病の伝わり方も、この数値が現れやすいということかもしれない。


げんこつ山の

2020-01-20 22:27:59 | 

げんこつ山の

 

狸さん

いってしまった

 

飲むのは徳利ごと

別にもう

酔うわけでも ないが

 

げんこつ山の

とおりゃんせ

池の周りの細道は

佇むことで お参りです

 

水面 閉じ

俺は 不意に

遠くへ行った

気が する

重くなる

気が する

 

ね、狸さん

ほの暗い

あ・めんぼう

ぽ・んぽ・こ 

ねんね・しな・・

 

げんこつ山の

こわいこわい

狸さん

 

実は俺は

いけるわけでも

ないが

 


Hard Rock Sushi (鉄火)

2020-01-18 10:25:28 | エサ日記

Hard Rock Sushi   (鉄火)

(令和二年1月18日)

 "筆をとればなにか書きたくなるし、楽器をとれば音を奏でたくなる。盃をもてば酒を飲みたくなるし、骰子(サイコロ)をとれば賭けをしたいと思う。心は必ず、現実に触れて動機となる"      (徒然草 150段あたり)

 

  同僚に、Hard Rock CAFE(ハードロック・カフェ)ならぬ、Hard Rock Sushi(ハードロック・すし)という店に入った方がいます。イギリスだったかアメリカのどこかの都市で、ともかくエキセントリックなところへ行きたいとお願いしたところ案内されたそうです。

「エキセントリックだった?」

「うーん、というより、戸惑いすぎて、ひやーっとした感じがになりました。セックス・ピストルズなんかガンガン響いてたんですが、ああ遠いとこ来たな~という感じ」

「メニューは?」

「横文字ばっかりで読みにくいし、巻きものが多かったです。ローストビーフ巻きは美味かったんですが、なんか全体に食べた気がしませんでした」

 

 その気持ちはよくわかります。わたしたちはお寿司屋さんには予定調和的なものを期待していて、さほど冒険的なものは望んでいないのです。

 山形県Y市のあるお寿司屋さんに入り、メニューをみました。

"かたいあし"

?・・

(ここは内陸なので、ネタの呼び名が違うんだ、これはきっとイカゲソだ。)

続いて

"いきえさ"    ?

"ぱごら貝" "ろ貝びこ煮" ・・・(遠いとこ来たな~)

"新鉄河" "香火童" "巻巻巻" ??

・・新河、香童、巻巻 、あっ「鉄火巻き」だ。

 そのお寿司屋さんは、メニューの書き方がたいそう紛らわしく、まず下地にうっすら色のついた紙(恋文専科 虹の風)を使用し、字の間隔・配置も絶妙に拙く、横表記と縦表記の区分が曖昧模糊としたものでした。

記憶を頼りにメニューをデフォルメして再現すると下図となります。

 

 実際に件のお寿司屋さんメニューが意味しているのは下図2ではないかと推測します。

     このメニューにしてこの味ということになるのでしょうか?実際は不味くはなかったでしょうが、やはりこのお店での味は記憶に残りませんでした。

  また、メニューを見ているわたしがトホホなのですから、きっと作った当人たちが最もトホホかと思います。しかし、

"花火を上げる人"・"顔色にうなずく人"・"やっつけをやる人"

が揃った場合、最初にトホホを言った人が有罪ですので、あのメニューはしばらくあの店に、かって日本各地で猖獗を極めたユルキャラのように存在し続けたでしょう。

                                                  ・

   Hard Rock Sushiについては、その後、英米各地に展開したとか、日本に上陸したという話は聞きませんので、一介のキメラ(寄せ集め生物)として消えていったのでしょう。しかし、寄せ集めのタネとされたHard Rock CAFEは健在です。1970年代に小粋なハンバーガー屋からスタートし、今や本業は立派な鉄火場(IR)です。

  鉄火場で博奕打ちが食べるから鉄火巻きという名がついたそうです。骰子(サイコロ)振りながら片手でも食べられるということですね。片手、片手間で食べられるもの、いい加減な面にも潰しがきくものは、きっと賭博と相性がいいのです。

  もっとも、元気いっぱいのHard Rock CAFEさまですが、日本への本業面での進出は断念されたようです。ラスベガス・サンズは首都圏、MGMリゾーツは大阪、Hard Rock CAFEは北海道というように、IR大手は日本市場の縄張りで手打ちをしていたそうですから、Hard Rock CAFEの北海道進出断念により生じたカジノ大手の勢力空白は、いろいろな悲喜劇を生むでしょう。

   短期的なクライマックスはカラス退治とその後開かれる魔女裁判。鉄火の生臭い匂いに惹かれてやってきたカラスが一網打尽になり、その後、カラスは魔女の変身した姿であったとして一段昇格して裁判にかけられるのです。魔女は異教徒であればいいのですから、儒教でも仏教でも日本系でも中国系でもなんでもOK。はじめから火炙り。はじめにトホホになった者から焼かれるのです。

  火炙りするほうも凄いですよ、これは。魔女裁判をやる法廷は、必ず免罪符も売る法廷です。というより、免罪符を売りたい法廷は魔女裁判を必要とします。大罪が契約的に供給されませんと免罪符を売る根拠が得られないからです。カジノという日本人の心に許しがたい罪の免罪符を売るために、新設された某管理委員会はじめ、これを機に新たな権力拡張を求める勢力が、カラスを魔女にしたて、拷問と酷刑にせっせと励むでしょう。血だるまで悶えるカラスをさらに小突き廻すことでしょう。

  中期的にもいろいろな悲鳴が聞こえそうです。何も粘らず賭博市場の開放を許し、結果をつきつけられる中央、ゆるきゃら・ふるさと納税レベルで、楽して財源になるとしか受け取っていない地方、吸い上げられる弱者の希少な財産。

  トランプ友でもあるサンズの会長は、兆円単位で日本に投資すると言っておりますが、当たり前ながら、それ以上を日本から持っていくでしょう。相手はカラスではないのです。毛のないタカみたいなものです。

  そして、なにより長期的には人の心の荒み幅が増すのが嫌ですね。

  徒然草に「サイコロを持てば博奕を打ちたくなる」とありますように、賭けの場にいると賭博をしたくなるもの。また、愚かなことは、それが可能だという理由だけでできるものではなく、それが手軽でなくてはなりません。

  IRは、わたしにはどうにも両方の条件が揃っている気がしてなりません。Hard Rock Sushiのように笑えないのです。

 ところで、冒頭の

 "筆をとればなにか書きたくなるし、楽器をとれば・・骰子をとれば賭けをしたい。"

この最後の部分に今の日本人であるわたしたちが一行加えるとすればどういうものがいいでしょうか?わたしはこう加えたいです。

"銃をとれば撃ちたいと思う"

そして、銃を持てば長生きしないのです。

世界一長生きな日本が続きますように。吉田兼好さん、どうか見守ってください。