のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

国籍を意味づけるもの

2010年03月20日 15時36分08秒 | Weblog
国籍法を見て下さい。

日本は、二重国籍を原則として容認していません(同法第5条1項5号参照)。

例外が認められるのは、同条2項の

     法務大臣は、外国人がその意思にかかわらずその国籍を失うことができな
    
     い場合において、日本国民との親族関係又は境遇につき特別の事情があると
    
     認めるときは、その者が前項第五号に掲げる条件を備えないときでも、帰化
    
     を許可することができる。

という非常に特殊な場合に限られます。

国籍について血統主義を維持せんがためです。

他に血統を重視する主義に立つ国には、

オーストリア、デンマーク、ドイツ、韓国があるとされてきました。


これに対し、血統でなく、出生地に重きを置き二重国籍を容認するのは

オーストラリア、ベルギー、カナダ、フィンランド、フランス、ハンガリー、

アイルランド、イタリア、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、

ポルトガル、ロシア、スペイン、スウェーデン、スイス、トルコ、

イギリス、アメリカなどの国々です。

世界中の国がそうだと言って言い過ぎではないくらい沢山あります。

資料は、国立国会図書館調べです。

近時(2000年)、数少ない血統主義の国、ドイツにおいても、

二重国籍を原則的に容認する方向に舵を切りました。

しかし、世界の大勢に流されたというわけではなさそうです。


法案を提出したシリ―連邦内務大臣は、次のように説明します。

「これによってドイツでも国民の概念が より現実に近いものとなる。

国民という概念は民族的均質性に依拠する

と考えるのは幻想であり、

社会的まとまりは共通の言語や地理的な境界、

あるいは統一的な宗教だけではけっして達成できない。

開かれた現実的な 国民の概念は、

平和的に共存しつつ共同で未来を建設していこうとする意志、

さらに自由な社会の基本である諸価値への忠誠に立脚しなければならない。

その意味で、新国籍法は『異なる文化の、豊かで平和的な 共存の基礎』である」と。

「均質性から多様性へ」ということがキーワードになるようです(ドイツの新国籍法参照)。


余り知られていないと思いますが、

ヒットラーはオーストリア生まれでした。

そして同国の血統主義のため

疎外感を味あわせられながら少年期を過ごしました。

そして彼がナチスを組織し権力を掌握するや否や、まずなしたのは

オーストリアの併合でした。

少年期の体験が無関係だったと言えるでしょうか。

ヒットラー研究の第一人者が、名前は忘れましたが、

「彼が偉大に見えて困る」ということを述べておられました。


謙虚に受け止めなければならない嘆きと思います。

真摯に一人の人間の生涯を追うと、

どんな相手であったとしても

共感し得るものがどこかに必ずあるものです。

ましてヒットラーは

あの巨大な国家、ドイツをひとまとめにしてしまう指導力の持ち主なのです。

偉大なところが見当たらない、というはずがないです。

もちろん、だからと言って、

ユダヤ人大量虐殺を肯定しえないというのは、確かにその通りでしょう。

が、しかし・・・

100%の悪党と考えると、

かえって足下を掬われる結果になりかねません。

話が横道にそれますが、

自称「左翼」の中には

他人を批判するに際し、ナチスに飲み込まれた事実をもって

その人間の知の全てを裁けると考える、たわけた人がいます。

一言で言って、人間性に関する思考音痴なのだと思います。

その時代に生きてみれば、何が真実で何がそうでないかなど

簡単には見分けがつかないはずでしょう。

何にも分からないくせして、

簡単に人を裁き、やれ疑似科学だのとレッテルを貼りたがる

その性癖こそ、専横的な独裁者の特徴なのに、

金子みすゞの言葉を剽窃し、

「みんなちがってみんないい」などと心にもないことをおっしゃる。

そうやって世間の目を欺いているわけですね。

いい気なもんです。


さて、話を元に戻します。

国籍法は、直接には第二次大戦勃発の原因になってません。

しかし、絡み合う糸の一本です。

この点にいち早く気づいたのがイタリアでした。

そしてドイツ。上に述べたように、ドイツは

2000年、長年の論争についに決着をつけました。

韓国は、2005年に永住日本人に地方選挙権を認めると同時に

二重国籍容認の方向に傾いています。


日本でもそれに呼応する動きが全くなかったわけではありません。

ただ、日本の場合は、

2001年5月、参政権付与法案つぶしが狙いと思われる

「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案」

が出た程度にとどまりました。

この法案の背景には、「届出」という言葉が使われているにもかかわらず、

「参政権が欲しければ帰化すればよい」という考えがあります。


しかし、在日の方には、

入国手続きを経ず外国人になった経緯があります。

したがって、旅券を所持していなく、

本来なら旅券に記載ある“国名”を示しえません。

ただ、そうなったのは、

大日本帝国というかつての日本国が強制連行した結果なのですから、

もし国体なるものが護持されたとするならば、

朝鮮籍(誤解のないようして頂きたいですが、

これは、国籍ではありません。

朝鮮半島出身者とする記録です)、

並びに韓国籍(65年の日韓国交正常化のため

朝鮮籍を韓国籍に改めた人がいます。

しかし、法理上、何ら朝鮮籍のままである場合と異なりません。

依然として朝鮮半島出身者であるという記録に過ぎません)

のまま日本国籍ありと認め、

その上で、日本国籍からの離脱権が彼らにはあると考えるのが筋です。

ここまでは、現行国籍法下でも、

充分に運用可能な法解釈です。

私見では、その理解の上に、更にもう一歩、駒を進めるべきと考えます。

すなわち、二重国籍の容認です。

ただし、こちらを可能とするには法改正が必要でしょう。

したがって二重国籍の容認という、もう一歩の点は、

それだけに時間を要するでしょうが、

外国人に地方参政権を付与するか否かを巡って議論されるとき、

いつも腑に落ちないのは、特別永住者には

日本人として扱われるべき経緯があるのに、そう扱われていない不条理に

皆さん、触れたがらない、もしくは、触れようとしないことです。

これは、外国人への地方参政権付与云々という「国防」に関連した各論に比べ、

より総論的で根本的な問題ですが、棚上げされたままです。

参政権付与の、是か非かのみが切り離されて議論され、

誰もその不自然さを指摘しないように見えます。


そこで、質問です。

国籍とは何でしょう。

思うに、それは、国民国家の構成員であるという証です。

近代国家の概念は、市民革命によって成立したものですから、

国民国家=市民社会そのものです。

したがって、市民社会の一員であることを認めながら、

国籍を認めないのは背理だと考えます。


ただ、市民社会は、地域により区別され、複数個存在します。

それらがグローバル化する結果、

たとえば、あちらの市民社会(A)に帰属しながら、

こちらの市民社会(B)にも帰属する、という事態が

ごく自然に発生することでしょう。


二重国籍に対し拒否的な人の頭の中では、

いつも異なる市民社会に属する者同士――上の例で言うなら、

A国とB国の市民――が敵対関係にあります。

多国間のことが話題になるとき、戦争しか思い浮かべられないのでしょう。


僕は、平和をイメージします。

二重国籍を容認して誕生するのは二重スパイでなく、

違う国同士を橋渡しをしてくれる平和の使者ではないでしょうか。

そう思いません?

無理にでも、そう思うよう努力しなければ、

第二、第三のヒットラーが、きっとまた生まれ出てくることでしょう。

戦後の反省が足りない日本では、

それが現実味のある未来予想図になっている気がしてなりません。



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