大水上神社(香川県三豊市)を掲載しました。
大水上神社(おおみなかみじんじゃ)
<通称>二宮さん(にのみやさん)
【鎮座地】〒767-0022 香川県三豊市高瀬町羽方2136-1 旧讃岐国 三野郡
【御祭神】大山積命 保牟多別命 宗像大神
【例祭】 10月14日 例祭 10月15日 例
【旧社格等】県社
式内社 讃岐國三野郡 大水上神社
【御由緒】
大水上神社由緒略記
香川県三豊郡高瀬町大字羽方
御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。
三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。
皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。
建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。
明治五年郷社に、昭和八年県社に昇格す。而して室町時代の作と伝えられる随神像、建久九年の社領目録、建長年中源平両氏の願文、応永三十四年・永享年間の御造営記、天正二年神事次第、宝永六年二宮旧記目録等を残す。
昭和七年史蹟指定の二宮窯跡、康永四年県指定文化財石燈篭がある。
(平成祭データ)
香川県の西部に位置する三豊市(旧高瀬町)にあります。高松自動車道「さぬき豊中IC」から東に5km、羽方地区宮川の渓谷沿いの杜に鎮座しています。
県道沿いに鳥居と大きな社号碑が建っています。社号碑は裏に「紀元弐千五百九拾参年昭和八年参月参拾日昇格」とありますので県社昇格記念のようです。
参道の注連柱注連柱をすぎると鬱蒼とした木立が続きます。
随神門
随神門の扁額
従二位勲一等男爵 九鬼隆一謹書とあります、氏は明治の文部官僚(現在の文部事務次官)です。
随神門から参道
随神門をくぐると宮川に架かる苔むした石橋を渡り、わりと広い境内にでます。
参道の鳥居をくぐるとすぐ左に手水舎、右には多数の写真などが掲示された絵馬殿?、正面に拝殿から本殿です。
時雨燈籠境内中央拝殿正面にあります。
時雨燈籠(しぐれどうろう)
香川県県指定有形文化財(昭和38年4月9日)
建立 康永四年(1346年)南北朝時代 願主 藤原定村 大工 法橋□□
この燈籠は総高246センチ凝灰岩製である。
基礎・中台は六角形で竿全面に雲龍文様を薄肉彫する。
建立年代、願主などが明らかな南北朝時代制作の六角形時雨燈籠の貴重な作例である。(案内板より)
拝殿
拝殿から本殿
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」と呼ばれています。
創始年代は不詳、御祭神は大山積命または大水上大明神とされているが諸説あり、合わせて保牟多別命(応神天皇)、宗像大神です。
境内社四社宮
境内左にあります。源平屋島合戦の折、源平両者当社に戦捷祈願しましたが、敗れた平氏を悼み祀られています。
絵馬殿?境内右にあります。多数の写真などが掲示されています。
うなぎ淵(竜王淵)本殿すぐ横にあります。
昔から旱ばつ時、参籠潔齋の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨。白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれていた。
明治・昭和初期齋行の折、降雨の恵みがあり、感謝祭が行われた。
(案内板より)
千五百皇子社への参道うなぎ淵の右から上ります。苔むした狛犬が歴史を感じさせます。
千五百皇子社
御祭神は伊耶那岐命、伊耶那美命、社殿は巨大な岩(磐座跡?)に鎮座しています。
二の宮の瓦窯跡
境内右奥にあります。平安後期から鎌倉時代の遺跡です。二基あり、右側の第一の窯は「登り窯」の一種、左は「平窯」 と呼ばれています。
境内全景
参道から随神門
大水上神社(おおみなかみじんじゃ)
<通称>二宮さん(にのみやさん)
【鎮座地】〒767-0022 香川県三豊市高瀬町羽方2136-1 旧讃岐国 三野郡
【御祭神】大山積命 保牟多別命 宗像大神
【例祭】 10月14日 例祭 10月15日 例
【旧社格等】県社
式内社 讃岐國三野郡 大水上神社
【御由緒】
大水上神社由緒略記
香川県三豊郡高瀬町大字羽方
御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。
三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。
皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。
建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。
明治五年郷社に、昭和八年県社に昇格す。而して室町時代の作と伝えられる随神像、建久九年の社領目録、建長年中源平両氏の願文、応永三十四年・永享年間の御造営記、天正二年神事次第、宝永六年二宮旧記目録等を残す。
昭和七年史蹟指定の二宮窯跡、康永四年県指定文化財石燈篭がある。
(平成祭データ)
香川県の西部に位置する三豊市(旧高瀬町)にあります。高松自動車道「さぬき豊中IC」から東に5km、羽方地区宮川の渓谷沿いの杜に鎮座しています。
県道沿いに鳥居と大きな社号碑が建っています。社号碑は裏に「紀元弐千五百九拾参年昭和八年参月参拾日昇格」とありますので県社昇格記念のようです。
参道の注連柱注連柱をすぎると鬱蒼とした木立が続きます。
随神門
随神門の扁額
従二位勲一等男爵 九鬼隆一謹書とあります、氏は明治の文部官僚(現在の文部事務次官)です。
随神門から参道
随神門をくぐると宮川に架かる苔むした石橋を渡り、わりと広い境内にでます。
参道の鳥居をくぐるとすぐ左に手水舎、右には多数の写真などが掲示された絵馬殿?、正面に拝殿から本殿です。
時雨燈籠境内中央拝殿正面にあります。
時雨燈籠(しぐれどうろう)
香川県県指定有形文化財(昭和38年4月9日)
建立 康永四年(1346年)南北朝時代 願主 藤原定村 大工 法橋□□
この燈籠は総高246センチ凝灰岩製である。
基礎・中台は六角形で竿全面に雲龍文様を薄肉彫する。
建立年代、願主などが明らかな南北朝時代制作の六角形時雨燈籠の貴重な作例である。(案内板より)
拝殿
拝殿から本殿
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」と呼ばれています。
創始年代は不詳、御祭神は大山積命または大水上大明神とされているが諸説あり、合わせて保牟多別命(応神天皇)、宗像大神です。
境内社四社宮
境内左にあります。源平屋島合戦の折、源平両者当社に戦捷祈願しましたが、敗れた平氏を悼み祀られています。
絵馬殿?境内右にあります。多数の写真などが掲示されています。
うなぎ淵(竜王淵)本殿すぐ横にあります。
昔から旱ばつ時、参籠潔齋の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨。白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれていた。
明治・昭和初期齋行の折、降雨の恵みがあり、感謝祭が行われた。
(案内板より)
千五百皇子社への参道うなぎ淵の右から上ります。苔むした狛犬が歴史を感じさせます。
千五百皇子社
御祭神は伊耶那岐命、伊耶那美命、社殿は巨大な岩(磐座跡?)に鎮座しています。
二の宮の瓦窯跡
境内右奥にあります。平安後期から鎌倉時代の遺跡です。二基あり、右側の第一の窯は「登り窯」の一種、左は「平窯」 と呼ばれています。
境内全景
参道から随神門
拙ブログはご覧のとおり、個人の参拝記録です。掲載の神社、関連団体等一切関係ありません、各神社に直接お問い合わせください。
尚、神社にも過去帳のようなものがあり、氏子の家族の情報を記録していたようです。ご先祖様が神道の場合は氏神様の神社に記録が残されているかもしれません。
”昭和18年から26年の二宮小学校中学校時代、”、戦中・戦後の激動の一番厳しい時代を当地でお過ごしとのことで、小生より大先輩です。宮崎様の少年時代当時のご苦労を思うと頭が下がります。
今後とも宜しくお願いいたします。