地元職場(通信制高校)の卒業式が無事に終わった。
3月末で退職する私は、卒業式の後で離任式をしてもらった。
来賓祝辞や祝電披露でいい言葉を散々使われてしまい、
脳中に用意してきた挨拶は使い物にならず、
頭真っ白な状態で、壇上にあがることになった。
高校時代の担任の先生が亡くなった、という知らせを受けたのは、一週間位前のことだ。
心不全で亡くなったらしい。
あまりにも唐突で、早すぎた。
第一報を、私は平日朝一の携帯メールで受け取った。
(正確には、真夜中にメールをもらっていたのだが、寝ていて気づかなかった)
最初、文章を目で追っても、意味が分からなかった。
目を疑って、何度も読み返した。
気がついたら、出勤前だという事も忘れて、ボロボロに泣いていた。
(危うく職場に遅刻するところだった)
私は、考えるよりも体が先に動く方で、
行動の理由は、大抵後からついてくる。
思うよりも早く私が泣いていたのは、先生が「恩師」だったからだ。
先生には、初めて会った時にまず驚かされた。
最初の自己紹介の際に、先生は教卓の前に、ただ立ってなどいなかった。
自己紹介をしながら、私達のいる席の間を歩きながら、
どこからともなく、幾つも幾つも、手品でパッと手に花を咲かせては、
生徒の机の所々に花を置いていった。
先生の担当教科は数学だった。
数学の時間は文系人間の私には正直眠たくて、思わずうつらうつらしていたら、
「大丈夫ですか!?」と、重病人に駆け寄るかの様な勢いで助け起こされた。
授業中居眠りで怒られたり、呆れられたりするのはしょっちゅうだが、
助け起こしてきたのは、今のところ先生だけである。
また、とにかく先生は私達の話を良く聞いてくれて、一生懸命応えてくれた。
進路相談などはもちろん、普段の何気ない事まで、だ。
ある時、クラスメイトと同時期に髪をバッサリ切ったのだが、
友人は先生に気づかれて髪型を指摘されて、隣の私は気づかれなかった。
私が「何で気づかないのか」などと子どもっぽく怒ったところ、
次から毎回欠かさず、髪を切る度に指摘してくれる様になった。
これにも驚いた。ここまで律儀に応じてくれたのも、今のところ先生だけだ。
先生との思い出は驚くことばかりだったが、
一番驚いたのは、卒業後のことだ。
私は高校から囲碁を始めて、3年間囲碁部だった。
卒業後もそれなりに囲碁を続けていて、何度か、地方の新聞の囲碁欄に棋譜が連載されていた。
今から4年位前に囲碁部に招かれて母校に足を運んだ時に、先生に会った。
先生は開口一番、「囲碁欄の連載、みてますよ」と笑顔で言ってきたのだ。
囲碁など知らないはずの先生なのに。
掲載の知らせなど、全くしていなかったのに。
読んでくれていたのだ。
悔しいのは、その時連載されていた一局は負け碁で、その後の掲載が今のところない事だ。
沢山の驚きは不快なものではなかった。
楽しませてくれた事、気遣ってくれた事、一人の人間としてきちんと向き合ってくれた事が、
私はとても嬉しかった。
不思議な縁で、今年度一年間、私は高校の先生として働く事となった。
先生という仕事の目の回る程の忙しさ、難しさ、楽しさを、少しだけ分かった様な気がしている。
送り出す生徒たちにとって、私はどんな「先生」だっただろうか。
恩師でなくていい、少しは皆が前に進むための支えになれていただろうか。
嬉しい事に、何人かは、卒業後も私に便りをくれるらしい。
かつて先生がそうしてくれた様に、私も生徒たちの歩みを見守りたいと思う。
お祝いの言葉が出尽くした後の離任式で、私は少し考えて、
「自分自身が歩む道は、あくまで自分でどうにかするしかないんです。
どうか逞しく、前へ進んでいって下さい」
などと、華のない台詞を短く一言言うだけにしてしまった。
そうでもしないと、ボロボロ泣いてしまいそうだった。
3月末で退職する私は、卒業式の後で離任式をしてもらった。
来賓祝辞や祝電披露でいい言葉を散々使われてしまい、
脳中に用意してきた挨拶は使い物にならず、
頭真っ白な状態で、壇上にあがることになった。
高校時代の担任の先生が亡くなった、という知らせを受けたのは、一週間位前のことだ。
心不全で亡くなったらしい。
あまりにも唐突で、早すぎた。
第一報を、私は平日朝一の携帯メールで受け取った。
(正確には、真夜中にメールをもらっていたのだが、寝ていて気づかなかった)
最初、文章を目で追っても、意味が分からなかった。
目を疑って、何度も読み返した。
気がついたら、出勤前だという事も忘れて、ボロボロに泣いていた。
(危うく職場に遅刻するところだった)
私は、考えるよりも体が先に動く方で、
行動の理由は、大抵後からついてくる。
思うよりも早く私が泣いていたのは、先生が「恩師」だったからだ。
先生には、初めて会った時にまず驚かされた。
最初の自己紹介の際に、先生は教卓の前に、ただ立ってなどいなかった。
自己紹介をしながら、私達のいる席の間を歩きながら、
どこからともなく、幾つも幾つも、手品でパッと手に花を咲かせては、
生徒の机の所々に花を置いていった。
先生の担当教科は数学だった。
数学の時間は文系人間の私には正直眠たくて、思わずうつらうつらしていたら、
「大丈夫ですか!?」と、重病人に駆け寄るかの様な勢いで助け起こされた。
授業中居眠りで怒られたり、呆れられたりするのはしょっちゅうだが、
助け起こしてきたのは、今のところ先生だけである。
また、とにかく先生は私達の話を良く聞いてくれて、一生懸命応えてくれた。
進路相談などはもちろん、普段の何気ない事まで、だ。
ある時、クラスメイトと同時期に髪をバッサリ切ったのだが、
友人は先生に気づかれて髪型を指摘されて、隣の私は気づかれなかった。
私が「何で気づかないのか」などと子どもっぽく怒ったところ、
次から毎回欠かさず、髪を切る度に指摘してくれる様になった。
これにも驚いた。ここまで律儀に応じてくれたのも、今のところ先生だけだ。
先生との思い出は驚くことばかりだったが、
一番驚いたのは、卒業後のことだ。
私は高校から囲碁を始めて、3年間囲碁部だった。
卒業後もそれなりに囲碁を続けていて、何度か、地方の新聞の囲碁欄に棋譜が連載されていた。
今から4年位前に囲碁部に招かれて母校に足を運んだ時に、先生に会った。
先生は開口一番、「囲碁欄の連載、みてますよ」と笑顔で言ってきたのだ。
囲碁など知らないはずの先生なのに。
掲載の知らせなど、全くしていなかったのに。
読んでくれていたのだ。
悔しいのは、その時連載されていた一局は負け碁で、その後の掲載が今のところない事だ。
沢山の驚きは不快なものではなかった。
楽しませてくれた事、気遣ってくれた事、一人の人間としてきちんと向き合ってくれた事が、
私はとても嬉しかった。
不思議な縁で、今年度一年間、私は高校の先生として働く事となった。
先生という仕事の目の回る程の忙しさ、難しさ、楽しさを、少しだけ分かった様な気がしている。
送り出す生徒たちにとって、私はどんな「先生」だっただろうか。
恩師でなくていい、少しは皆が前に進むための支えになれていただろうか。
嬉しい事に、何人かは、卒業後も私に便りをくれるらしい。
かつて先生がそうしてくれた様に、私も生徒たちの歩みを見守りたいと思う。
お祝いの言葉が出尽くした後の離任式で、私は少し考えて、
「自分自身が歩む道は、あくまで自分でどうにかするしかないんです。
どうか逞しく、前へ進んでいって下さい」
などと、華のない台詞を短く一言言うだけにしてしまった。
そうでもしないと、ボロボロ泣いてしまいそうだった。