Saxophonist 宮地スグル公式ブログ

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Be Water(PARTⅠ)

2007年05月14日 02時40分05秒 | records/cds
「ジャズ新鮮組」関係でよく仕事に呼ばれる事があった。NHK・FMの「オールデイ・ジャズ・リクエスト」という一日ぶっ通しの番組が有って、東京TUCと言うお店で生放送が有った時に、僕が出演するセッションの前の早い時間帯にギターセッションと言うのが有った。僕が店に入った時はそのセッションも既に終了していて、ベロベロに酔っ払った赤ら顔のミュージシャン達が僕達のセッションを聞きながら奇声を上げている。そのうちの一人が天野丘だった。当然、第一印象はそんないいもんじゃなかった。(笑)

暫らくしたら、その天野丘から電話が有り、是非とも一緒にライブをやりたいと言う。江田のブルームーンという客が殆ど来ない、しかも僕の住む練馬から遥か彼方のライブハウスである。ドラムレス・トリオだったんだけど、ギャラより交通費の方が高いのが目に見えている。かなり消極的な気持ちでその仕事を請けたのを覚えてるし、帰りも電車では厳しいので彼の車で家まで送ってもらうのを条件・・という、何とも偉そうな対応だった。(苦笑) しかし、このセッションが奇跡を生むこととなる。初めて一緒に演奏した曲は「ステラ・バイ・スターライト」だったと思う。一音目を出した直後から、何か起こる気配を感じたし、その後、初めての相手だというのにまるで化学反応が起こったかの如く、2人同時にソロを取り始め、それが決してお互いを喰い合う事は無く、調和しながら音楽を作って行った。次の曲もその次の曲も。こういう経験はアメリカでも得られなかった事で奇跡の様に感じられた。1998年12月15日・僕の33歳の誕生日、最高のプレゼントだった。ギャラは500円だったけど。(爆)

ベースの池田聡とは東京に僕が出て来た時からの付き合いで、早川由紀子(p)のグループ等でよく一緒に演奏した。音色と思いっきりの良さが非常に気に入っていたので、いつかは自分のバンドに誘うつもりでいた。しかし、宮地5が活動をしていたために彼を誘うという事は暫らくなかった。その後、「フューチャー・スイング」で飽和状態を迎えたクインテットを休止させた僕は、自分のオリジナルが嫌になり、SONOKAなどでスタンダードのみをやるセッションを色んなメンバーと行っていた。そのうち、また自分のバンドがやりたいと言う気持ちがムクムクと湧き上がり始めた。そして、天野丘と池田聡に白羽の矢が立った。

バークリー時代から二管編成のきっちりアレンジを聞かせるバンドを常にやって来た僕は、ここで自分に変化を求めた。テーマを崩すのも同時ソロも当然有り、ギターが急にテーマ弾いたらサックスが引っ込むのも有り、ギターやベース・ソロのバックでサックスが絡むのも有り、テーマとソロの境目も無くす・・・。そう、あの12月15日に自然と発生した「奇跡」をコンセプトとするバンドが作りたい。だから、ワン・ホーンにしよう!と。サックス、ギター、ベースは決まったけれど、ドラムレスだとちょっと寂しいし、「絶対売れない」感がどうしてもしてしまう。(笑) そこで、色んなドラマーをゲストに招いては密かにオーディション(笑)を目的としたライブを行った。しかし、当然ながら「ドラマーとはSWINGしてリズムをキープするのが役割だ」という事にばかり縛られて演奏するプレーヤーが多く、僕のコンセプトにフィットするドラマーは全く現れる気配が無かった。

ドラマーの橋本学の事は、弟子の西本康朗(as)からも聞いていたし、宮地5に居た西尾健一(tp)からも「初見が強く、何でも出来る器用なヤツ」という事でウワサは聞いていた。じゃ一度やってもらおうと言う事で、いつもと同じく秘密のオーディション形式ライブを2002年2月13と14日に行った。これまでも若いドラマーに何人か頼んでみたものの、僕が求めるような自由な演奏とは違う結果に終わる事が多かった。実は橋本にも当初それ程期待はしていなかった。ところが・・である。何だか面白いのだ。ジャズ=SWINGっていう固定観念以上にアフリカ原住民の様な土着のリズムを大切にしている様子で、日本人独特の緻密さ、白人のスピード感やシャープさも兼ね備えている。音楽的会話もあたかもメロディー楽器の様に楽しめるし、これは金の卵を発見した!と思った。これって最高のヴァレンタインデー・プレゼントじゃないか。

僕の中では「フューチャー・スイング」で、NYを発信源とした最先端ジャズというトレンドを押えつつ古い曲を現代風に演奏する事で、多くのファンを獲得できるのではないかと言う計算が有った。しかし、その目論みは脆くも崩れてしまい、かなりヤケクソになっていた。企画、企画でレコード会社に踊らされた割には何の成果も上がっていない。じゃ、本当にやりたい事だけをトコトンやって、それでもダメだったらミュージシャンなんか辞めてやる!と。そんな超ネガティヴな発想がNEW4TETの原点なのである。(笑) 

こうして、宮地4(後のNEW4TET)の正式メンバーも決まり活動が開始された。そして、僕の故郷であり橋本の故郷でもある関西ツアーをこの年の9月に初の地方お披露目として行い、その時の演奏があまりにも良く、バンドにも一体感を強く感じたため、僕は一大決心をする事になる。来年、このバンドでアルバムをレコーディングし、記録として遺しておかなくては!と。

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