僕がやっているレッスンも、NYでスタートした頃に比べると随分変化したと思う。それは、僕自身のミュージシャンとしての成長に伴うものである。この歳になっても、一向に道が定まらず悩みが多いのだけど、この悩みってのは一生付きまとうってのが、ようやく最近になって理解できた。逆に悩みが無ければつまらないとさえ思う。悩まなければ成長が止まるからだ。成長が止まれば、深く音楽を楽しめなくなる。
最近、若手と演奏する機会が増え、彼らのテクニックや音楽的素養に驚くばかりだけれど、不満も無くは無い。演奏は毎回録音して帰りの車内や自宅で必ず聴くようにしている。いつも自分の若い頃と比較して聴くのだけど、曲の理解度やフレージングの滑らかさは、僕らの若かった時代とは全く違うレベルだ。勿論、若かった僕の周りにも天才的な人達は居て、別次元で音楽をやってたのだけど、あるいはそういう人達を羨望の眼差しで見ていたかのように、今の若手達を見ているところもある。ま、その場合、僕もハタチそこそこの何も出来なかった自分に戻ってるわけだけど。
この問題は情報量の違いに論点を集約出来ると思う。僕らの世代(現在40代)以前は、我々より更に情報量が少なく、日本のジャズ創成期の情報と言えば、戦前はともかく、戦後に関して言うと、ラジオやジャズ喫茶で当時高価だった舶来のレコードを集まって聴くくらいしかなかったという。極めて耳の良い人がその場でフレーズをコピーして採譜し、みんなでそれを練習したとも聞くので情報はかなり限られていた。その後、秋吉さんや貞夫さんのバークリー留学で飛躍的に情報量は増えたけど、僕らのようなバブル世代は財力に物を言わせて(笑)、大勢が留学し更に情報を漁りまくった。でも、今は留学なんかしなくても情報だけならネットで簡単に手に入る。ジャズ喫茶世代とYouTube世代の情報量の乖離はあまりにも大きい。僕は丁度その中間地点に居る。
ベテランと若手という構図で話を進めるのは非常に危険で、結局の所、世代に関係なくアーティスト次第の部分が多いのは言うまでもないけれど、敢てここで書きたい。それは、僕自身が経験して感じた事だからだ。
若い頃は、先輩ミュージシャン達の豪快で直感的な演奏にシビレつつ、荒っぽさやいい加減なところ(まぁ、人にもよるけれど)には拒絶反応が有り、内心「やっぱNYのミュージシャンの方が上手いよなぁ。」となってしまってた。一方、今、若手の演奏を聴くと、内容の充実や最後まで乱れない完璧な構成力(これも人によるけど)に感心する一方で、なんだか「書き譜」の演奏を聴かされているようでつまらないと感じる事も多い。これは人間の持って生まれた音楽に対する欲求であり、完璧を求めるけれど、完璧でありすぎると人間味を感じず魅力も感じないという生理的な現象だと思う。音楽とは、やはり、音を通してその人の性格・性癖を読み取る事でワクワクするものだ。完璧になり過ぎるとそれが見えなくなるし、ミュージシャン側からすると、「興奮してミスった。」とかを無くす為に興奮を極力抑えて演奏する事になる。すなわち、お客が聞いても興奮しない演奏をする事になる。
これって、情報を手に入れるための苦労の度合いが関係している様に思えてならない。勿論、音楽的素養も関係しているとは思うのだけど、NYやキューバのミュージシャンでも僕はちょっと前の人の方が面白いと感じてしまう。そういうところ(情報収集の難しさ)に「熱さ」というものが生まれるんじゃないかなと思う。「一音を<仕入れる>ための苦労」が音に表れてる・・と言う類の。
僕が愛したNYのトップ・ミュージシャンでもミスったのや、荒っぽい演奏を沢山聴いたことがある。だからといって魅力が失われる事は全く無い。そういうミュージシャン達が「決してミスをしない」という神話が生まれるのは、単純にそういう情報が日本には伝わってなかったからに過ぎない。僕は正直、演奏中にミスる事が多くて、自分にとってもそれがストレスなので、なるべくミスを減らすべく、自分の音楽的素養に合った方法として「相対音感」でシラブルを歌う訓練をしてきた。こうする事によって分かったのは、自分が如何に長い期間「直感に頼って音楽をやって来たか」という事だった。アドリブの中では、ドラマーがシンバルやタムをその場の感覚で叩くような感じで音のチョイスをしていた。でも、これが必ずしも間違いだったとは今でも思っていない。非常にプリミティブではあるけれど、音を感覚的に覚えて、出したい時にその音を出すという作業は本来のアドリブのあるべき形だと思う。これって、完全に右脳的な動作のはず。
これに対して、脳内でシラブルを歌いそれを指に伝えてから演奏するという方法は、シラブルが「ドレミ」などの言語である以上、左脳的動作と考えられる。少なくとも僕の場合は、そういった言葉を指に伝える時点で、左脳でフレーズを考る→右脳に伝えてフィンガリングをイメージする→音を出す・・という大変まどろっこしいプロセスなだけに、あまり直感的だとはいえない。故に、昔の自分のもっと直感的な演奏の方が面白かったと感じる事も多々ある。最近、そのスタンスに少し戻そうかとも考えている。その方が自由度が倍増するからだ。
脳科学の世界では、音楽は右脳分野を使うものだとされているけれど、上記のプロセスがある以上、決して右脳だけとは言い切れないと思う。完全に右脳だけとなるとノイズっぽい、「ボギャー!!」などドレミとは無縁の音を出してる時だけの様な気がする。適当に音を羅列しただけの演奏は辛いし、かといって予め準備されたフレーズをなぞる様な演奏はツマラナイ。バランスの良いものを聴きたいし演奏したい。という事は、右脳と左脳を使いこなさなければ面白い演奏は出来ないと言う事になる。
最近の若手の演奏ってソフィスティケイトされ過ぎてて、直感的な演奏による「なんで、そこでその音??」っていう、ある時は驚きを感じたり、ある時は笑ってしまう様な瞬間があまり無い。(何度も言うけれど、かといって、そういうのを狙いすぎたフリージャズはあざとくて大嫌いだ。飲み会で素人のつまらないギャグを何回も繰り返し聞かされてる様で腹が立つ。フリーには自由になるべき裏付けが欲しいし技量も欲しい。逆に楽器が上手い人のフリーは大好きだ。)
僕も東京でデビューした当初は「マジメな修行僧みたいな演奏で、はじけてない」・・な~んて言われた事が有ったけれど、この歳まで音楽で食わせてもらってるって事は、どっかに少しでも魅力が有るんだろうなと思う。はじけてなくてツマラナイだけの演奏だとみんなが思っていたなら、この厳しい世界でとっくに淘汰されていただろう。昔、「上手いだけじゃダメだ」ともよく言われて、「上手い事の何処がいけないんだ?」って反論した事も有ったけど、その意味が今なら分かるし、自分よりも上手い若手が一杯出てきたので、逆にその意見に賛成したりして。(爆)
最近、若手と演奏する機会が増え、彼らのテクニックや音楽的素養に驚くばかりだけれど、不満も無くは無い。演奏は毎回録音して帰りの車内や自宅で必ず聴くようにしている。いつも自分の若い頃と比較して聴くのだけど、曲の理解度やフレージングの滑らかさは、僕らの若かった時代とは全く違うレベルだ。勿論、若かった僕の周りにも天才的な人達は居て、別次元で音楽をやってたのだけど、あるいはそういう人達を羨望の眼差しで見ていたかのように、今の若手達を見ているところもある。ま、その場合、僕もハタチそこそこの何も出来なかった自分に戻ってるわけだけど。
この問題は情報量の違いに論点を集約出来ると思う。僕らの世代(現在40代)以前は、我々より更に情報量が少なく、日本のジャズ創成期の情報と言えば、戦前はともかく、戦後に関して言うと、ラジオやジャズ喫茶で当時高価だった舶来のレコードを集まって聴くくらいしかなかったという。極めて耳の良い人がその場でフレーズをコピーして採譜し、みんなでそれを練習したとも聞くので情報はかなり限られていた。その後、秋吉さんや貞夫さんのバークリー留学で飛躍的に情報量は増えたけど、僕らのようなバブル世代は財力に物を言わせて(笑)、大勢が留学し更に情報を漁りまくった。でも、今は留学なんかしなくても情報だけならネットで簡単に手に入る。ジャズ喫茶世代とYouTube世代の情報量の乖離はあまりにも大きい。僕は丁度その中間地点に居る。
ベテランと若手という構図で話を進めるのは非常に危険で、結局の所、世代に関係なくアーティスト次第の部分が多いのは言うまでもないけれど、敢てここで書きたい。それは、僕自身が経験して感じた事だからだ。
若い頃は、先輩ミュージシャン達の豪快で直感的な演奏にシビレつつ、荒っぽさやいい加減なところ(まぁ、人にもよるけれど)には拒絶反応が有り、内心「やっぱNYのミュージシャンの方が上手いよなぁ。」となってしまってた。一方、今、若手の演奏を聴くと、内容の充実や最後まで乱れない完璧な構成力(これも人によるけど)に感心する一方で、なんだか「書き譜」の演奏を聴かされているようでつまらないと感じる事も多い。これは人間の持って生まれた音楽に対する欲求であり、完璧を求めるけれど、完璧でありすぎると人間味を感じず魅力も感じないという生理的な現象だと思う。音楽とは、やはり、音を通してその人の性格・性癖を読み取る事でワクワクするものだ。完璧になり過ぎるとそれが見えなくなるし、ミュージシャン側からすると、「興奮してミスった。」とかを無くす為に興奮を極力抑えて演奏する事になる。すなわち、お客が聞いても興奮しない演奏をする事になる。
これって、情報を手に入れるための苦労の度合いが関係している様に思えてならない。勿論、音楽的素養も関係しているとは思うのだけど、NYやキューバのミュージシャンでも僕はちょっと前の人の方が面白いと感じてしまう。そういうところ(情報収集の難しさ)に「熱さ」というものが生まれるんじゃないかなと思う。「一音を<仕入れる>ための苦労」が音に表れてる・・と言う類の。
僕が愛したNYのトップ・ミュージシャンでもミスったのや、荒っぽい演奏を沢山聴いたことがある。だからといって魅力が失われる事は全く無い。そういうミュージシャン達が「決してミスをしない」という神話が生まれるのは、単純にそういう情報が日本には伝わってなかったからに過ぎない。僕は正直、演奏中にミスる事が多くて、自分にとってもそれがストレスなので、なるべくミスを減らすべく、自分の音楽的素養に合った方法として「相対音感」でシラブルを歌う訓練をしてきた。こうする事によって分かったのは、自分が如何に長い期間「直感に頼って音楽をやって来たか」という事だった。アドリブの中では、ドラマーがシンバルやタムをその場の感覚で叩くような感じで音のチョイスをしていた。でも、これが必ずしも間違いだったとは今でも思っていない。非常にプリミティブではあるけれど、音を感覚的に覚えて、出したい時にその音を出すという作業は本来のアドリブのあるべき形だと思う。これって、完全に右脳的な動作のはず。
これに対して、脳内でシラブルを歌いそれを指に伝えてから演奏するという方法は、シラブルが「ドレミ」などの言語である以上、左脳的動作と考えられる。少なくとも僕の場合は、そういった言葉を指に伝える時点で、左脳でフレーズを考る→右脳に伝えてフィンガリングをイメージする→音を出す・・という大変まどろっこしいプロセスなだけに、あまり直感的だとはいえない。故に、昔の自分のもっと直感的な演奏の方が面白かったと感じる事も多々ある。最近、そのスタンスに少し戻そうかとも考えている。その方が自由度が倍増するからだ。
脳科学の世界では、音楽は右脳分野を使うものだとされているけれど、上記のプロセスがある以上、決して右脳だけとは言い切れないと思う。完全に右脳だけとなるとノイズっぽい、「ボギャー!!」などドレミとは無縁の音を出してる時だけの様な気がする。適当に音を羅列しただけの演奏は辛いし、かといって予め準備されたフレーズをなぞる様な演奏はツマラナイ。バランスの良いものを聴きたいし演奏したい。という事は、右脳と左脳を使いこなさなければ面白い演奏は出来ないと言う事になる。
最近の若手の演奏ってソフィスティケイトされ過ぎてて、直感的な演奏による「なんで、そこでその音??」っていう、ある時は驚きを感じたり、ある時は笑ってしまう様な瞬間があまり無い。(何度も言うけれど、かといって、そういうのを狙いすぎたフリージャズはあざとくて大嫌いだ。飲み会で素人のつまらないギャグを何回も繰り返し聞かされてる様で腹が立つ。フリーには自由になるべき裏付けが欲しいし技量も欲しい。逆に楽器が上手い人のフリーは大好きだ。)
僕も東京でデビューした当初は「マジメな修行僧みたいな演奏で、はじけてない」・・な~んて言われた事が有ったけれど、この歳まで音楽で食わせてもらってるって事は、どっかに少しでも魅力が有るんだろうなと思う。はじけてなくてツマラナイだけの演奏だとみんなが思っていたなら、この厳しい世界でとっくに淘汰されていただろう。昔、「上手いだけじゃダメだ」ともよく言われて、「上手い事の何処がいけないんだ?」って反論した事も有ったけど、その意味が今なら分かるし、自分よりも上手い若手が一杯出てきたので、逆にその意見に賛成したりして。(爆)
深い話ですね!!若い世代は天才っぽい人が多くてウマくておしゃれな服着てる人が多いけど付き合いたいとは思わない(そこいくか)
バカやって汚れたジーパンはいてた昔のジャズマンが好きだった、と、感じてはいますがこんなに理論的に突き詰めて考えたことはありませんでした。
も一回読みます!