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喉元過ぎれば熱さ忘れる

東日本大震災から一年が過ぎました。
記憶が曖昧になる前に、あのとき、私が見た事を記しておこうと思います。

3月11日(金曜日)3 浜から家へ

2012年03月17日 | 東日本大震災
 今見た光景がただ事ではなかったので急いで引き返す。
ちょっと半信半疑だった津波は、多少は来るなと思った。
防潮堤の階段をダッシュで降りると、保育園の所の水門付近にスーツ姿の30代の兄ちゃん二人とお姉さんがいたので、「去年のチリ地震の時と明らかに違うから。波が引いでっから。尋常でないから早ぐ逃げろ。この道路をまっすぐ行くと神社がある。」
こういう風なことを、出来るだけ標準語を意識して言ったと思う。
(この辺でこの時間、スーツを着ている人は冠婚葬祭以外は地元民じゃないんで標準語…)
保育園を過ぎるかという所で、開いていた水門が気にかかり振り向いた。
俺が閉めねばなんねぇが?と思ったら、海側から来たと思われる人が閉めている最中だった。
(閉め切るのは確認していない)
 
 急いで家に引き返す。45号まで来ると、荷物を抱えたもどかしく遅い人達が道路を渡れないでいる。
走る車をやり過ごし、道路の真ん中まで行くと車を止めて腕をグルグル回して老人達を誘導した。
その時声は出なかった。
何の音も無く静かな中で、大声で「早く逃げろ!」とうのはオオカミ少年みたいで、声が出せなかった。
(この時点で恐らく避難の放送は断線。サイレンも避難誘導の放送も聞いた覚えが無い。もしかしたらあったのかもしれないが、ただ静かだった印象しか無い)
 磯○(地名)方面からの車2台と宮○大橋側からの車1台を交差点で制止。
その間僅かな時間だと思うが、何人かの老人を通すと、私も一目散に走った。走り出す時、止まっている一番前の車両の人と目があった(ような気がする)。キョトンとしていた(ような気がする)。
たぶん目の前で車を制止していた人間が、通っていいよという合図も出さずに走り去り、そのまま置いてくの?というキョトンだったと思う。もしくは見ためは大の大人が、いきなり猛ダッシュで走り去る姿に事態の緊迫さを悟って、一瞬混乱したキョトンだったか…
(私が制止した車の方が被害にあっていないことをお祈りします)

 私の家の前に着くと、向かいの一人暮らしのおばあちゃんと、モモちゃんを連れた魚屋さんのおばあちゃんがいた。私の母親も地震の時にはいなかったが、玄関にいた。
 玄関で靴を脱ごうとしながら母に、「海の水が引いてて、津波が来っから早く逃げろ。尋常じゃねぇから」と避難を促した。しかし「おしっこしてから行く」と言ったので、「しょんべんなんかしてる時間ねぇぞ。外で人も待ってんだから急げ」とキレ気味に言ったが、トイレに向かったみたいだった。
 靴を脱ぐのももどかしく、土足のまま家に上がり、茶の間のソファーに座っていた親父にも「津波が来っから逃げる準備しろ。」と言ったが「大丈夫だ。」と言って動こうとしない。
私は靴をはいたまま二階へ飛ぶ様に駆け上がった。

3月11日(金曜日)2

2012年03月16日 | 東日本大震災
 さくらを家に置き、海へ様子を見に飛び出した。さっき挨拶に来た立候補予定の人が、近所の人達と道路上でたむろっているのが見えた。
 向かいの一人暮らしのおばあさんの家を覗くとこたつに座っており、「大丈夫だべか?」と聞かれたので「いや、こんだけ大きいともしかしたら津波がくっから。逃げる準備して。海見でくっから」みたいな会話をした。

 私の住んでいる地区で「逃げる」と言えば、大体の人は線路の上の高台にある神社の事を指す。
国道45号線から50mほど山側に、道路から約2mの高さでJR山田線が国道と平行して走っており、その2mぐらい上に生活道路が線路に平行して走っている。
その上の石段を数十段登った高台に、山水が染み出て水が確保出来る神社がある。

 向かいの家の敷地を抜けて魚屋さん(そう呼んでいる)の家の敷地に入ると、コーギー犬のモモちゃんが1人ぼっちで繋がれたままウロウロしていた。「モモちゃん1人か?大丈夫だから。家の人はいないの?」と声をかけ、どーすっかな、連れてくかな、と思っていると軽トラが到着。おばあちゃん(といっても60過ぎたぐらいで、この辺りでは若い部類)が帰ってきた。「今連れてこうかと思ってだった。もしかしたら津波来っと思うから。海見でくっけ」というような事を言い残し、45号線を突っ切った。
この時信号は稼働していない。車の通りも極端に少なかった。(渡った時には走っていなかったと思う)
 防潮堤に隣接している保育園のそばまで来ると(保育園は数年前に閉園済み)、顔見知りの一人暮らしのおばあさんが(一目で判別出来る犬を飼っているせいで、散歩時の顔見知りが多い)「どうすっぺ?津波が来っぺぇか…」と路上でオロオロしていた。「海見に来たども、もしかしたら津波来るから。来なくてもいいんだから逃げる準備して!」と避難を促した。
(が、結局彼女は津波で濡れたそうだ。助かったからいいけど)
 
 防潮堤に着くと、居ると思っていた漁師がいない。何人かは浜を見ていると思っていたが、一人もいなかったので非常に焦った。焦ったと同時に本格的にマズいと思った。
 防潮堤の階段を駆け上がって海を見たが、別に変わった様子はなかった気がする。
視線を、市内を流れる閉○川の河口へ移すと、3本の細長い線がくっきりと見えた。
そして防潮堤沿いの、一人が通れるぐらいの幅の海側の路側を、3人の見覚えある高校生が川の方へ歩いて行くのも。
大声を出して呼び止めようと思ったが、川の方へ曲がったのですぐに姿は見えなくなった。
 川に描かれた3本の線は、対岸の埠頭寄りの線が、マンガで木枯らしを書く時一筆書きでくるんと描いたりするが、そんな感じにくるんとなっていた。(多分うずになっていて、それがくるんとなっていたんだと思う)
恐らくこれが引き波だったんだろうが、その時にはただ3本の線の印象が強かった。

3月11日(金曜日)1

2012年03月15日 | 東日本大震災
3月11日(金曜日)
 うちの親父は週3回市内の病院で人工透析をしている。月、水、金の午前中。
 
 お昼を食べて少ししてから、ちょっと早いがさくら(犬)の散歩に行くことにする。
それを終えてから車にガソリンを給油し、一週間ぐらい前に開店したドラッグストアへ買い物に行こうと思っていた。
 さくらの散歩はいつもの決まったコースというものは特にないが、主に国道45号を渡って海の方へ行く。私が子供の頃に習字を習っていた、うちの母親とも友人の○子先生の実家のそばを通り、防潮堤を越えて公園付近をまわって帰ってくるのだが、その日のさくらはちょっと散歩をボイコットしたのでJR山田線の下あたりをまわって帰って来た。
さくらは1月に子宮と脾臓の摘出手術をし、あまり無理をさせないようにしていたのと、気まぐれな犬種なので散歩の途中で自動停止はしょっちゅうのため、いつもより短い散歩は特に気にならなかった。
何かしらの特殊な能力があるわけではない。…はずだ。
 
 さくらの散歩を終えて家に着くと、県議会選挙に立候補予定の人が挨拶に来た。
都内の少々マニアックな大学出身で高校の先輩に当たる方だったので、その旨を話すと高校の同級生のお兄さんだった。親父も外に出て来て話をした。
 来客者も次の家に行き、親父と「ちょっと立候補者多くてダメじゃねぇか?」みたいな話をしながら、つけっぱなしだったテレビの国会中継を見ようとしたら緊急地震速報が鳴った。
 日本地図でしめされた揺れる地域は、東日本全体をしめしていたと思う。
ちょっとたってから揺れ出した。最初の揺れはまだ余裕があり、親父は「テレビが揺れっからテレビ押さえろ、テレビ押さえろ。」と言っていたが、そばにいたさくらを担ぐ様に抱いた。
ちょっとヤバイ感じになってきたので急いで外に出る。
道路の真ん中に立った。もの凄く揺れる。建物が揺れる音が凄まじい。あらゆるものが軋んでいる。
 揺れは強くなる一方で、隣の家の奥さんが泣き叫びながら出て来た。家の側でしゃがんで動けなくなっていたので、「家の側から離れて!こっち来て!」と叫んだが、動けなかった。
さくらは体重が17kgぐらいあり、結構重いはずだが、たてに揺れているので重さは全く感じない。
スキーのこぶを滑る時みたいに膝を曲げて、衝撃を吸収する事だけを意識した。
長く揺れた感じがしたが、しばらくしてちょっと収まってきたかと思うと、今度はそれ以上に揺れた。
まだ続くのかよ、終われ、終われ、終われ、終われと念じたが、収まらない。
自分の車は目の前で派手にジャンプしている。前輪のタイヤが地面から浮くぐらいジャンプしているのを見たら、声を出して笑ってしまった。全くおかしくなかったのに声を出して笑った。多分落ち着こうとしていたんだと思う。
 
 こんなの宮城県沖じゃないな、と思った。
その時自分のいた場所は、私が小学生のときに発生した宮城県沖地震とほぼ同じ場所だったが、規模が全く違った。揺れている時間が尋常じゃなく長過ぎ、揺れ幅が大きい。
 揺れが収まってきたので家の中に入り辺りを見回したが、あれだけの揺れでも特に被害はなさそうで、テレビも大丈夫だったが、映ってはいなかった。(停電)

3月10日

2012年03月14日 | 東日本大震災
 3月10日。
 6時半過ぎぐらいに鍬ヶ○のタクシー会社で働いている母の友人が、自作のすっとぎ(お菓子)を持って来た。いつも松茸とかを頂いている人だ。
(彼女は津波で行方不明となり、数ヶ月後タクシー会社付近で遺体で発見されました。ご冥福をお祈りします。)

平成23年3月9日

2012年03月13日 | 東日本大震災
平成23年3月9日。
 私は、隣町の友人が社長を務める会社の工事を手伝っていました。
お昼を過ぎてすぐぐらいだったと思うが、脚立を使って作業をしていると、どうも脚立が落ち着かない。脚立の足の据わりが悪いんだろうと、降りて地面に起つと揺れている。
地震だった。結構でかい。しかし余裕。
 このぐらいだと特に何も無いだろうと作業を続けようとすると、工事をしていたアパートの中から内装作業をしていた人があわてて出て来て、携帯ワンセグでテレビをつけた。
「津波警報出てるよ、やべぇ…」みたいな事を言っていたと思うが、乗って来た車に書いてある住所を見て納得。内陸の業者さんだった。
「逃げなくて大丈夫?」と聞かれたが、「大丈夫だとは思うけど、津波が来たらここは海が近いし低いから水がくるね」と軽い気持ちで言った。
友人に「逃げる?」と冗談で言ったら「部品がたんねぇがら管材屋さ取りに行ってけで」と言われ、
「津波警報出でっ時に鍬ヶ○(地名)にか?!」と苦笑すると、屈託なく「うん」。
 部品を取りに鍬ヶ○方面に車を走らせていると、町の様子はいつも通り普通に感じた。台数は少なかったかも知れないが、普通に車が走っていたと思う。
 
 そういえばひと月ぐらい前、海の方角に二重円状のでっかい雲を見たのはこの地震のせいだったのかと思い、鍬ヶ○の町にさしかかると、消防団の人が水門を閉めて監視してるのが見えた。
まぁ津波なんてのはこねぇよな。去年のチリ地震の時もショボかったし、と思った。

 
 あの3月11日の一年程前、チリで発生した津波が数日たってから日本の沿岸に到着。
その時私は、津波とはなんぼのもんじゃ?という感覚で海まで見に行っていた。
 津波の怖さというのは経験した人に色々聞いて解ってはいたが、それはチリ地震大津波のものであり、この辺では人的被害が少なかったせいか、あれぐらい本気で走った事は無いとか、この辺の浜はすっかり水が引いて海底が見えていたとか、思い出話のような感じで、まったく現実的ではなかった。
 しかしアイオン台風の水害で祖母が亡くなっており、うちの親父は湾の対岸の白○(地名)まで屋根に乗って流されたそうなので、とにかく水害は侮れない。
特に私の住んでいる藤○(地名)は、水害に関しては被害が大きくなる方だと常に肝に銘じている。
 
 家から徒歩五分も無いくらいの距離の海へ行くと、顔見知りの漁師さんや近所の人達が5mぐらいの高さの防潮堤(海面からは8mぐらい?)の上から見物していた。
サイレンが鳴り響いて「海には近づかないで下さい」と言ってはいたが、百聞は一見にしかず。
好奇心が勝る。というかこっちは正直ワクワクだった。
「どんな感じ???」と漁師さんに聞くと「来てる。高い時はあの高さ」と一番近い前方の堤防を指差した。
なるほど、堤防にはコンクリートが濡れた高さがくっきりと黒くなっていた。
「ほれ、さっきまであそこに居たうみねごがあっちまで流されたが!」
おお!確かにぐんぐん流されてる。引き波だ、おもしれぇ。
しばらく見ていたが寒いし飽きて来る。しかし波の引く力は早い。
これ、でかかったらアウトだな、と思ったぐらいだった。

 
 鍬ヶ○の街中に入ると静かで閑散としていた。さすがにここは防潮堤がないから逃げるしかねぇよなと思い、管材屋に着くと、いる。しっかり営業してる。(笑)
逃げねぇのかよ?、と思ったが来てる俺も俺だし。
品物を受け取り、国道45号を車で走っていると、藤○、磯○(地名)の交差点付近の水門も閉まり、分団員が監視しているのが見えた。
 作業をしている現場に着き、友人に「津波警報でてんのに鍬ヶ○に行かせっかよ」と言うと「津波来てたっけ?」と聞かれ「わかんね。とりあえず水門は全部閉まって分団が監視してんね」と答えた。
ま、大丈夫だべ…
その日の津波の高さは60cmぐらいだったと思う。