「航跡」ー NHK出版
ブラジルの歌手が10人ほど続いたので違う話題を。
1968年(昭和43年)3月2日午後3時。
横浜港大桟橋。移民船アルゼンチナ丸。
南米移住者136名を含む300名がこの船で
日本を出国する。その中の一人に僕の先輩がいた。
その見送りで僕は大桟橋に来ていた。
当時海外移住者は少なくなって来ていたが
それでもまだ移住するひとはいた。
同時に船による観光で海外に出るひとも
いたから海外移住者と観光客がこの船に
乗船していたのだ。
日本人の海外旅行が自由化になったのが
1964年4月1日。しかし年に一回で持ち出し
金額が500ドルまでとか厳しい条件があった。
まだまだ海外旅行が一般的になってはいなかった。
アルゼンチンまでの49日を撮影するために
NHKの番組クルーがこの船には乗船していた。
そのことは知らずに、見送りのため僕は
大桟橋にいた。桟橋を埋め尽くすばかりの
ひとの中のひとりだった。
その番組「乗船名簿AR29次航海」は
移民のドキュメンタリーとして後にNHKで
放映された。白黒フィルムだ。
さらに番組は移住者たちのその後を追う。
現地取材を含めおよそ10年毎に3回番組が
制作され国内外で大変な反響があった。
見出し写真は31年後の移民を扱った本である。
移住はしたものの夢破れて帰国したひともいれば
現地で結婚して大家族を持ち成功したひともいる。
また病気により現地で亡くなったひともいる。
後で知ったことだが、後にサンパウロのガルボン
ブエノで明石屋商会を開く尾西さんもこの船に
乗船していた。
宝石商をしていたが今は息子さんが違う商売をされて
いるようだ。長年にわたる現地の邦人への福祉功労が
認められ日本政府から尾西さんに旭日単光章が贈られている。
300ドル持って横浜を出港した青年尾西が後に叙勲されたの
である。
一級上の先輩がこのアルゼンチナ丸に乗船していた。
メキシコ五輪の通訳として行く予定だった。ところが
途中のロスアンゼルス滞在中に見つけた仕事から
人生が変わる。
初めは日本の古美術を扱う仕事だったがそこから壁紙
を扱う仕事になりついには会社を立ち上げ今や大会社
にまで発展した。
ひとりはサンパウロ、もうひとりはロスアンゼルスで
成功して名を成したのだ。
アルゼンチナ丸が出港する日、誰がこんな事を想像
出来ただろうか。
恐らくは帰ることもない南米への移住。
見送る側にも見送られる側にも不安と期待が
入り混じる。途方も無い別離感が桟橋と船
の間に重たく漂う。
五色のテープが舞い桟橋は見送る人で溢れて、
今生の別れとばかりに声を張り上げ、元気でねー!
身体に気をつけて!手紙書いて!と涙にくれ
千切れるばかりにハンカチや国旗を振る。
行って来まあす、サヨナラァ。
行ってらっしゃーい、サヨナラァ。
声にならず嗚咽に肩が震える。あちこちで
泣き崩れる姿が。
やがてアルゼンチナ丸はゆっくりと大桟橋
を離れて行った。
背後から聞こえていたシエリトリンドが
悲しく残った。
何十年も経ってこのときの様子がテレビで放映される
とは想像すら出来なかった。
ブラジルの歌手が10人ほど続いたので違う話題を。
1968年(昭和43年)3月2日午後3時。
横浜港大桟橋。移民船アルゼンチナ丸。
南米移住者136名を含む300名がこの船で
日本を出国する。その中の一人に僕の先輩がいた。
その見送りで僕は大桟橋に来ていた。
当時海外移住者は少なくなって来ていたが
それでもまだ移住するひとはいた。
同時に船による観光で海外に出るひとも
いたから海外移住者と観光客がこの船に
乗船していたのだ。
日本人の海外旅行が自由化になったのが
1964年4月1日。しかし年に一回で持ち出し
金額が500ドルまでとか厳しい条件があった。
まだまだ海外旅行が一般的になってはいなかった。
アルゼンチンまでの49日を撮影するために
NHKの番組クルーがこの船には乗船していた。
そのことは知らずに、見送りのため僕は
大桟橋にいた。桟橋を埋め尽くすばかりの
ひとの中のひとりだった。
その番組「乗船名簿AR29次航海」は
移民のドキュメンタリーとして後にNHKで
放映された。白黒フィルムだ。
さらに番組は移住者たちのその後を追う。
現地取材を含めおよそ10年毎に3回番組が
制作され国内外で大変な反響があった。
見出し写真は31年後の移民を扱った本である。
移住はしたものの夢破れて帰国したひともいれば
現地で結婚して大家族を持ち成功したひともいる。
また病気により現地で亡くなったひともいる。
後で知ったことだが、後にサンパウロのガルボン
ブエノで明石屋商会を開く尾西さんもこの船に
乗船していた。
宝石商をしていたが今は息子さんが違う商売をされて
いるようだ。長年にわたる現地の邦人への福祉功労が
認められ日本政府から尾西さんに旭日単光章が贈られている。
300ドル持って横浜を出港した青年尾西が後に叙勲されたの
である。
一級上の先輩がこのアルゼンチナ丸に乗船していた。
メキシコ五輪の通訳として行く予定だった。ところが
途中のロスアンゼルス滞在中に見つけた仕事から
人生が変わる。
初めは日本の古美術を扱う仕事だったがそこから壁紙
を扱う仕事になりついには会社を立ち上げ今や大会社
にまで発展した。
ひとりはサンパウロ、もうひとりはロスアンゼルスで
成功して名を成したのだ。
アルゼンチナ丸が出港する日、誰がこんな事を想像
出来ただろうか。
恐らくは帰ることもない南米への移住。
見送る側にも見送られる側にも不安と期待が
入り混じる。途方も無い別離感が桟橋と船
の間に重たく漂う。
五色のテープが舞い桟橋は見送る人で溢れて、
今生の別れとばかりに声を張り上げ、元気でねー!
身体に気をつけて!手紙書いて!と涙にくれ
千切れるばかりにハンカチや国旗を振る。
行って来まあす、サヨナラァ。
行ってらっしゃーい、サヨナラァ。
声にならず嗚咽に肩が震える。あちこちで
泣き崩れる姿が。
やがてアルゼンチナ丸はゆっくりと大桟橋
を離れて行った。
背後から聞こえていたシエリトリンドが
悲しく残った。
何十年も経ってこのときの様子がテレビで放映される
とは想像すら出来なかった。
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