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ラテントピック一語一絵 その28

2022-07-01 11:58:03 | ラテントピック・一語一絵
Louis Moreau Gottchalk

ルイス・モロー・ゴットシャルク
ニューオリンズ、アメリカ 1829-1869


歴史的背景を少し。
ゴットシャルクが生まれたのは文政12年、徳川12代将軍家斉の頃だ。また彼が
リオデジャネイロで客死した年は日本の歴史的には明治2年になる。
明治新政府にはまだ西洋音楽を教える学問としての体系が整っていなかった頃だ。
文部省の音楽取調掛と言う教育機関の出来るのはもう少し後になる。この音楽取調掛の
設立にあたり、教育としての音楽に関する意見書を当時の文部省に提出していたのが
後に政治家になるハーバード大学出の男爵目賀田種太郎で、国際連盟の第一回総会に
国連大使として参加、このとき同行した息子の綱身はフランスに残りパリの社交界で
タンゴを覚え帰国後日本にタンゴを広めている。

冒頭から余談だ。

ゴットシャルクは後にジャズが生まれる土壌のあるニューオリンズの裕福な家庭に
生まれた。父親はユダヤ系ドイツ人で9か国語を話せハーバード大学で学んでいる。
母や祖母や乳母もクレオールでクレオールの居住区に住み日常的にフランス語を話した。
3才からピアノを習い早くから天才ぶりを発揮している。彼の住居からすぐのところに 
コンゴ・スクエア、現在のルイ・アームストロング公園があり、やがてジャズへと変化
して行くクレオール音楽文化の強い地域だった。アフリカ系のダンスや打楽器の集まり
にストリートミュージシャンが多い。あちこちに音楽が溢れているところだが、一方で
ハリケーンの通り道でも名が知られている。

キューバとニューオリンズの音楽の近似性について研究している外国の方も見受けられる。
地理的には意外と近く、船でハイチ辺りからニューオリンズに流れついた人間はかなり初期
の頃からいたことからも長期に渡れば音楽に相似性が出て来る。音楽の伝播と文化人類学
はこれだから面白い。距離にしてわずか694マイルしかないことからも人間の往来はかなり
早い時期からあったのだ。

この時代のクラシック音楽はヨーロッパ、特にフランスが本場でパリの音楽院で
学ぶことが重要で、ゴットシャルクも13才の時に母と渡欧したが結局音楽院に入る
ことは出来なかった。才能的なことではなく国籍的な問題で入学が許されなかった
らしい。

この時の旅が、後の彼の音楽家人生の大半を占める海外演奏旅行の序曲になるとは
思ってもいなかっただろう。

ざっと足取りを追うと、

1841 母親とヨーロッパに渡る。
1849 パリでコンサートデビュー。ことのほかスイスとスペインで好評を得る
     ショパンから絶賛される。
1853 ニューヨークに戻る。クレオールのショパンと迎えられる。
1854 キューバやプエルトリコに長期に滞在。キューバでイグナシオ・セルバンテスに
     ピアノを教える。
1864 リンカーン大統領に御前演奏をする。
1865 パナマ、チリ、ペルーにブラジルに滞在。
1869 リオデジャネイロで病死

1858年に完成したLa nuit des tropiquesは「熱帯の夜」と
題され250人の楽器や200人の合唱団など600人前後の
大規模なコンサートだった。前代未聞な規模だ。

若干40才でのブラジルでの客死だった。このため多くの作品が未出版のままになって
いるようだ。カリブや中南米の土着の音楽から影響を受けながらもショパンら当時の音楽家
たちの曲調も漂う。

ブラジルのピアニスト、ナザレは明らかにショパンを意識しているが、当時
リオデジャネイロに滞在し人気を博していたゴットショルクからもまた影響を受け
ている。ゴットシャルクはヨーロッパに戻り演奏することを選ばなかった、結局
中南米を主な演奏地域にしていた。

40年の音楽家人生のほとんどを海外で過ごしている。行く先々では必ずしも
恵まれた興行では無かったようだ。1956年にはそれまでゴットシャルクを
支えていた母親をパリで亡くしている。また父親の死も演奏先で知らされて
いる。

南北戦争時には早くから北軍を支持し1864年にリンカーン大統領に御前演奏を
しているしこの辺りが音楽家として一番華やかだった。やがてスキャンダルを
起こしアメリカを後にするが、彼は身に覚えのないことだと否定している。
そのほとんどを中南米で過ごした波瀾万丈な音楽家人生と言っても良いと思う。

キューバの作曲家イグナシオ・セルバンテスは日本ではまだあまり知られていないが、
その少年時代にピアノの手解きをしたゴットシャルクについてはもっと知られて
いない。外国で若死したため作品の多くが未発表なこともあるがちょっと残念だし、
時代に埋もれてしまった感じもしなくは無いが、いわゆる「超絶技巧」を駆使した 
ピアノは決して色褪せることは無い。時代的にはリストも感じさせる。あの時代の
アメリカ人ピアニストとしてもっとスポットライトが当たっても良い。

テーマの多様性の広さに驚かされるが、ヨーロッパ、中米に南米諸国を演奏旅行した
ことによる各国の庶民レベルの音楽も反映させている。40年と言う人生を駆け抜け
サッと消えてしまった印象すらうかがえる。

「ラテントピック一語一絵」をしばらくお休みしていた。
最後に書いたのはイグナシオ・セルバンテスだから一年以上経過したかな。
ちょうど身内のひとりに不幸があり意気消沈して、モチベーションが下がり
そのままダラダラと時間が過ぎたと言う次第だ。たまたまこのゴットシャルク
のことがずっと気になっていて、やっと重い腰を上げて取り上げてみたと
言う訳で、ブログの書き方とか写真の取り込み方とかもすっかり忘れてしまい
苦労した。再開したとも言えず月一位のペースにするかな、すっかり面倒に
なってしまった。字は小さいし書き間違えもありそう。ダメだねえ。
年のせいにしよう。記憶力も低下中。

全く関係の無い話だが、浅草公会堂でロス・インディオスのコンサートが
あり見て来ました。かつてはラテンのボーカルグループはいくつもあったが
最近は全く聞きません。そもそもラテン音楽と言うジャンルが無くなって
来ましたから。パンチョス全盛の頃なんか懐かしいな。何と言っても
レキントだからね。この延長線上での大ヒットが鶴岡雅義と東京ロマンチカ
の「小樽のひとよ」だからね。そう言えば今レキントを見ないや。
このヒットの前には黒沢明とロスプリモスの「ラブユー東京」がヒットしていて
ムード歌謡コーラスのハシリだった。どちらも女言葉でね。ハワイアン系だと
マヒナ・スターズでこちらもスティールギターでハワイアンの味付けを残して 
歌謡曲路線にして成功したけどね。ムードコーラスグループは書き出したら
キリが無いからこの辺にするけど時代変遷的に見ると面白い。

ロスインのリードボーカルの棚橋さんもまだまだ声が出るよ。
あれなら当分営業が出来るのでは?
(追記:棚橋さんは2023年に死去されました)
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