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ラテントピック一語一絵  その30

2022-09-01 17:11:23 | ラテントピック・一語一絵
Ramón “Mongo” Santamaría Rodríguez

ラモン モンゴ サンタマリア ロドリゲス

1919-2003

キューバ ハバナ生まれ。パーカッショ二スト
コンガプレーヤー。

そろそろキューバでは無くて他の国にしようかと思ったけど結局また
キューバになっちゃった。キューバと言えば打楽器だからこのひとを忘れる
わけには行かない。日本のラテンパーカッショ二ストならこのひとに憧れた
ひとも多いだろう。

子供の時からバイオリンを習い、後にドラムに進むが早くから才能を
示し10代でハバナのいくつかのクラブで演奏をしていた。キューバは
ストリートミュージシャンが多く、しかもルーツをアフリカに持つリズムが
少なくない。モンゴ・サンタマリアもストリートミュージックシャンに
憧れそこから音楽を学んだ少年の一人だった。

「当時キューバにはアフリカのすべての音楽があった。それを我々の感覚に
合わせて変えて演奏してみたんだよ」後にモンゴ・サンタマリアはこんな趣旨
のことを述べている。ルンバやソンなど書き出せばキリがない くらいアフリカに
ルーツを持つリズムがキューバにはある。

1940年にはハバナで有名なトロピカーナクラブでコンジュント・マタモロスとか
コンジュント・アスルで演奏をしている。結構あちこちのクラブに出ている。
当時有名だったBenny Moré Bandでコンガを叩いていたClemente "Chicho''
Piqueroはモンゴ・サンタマリアのボンゴ・コンガの師匠筋になる。

1948年にはペレス・プラドと共にメキシコで演奏しているが、この時Chichoは
都合で参加出来ずモンゴ・サンタマリアを代わりに推薦している。他のキューバン
ミュージシャンと演奏している。ペレス・プラードとはギャラ絡みで長く続かな
かったようだ。

また1950年から6年間にわたりティト・プエンテ楽団のコンガ担当として
ニューヨークにも同行しているし、ティト・プエンテのティンバレスとモンゴ・
サンタマリアのコンガの打楽器バトルは見応えがあったろう。

前カストロ時代にすでにキューバを代表するパーカショニストとして
知られるようになり特にラテンアメリカのジャズバンドの中でも名を知られ、
ラテンアメリカジャズバンドと言うのも可笑しな言い方だが、当時のアメリカ
のミュージックシーンはまだまだジャズの色が濃く、音楽ビジネスと言えば
ジャズ絡みであり、アメリカのラテンアメリカ人世界、特にミュージシャンに
もその影響があった。

乱暴な言い方だが、ボサノバが流行りだす前のブラジルでもジャズが受けていた 
時期があった。ジョニー・アルフなんかもジャズ好きだ。アメリカのヴァーヴ
レコードの敏腕プロデューサー、クリード・テーラーが旗を振って売り出した、
チャーリー・バードとスタン・ゲッツのボサノバだって”ジャズ・サンバ”と言う
レコードで、そもそもはAC・ジョビン原曲だった。クロスオーバーとかフージョン
とか新しい表現にして新鮮さを表に出しボサノバは大ヒットになった。
戦後の日本だって似たようなものだ。それまでの民謡っぽい流行歌や浪曲風の流行り
歌から洋楽っぽい作曲に変わって行く。昭和30年代後半はまさしく洋楽な味付け
の楽曲で当時の作曲家達はアメリカから入る流行歌を片っ端から聞いて作曲していた。

ともあれまだまだジャズ色の強いアメリカのミュージックシーンにアクの強いキューバ
のアフロの音色を加え新鮮なラテンサウンドにしたのがモンゴサンタマリアと言っても
良いだろう。

何年かカリフォルニアで生活した後、1962年にニューヨークのブロンクスのキューバ
系のクラブでの演奏で、それまで一緒に組んでいたチック・コレアが抜けてしまい急遽
トラで入ったハービー・ハンコックがピアノを担当して(本人曰く)少しファンキーなジャズ
を始めたら、モンゴ・サンタマリアがコンガでビートを叩き出した。他のミュージシャンも
ノリを感じ演奏し始めたらこれが見事にハマり、客は立ち上がり踊りだすという感動的な
伝説ライブになったことがあった。この時のトランペットはDonald Byrdでハービー・
ハンコックをメンバーに入れた本人で、ハンコックとサンタマリアがアメリカとキューバ
系のジャズの話しになり、Donald ByrdがハンコックにWatermelon Manを弾かせて
みせたのが始まりだったらしい。モノのキッカケなんてこんなものだ。

これが後にレコード化されて大ヒットとなった”Watermelon Man”の始まりでジャズのスタン
ダードにもなっている。これはハービー・ハンコックの作曲で少年時代に聞いていたシカゴの
スイカ売りの歌が元になっているが物売りの口上や歌はどこの国でもあるね、♪ピーナッツ〜の
南京豆売りもそう。マニセロだね。通りかがりのひとに聞いてもらう呼び声や口上が歌になる、
プレゴンだね。コンパードレスは日本の焼き芋屋をレコードにしている。
Watermelon Manはラジオ放送向けには3分に修正したらしいが、ハービー・ハンコックが 
スタジオ録音したTakin'Offに収録された。それをモンゴ・サンタマリアがカバーして メガ
ヒットとなった。

ハービー・ハンコックにとってはDonald Byrdは恩人みたいな存在で音楽ビジネスのイロハを
教えて貰ったと言っても外れではないだろう。それはともかく、この”Watermelon Man”の
大ヒットはモンゴ・サンタマリアの人気をも決定的なものにした。

随分昔だけど、ハービー・ハンコックがピアノを弾きWatermelon Manでサントリーの
ウイスキーのテレビコマーシャルをしてたのを見たことがある。大昔はサントリーではなく、
洋酒の寿屋だっだけど、知ってる人の方が少なくなって来たよ。

モンゴ・サンタマリアはサルサミュージシャンとの共演も多い。一時期ファニア・オール・
スターズのメンバーでもあった。アフロキューバンからラテンジャズ、ポップスと守備範囲の広い
ミュージシャンだった。Tito Puente との共演とかヒット曲のAfro Blueとか、Ray Barrettoとか
共演等色々ある、PachangaだのSon MontunoだのArsenio Rodríguez とかとか、掘り下げ
なきゃならないしさ。また書き切れなくなるからこの辺にしておくよ。

何とか絵になった感じがする。上手く描けない時は何回描いてもダメで納得が行かない。
とにかく初めに絵ありき、だから文章が出来上がっていても絵がないとアップ出来ない。
アンドレ・セゴビアとかユパンキとか実際に会ったひとはイメージが強く残っている
のでまだ描く線に想いが出せるので何とかなるが、あんまり昔のひとになると描き易い
写真が殆ど無い。これが一番困るよね。そう言う意味ではモンゴ・サンタマリアは
結構参考になる写真が多いのでまずまずの仕上がりになってホッとしている。

余談だけど、モンゴ・サンタマリアと言えばコンガだが、コンガと言えばマイアミ・
サウンド・マシーンの「コンガ」を思い出す。グロリア・エステファン(この人も
キューバ出身)と組んで1986年第15回東京音楽祭で金賞受賞した曲だ。ゲストがハリー・
ベラフォンテでね。あの日は朝から夜まで会場の武道館にいたから強く印象に残って
いる。疲れた一日だった。






















































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