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築地魚河岸

2005-03-18 14:58:43 | その他
私は勤め先の大手町から週に2回ほど築地に出かけて行く。
これは前にも書いた。朝、定時に大手町に出社してそれから築地に
出かけて行くのである。

築地の私の職場のすぐそばには場外市場(魚河岸)がある。
築地といえばまず魚河岸を連想するほどで、築地へ行って来た、
と言うと、魚河岸に行った、とたまに勘違いされることもある。
朝早くから買出しに来るひとたちが忙しそうに行き来している。
人々が動き回って活気に満ちている。

東京では魚河岸、魚市場と言えば築地ということになっているが、
もともとは日本橋にあったのだそうだ。亡くなった母親からも、
良く日本橋の魚河岸で魚を買った、と聞かされたことがある。
勿論戦前の話で、現在の築地の場所に日本橋から移って来たのは、
昭和10年頃のことだと言う。もう70年も前のことだから、まだ
記憶にあるというかたは相当にご高齢のかたということになる。

そもそも日本橋に魚河岸があったのは古く江戸時代からのことだ。
それで日本橋には魚市場発祥の地として魚市場記念碑が残って
いる。

では何故築地に移ったのだろうか。それには築地がいつごろからある
のかを知る必要も出てくる。

徳川家康が江戸に来た頃は、築地のあたりはまだ海に近く湿地帯が
多くて武家屋敷や寺社はなかったと思われる。
ところが、別名振袖火事とも呼ばれる明暦の大火で江戸中が焼き
払われ、新たに土地整理やら拡大をする必要が出てきた。
そこで江戸幕府は築地のあたりを開墾して整地をし、焼け出された
寺社を移したのである。その時に土を築いて開拓したことから築地
という名前が生まれたとされている。従って築地という名前はこの
頃から使われていたようだ。

一方、日本橋は当時のメインストリートである十軒店に繋がる
中心的な橋であり、ここには江戸前の海から多くの海産物も届き、
海運上からも海産物の揚地となり市がたち商いが盛んになって
いった。

やがて時代を経て明治から大正になると、衛生的な見地からや、
経済の発展やらでさらに広い土地が必要になってくる。
やや手狭になっていたのである。そこへあの関東大震災が起きる。
新たに道路区画や土地の再編成が必要になった。

日本橋の河岸も一時的に芝浦に引っ越すこととなる。
寺社の多い築地にも新たに区画整理をして整地をさせた。
それでそこに魚河岸をもってきたのだと聞く。

当時は海産物は船でも河岸へ運ばれていたから、陸揚げのために
船が着きやすいことが条件のひとつでもあった。
これが昭和10年頃のことだった。

そういえば小学校の遠足で勝鬨橋の見物に行った昔に、築地の
魚河岸の隅田川に面しているあたりで、海産物を積んでいるような
船がいたようなことを覚えている。荷揚げの船だったのだろう。

ともあれ爾来築地は都民の魚河岸として親しまれてきたが、
将来また他の場所に移す計画があると聞く。

日本橋から築地と名前を変えながらも都民に利用されて来た
魚河岸はまたまた引越しの運命にある。

大手町から地下鉄に乗り、築地の駅で降り地上に出ると
築地市場が目の前に見える。
今度はどのような魚河岸になるのだろうか。
築地に来る度に築地が歩んできた過去に想いをはせてしまう。
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