これは、前項と関連がある。
――なかなか成績が伸びない――このことは、実は今のあなたが問題なのではなく、もっと根本的なところに原因がある場合もある。もっと言えば、あなたが今までどのように生きてきたか。その集大成として、「成績が伸びない」という現状が生まれている可能性があるのだ。
前項で、「理解力がある人は、素直な人である」と書いた。ここではそれをもっと深くして、人間を「明の人」と「暗の人」に分けてみたい。
ちなみに、これは性格が明るい、暗い、という意味ではない。言葉にはできない深いことなので、その意味は、この項で感じ取って欲しい。
私は、それなりにトシを食って若い人を指導する立場になってきた。これから書くことは、そうした中で感じたことである。
それがまさに、「人間には、明の人と暗の人の二種類がいる」ということなのだ。
明の人は、その将来が明るいことが手に取るように分かる。今は若くて未熟かもしれないが、きっと、経験を積めば驚異の存在になるであろう。
逆に、暗の人は、つまらないオヤジ、オバサンになるであろう。
では、暗の人について書いてみよう。
暗の人は、人間的に小さく、包容力がない。そして何かあるたびにマイナスの方向に考える。人の優しささえも、マイナスの方向で捉えてしまうのである。
たとえば、暗の人が、あまり良くないことをしていたとしよう。そしてそのことに気付いていないとしよう。
このとき、まわりが注意したら、間違いなく暗の人は、ふてくされてしまう。だから、まわりはなるべく注意しないで、静観する。
ところが、まわりが静観したまま、ある日、その本人が、自分の間違いに気付いたとしよう。このとき、暗の人は必ずこんなことを言う。
「何で注意してくれなかったんだ」
と。
注意したらふてくされる。かといって注意しなくてもふてくされる。もう、誰も何もできなくなってしまう。だから、まわりは離れていく。そしてますます暗の人は「暗」になってゆく。
また、こういうケースもある。それをサッカーにたとえてみよう。
ある選手が試合中に個人技に走り、失敗したとする。このとき、監督は「チームプレイを大事にしろ」と叱るだろう。
とはいえ別の試合で、同じ選手が、言われたとおりチームプレイに徹した結果、ゴールを逃したとき、監督はこう言うかもしれない。
「あそこは、個人の力で押し切る場面だ。」
と。
つまり、矛盾したことを言ったわけだ。しかし、これには深い意味がある。
監督は、選手よりもサッカーで「ある域」に達している、しかし、いきなりその「ある域」を要求しても、選手には理解できないから、とりあえずの方針として、「チームプレイ」を掲げるわけだ。
最終的には、ケースバイケースで、チームプレイが大事だったり、個人技が大事だったりする。どういう場面でどっちが重要かは、教えられるものではない。まさに微妙な「さじ加減」なのだ。
監督は、こう説明する。
「たしかに、チームプレイを強調したが、それは君が将来、自分で状況判断できるようになるための、足がかりとして掲げた方針だ。最終的には、チームプレイよりももっと上の段階がある。」
と。
つまり監督としては、選手に何も考えず機械的にチームプレイに徹して欲しいのではなく、その方針の中で自分で考え、ついには「サッカーのさじ加減」を習得して欲しいと願っているわけだ。
ところが、暗の人は、
「監督は、あのときはこう言ったし、別のときはああ言った。」
といつまでも浅い部分で停滞し、その先を見ようとしない。だから、伸びない。
どんな分野でも、初心者には分からない「ある域」というものが存在する。指導者は、その「ある域」について必死で説明しようとする。説明が上手い人もいるだろう。また、下手な人もいるだろう。しかし、皆、伝えようとしていることは同じである。
たしかに、あるレベルまでは、誰かの指導によって行くことができるだろう。しかし、それだけでは「ある域」に達することはできない。結局、自分の力が必要なのだ。
指導者が言うことを、まずは信じてみる。そして実践してみる。そうしながら、自分で考えていく。そうしていつか「ある域」に達するのだ。
「暗の人」はいつの時代にもいるが、特に今のような「情報化世代の」暗の人は、自分は未熟なくせに、世の中にはびこる様々な理論にはやけに詳しい。だから、「あの本ではこう書いてあった」「あの人はこう言っていた」といって自分の指導者を信用しない。
指導者が唱える理論は、初心者に分かりやすく説明するために用意された「仮の理論」である。だから、他の人の理論と違うこともあるし、それどころか自分が過去に唱えた意見にさえ矛盾することもある。
――叱られる・批判される・理不尽なことを言われる・矛盾する意見に出会う――これらは皆、不快なことである。しかし同時に、成長のために必要なことである。
ところが暗の人は、「今の不快」に耐えきれずに、すぐ他のものに頼ったり、怒ったり、アドバイスに耳を傾けなくなったりする。こんなことを繰り返していると、まわりは何も言ってくれなくなる。
とはいえ、心ある人は、それでも親身になって叱ったり、意見を言うかもしれない。しかしそれによってますます暗の人は塞いでしまう。自分が批判されたという不快から逃れようとする。
一方、「明の人」は、言われたことの意味を考える。だからまわりの人は、これからもどんどん意見を言ってくれるようになる。
もちろん、明の人でも、不快に対して一時的に腹を立てることはあるだろう。しかし、かならず後で冷静になって考える。だから、アドバイスをくれた人とのわだかまりも消える。
指導者にしてみれば、伝えたいことが伝わるかどうかは別として、少なくとも、明の人は受け取ってくれる。その安心があるから、「今は未熟でも、将来は必ず成長する」と期待をかけることもできるのだ。
私自身の経験を書こう。
私が明か暗かは分からないが、少なくとも子供の頃は「素直」ではあった。ところが、浪人する頃の年齢になって知恵がつきはじめたとき、私は間違いなく「暗の人」になった。
様々な受験理論が語られ、私はそれを取り入れた。書店に行けば膨大な数の参考書がある。それらを無意味に批判したりした。
特に、「分かりやすい系」の本に書かれてあったことを信用して模擬試験で失敗したときは、詐欺師に会ったように腹を立てた。
しかし、冷静になれば、腹を立てるようなことではないことが分かる。つまり、何かを分かりやすく説明するためには、例外を排除したり、極論化したり、強引なルールを作ったりしなければならない。それでカバーしきれないことは、当然、出てくる。
だが、「とりあえずの理解」として、それら「仮の理論」は自分の中に取り込みやすいことは事実である。だから、たった数問のミスで腹を立ててはいけないのだ。むしろ、感謝しなければならない。
今、私は自戒も込めてこの文章を書いている。若い人を指導するときに感じる「暗の人の情けなさ」は、実は自分自身にもあるかもしれない。私は、それなりに長く生きてきて、色んなことを知ってしまった。だからこそ、変に自分に自信も持ったり、人の意見に耳を傾けなかったりすることもある。これでは、人間的に成長しない。
私は、明の人でありたい。そうあれば、いつか知識も、技術も、人間性も、尊敬すべき人になれる。
ネット社会である現在、受験世代は昔より賢くなっている。が、私には、その賢さが、受験生を悪い方向へ導いているように見える。例えるならば、幹が細いままで膨大な実がなっているリンゴの木のように、実の重みで今にも幹が折れてしまいそうに見えるのだ。
もしかすると、少年の異常な犯罪が多いのは、情報を頭に取り入れすぎた若者が、それを処理しきれなくなって混乱し、ついには幹がぶった切れてしまうからかもしれない。
不登校や、違法ドラッグ問題の原因も、そこにあるのかもしれない。
だが、明の人であれば、こんなことにはならないはずだ。物事は、深い部分を探れば、結局はひとつの場所に行き着くのだ。情報が散乱しているということは、それぞれの情報は深いものではなく、浅いものであることの証明でもある。だから、いちいち矛盾や、批判に腹を立てずに、それをしっかりと受け止めて、先にある深いものが何か、自分で考えてみよう。
小さな頃から明の人である人は、「先にある深いもの」を捉える嗅覚に優れている。だから、理解力もあるし、上達も早い。
もちろん、成績が伸びやすい人の全員が小さな頃から明の人であったわけではない。単に才能や適正が受験に合っているケースもある。
しかし、それでもやはり成績がすぐ伸びる人というのは、「小さな頃から明の人」であるというケースも多いのだ。だからもし、現在のあなたが「伸びが悪い人」ならば、もしかしたら「小さな頃から暗の人」だったのかもしれない。
だとすればそれはおおいに反省すべきである。
――なかなか成績が伸びない――このことは、実は今のあなたが問題なのではなく、もっと根本的なところに原因がある場合もある。もっと言えば、あなたが今までどのように生きてきたか。その集大成として、「成績が伸びない」という現状が生まれている可能性があるのだ。
前項で、「理解力がある人は、素直な人である」と書いた。ここではそれをもっと深くして、人間を「明の人」と「暗の人」に分けてみたい。
ちなみに、これは性格が明るい、暗い、という意味ではない。言葉にはできない深いことなので、その意味は、この項で感じ取って欲しい。
私は、それなりにトシを食って若い人を指導する立場になってきた。これから書くことは、そうした中で感じたことである。
それがまさに、「人間には、明の人と暗の人の二種類がいる」ということなのだ。
明の人は、その将来が明るいことが手に取るように分かる。今は若くて未熟かもしれないが、きっと、経験を積めば驚異の存在になるであろう。
逆に、暗の人は、つまらないオヤジ、オバサンになるであろう。
では、暗の人について書いてみよう。
暗の人は、人間的に小さく、包容力がない。そして何かあるたびにマイナスの方向に考える。人の優しささえも、マイナスの方向で捉えてしまうのである。
たとえば、暗の人が、あまり良くないことをしていたとしよう。そしてそのことに気付いていないとしよう。
このとき、まわりが注意したら、間違いなく暗の人は、ふてくされてしまう。だから、まわりはなるべく注意しないで、静観する。
ところが、まわりが静観したまま、ある日、その本人が、自分の間違いに気付いたとしよう。このとき、暗の人は必ずこんなことを言う。
「何で注意してくれなかったんだ」
と。
注意したらふてくされる。かといって注意しなくてもふてくされる。もう、誰も何もできなくなってしまう。だから、まわりは離れていく。そしてますます暗の人は「暗」になってゆく。
また、こういうケースもある。それをサッカーにたとえてみよう。
ある選手が試合中に個人技に走り、失敗したとする。このとき、監督は「チームプレイを大事にしろ」と叱るだろう。
とはいえ別の試合で、同じ選手が、言われたとおりチームプレイに徹した結果、ゴールを逃したとき、監督はこう言うかもしれない。
「あそこは、個人の力で押し切る場面だ。」
と。
つまり、矛盾したことを言ったわけだ。しかし、これには深い意味がある。
監督は、選手よりもサッカーで「ある域」に達している、しかし、いきなりその「ある域」を要求しても、選手には理解できないから、とりあえずの方針として、「チームプレイ」を掲げるわけだ。
最終的には、ケースバイケースで、チームプレイが大事だったり、個人技が大事だったりする。どういう場面でどっちが重要かは、教えられるものではない。まさに微妙な「さじ加減」なのだ。
監督は、こう説明する。
「たしかに、チームプレイを強調したが、それは君が将来、自分で状況判断できるようになるための、足がかりとして掲げた方針だ。最終的には、チームプレイよりももっと上の段階がある。」
と。
つまり監督としては、選手に何も考えず機械的にチームプレイに徹して欲しいのではなく、その方針の中で自分で考え、ついには「サッカーのさじ加減」を習得して欲しいと願っているわけだ。
ところが、暗の人は、
「監督は、あのときはこう言ったし、別のときはああ言った。」
といつまでも浅い部分で停滞し、その先を見ようとしない。だから、伸びない。
どんな分野でも、初心者には分からない「ある域」というものが存在する。指導者は、その「ある域」について必死で説明しようとする。説明が上手い人もいるだろう。また、下手な人もいるだろう。しかし、皆、伝えようとしていることは同じである。
たしかに、あるレベルまでは、誰かの指導によって行くことができるだろう。しかし、それだけでは「ある域」に達することはできない。結局、自分の力が必要なのだ。
指導者が言うことを、まずは信じてみる。そして実践してみる。そうしながら、自分で考えていく。そうしていつか「ある域」に達するのだ。
「暗の人」はいつの時代にもいるが、特に今のような「情報化世代の」暗の人は、自分は未熟なくせに、世の中にはびこる様々な理論にはやけに詳しい。だから、「あの本ではこう書いてあった」「あの人はこう言っていた」といって自分の指導者を信用しない。
指導者が唱える理論は、初心者に分かりやすく説明するために用意された「仮の理論」である。だから、他の人の理論と違うこともあるし、それどころか自分が過去に唱えた意見にさえ矛盾することもある。
――叱られる・批判される・理不尽なことを言われる・矛盾する意見に出会う――これらは皆、不快なことである。しかし同時に、成長のために必要なことである。
ところが暗の人は、「今の不快」に耐えきれずに、すぐ他のものに頼ったり、怒ったり、アドバイスに耳を傾けなくなったりする。こんなことを繰り返していると、まわりは何も言ってくれなくなる。
とはいえ、心ある人は、それでも親身になって叱ったり、意見を言うかもしれない。しかしそれによってますます暗の人は塞いでしまう。自分が批判されたという不快から逃れようとする。
一方、「明の人」は、言われたことの意味を考える。だからまわりの人は、これからもどんどん意見を言ってくれるようになる。
もちろん、明の人でも、不快に対して一時的に腹を立てることはあるだろう。しかし、かならず後で冷静になって考える。だから、アドバイスをくれた人とのわだかまりも消える。
指導者にしてみれば、伝えたいことが伝わるかどうかは別として、少なくとも、明の人は受け取ってくれる。その安心があるから、「今は未熟でも、将来は必ず成長する」と期待をかけることもできるのだ。
私自身の経験を書こう。
私が明か暗かは分からないが、少なくとも子供の頃は「素直」ではあった。ところが、浪人する頃の年齢になって知恵がつきはじめたとき、私は間違いなく「暗の人」になった。
様々な受験理論が語られ、私はそれを取り入れた。書店に行けば膨大な数の参考書がある。それらを無意味に批判したりした。
特に、「分かりやすい系」の本に書かれてあったことを信用して模擬試験で失敗したときは、詐欺師に会ったように腹を立てた。
しかし、冷静になれば、腹を立てるようなことではないことが分かる。つまり、何かを分かりやすく説明するためには、例外を排除したり、極論化したり、強引なルールを作ったりしなければならない。それでカバーしきれないことは、当然、出てくる。
だが、「とりあえずの理解」として、それら「仮の理論」は自分の中に取り込みやすいことは事実である。だから、たった数問のミスで腹を立ててはいけないのだ。むしろ、感謝しなければならない。
今、私は自戒も込めてこの文章を書いている。若い人を指導するときに感じる「暗の人の情けなさ」は、実は自分自身にもあるかもしれない。私は、それなりに長く生きてきて、色んなことを知ってしまった。だからこそ、変に自分に自信も持ったり、人の意見に耳を傾けなかったりすることもある。これでは、人間的に成長しない。
私は、明の人でありたい。そうあれば、いつか知識も、技術も、人間性も、尊敬すべき人になれる。
ネット社会である現在、受験世代は昔より賢くなっている。が、私には、その賢さが、受験生を悪い方向へ導いているように見える。例えるならば、幹が細いままで膨大な実がなっているリンゴの木のように、実の重みで今にも幹が折れてしまいそうに見えるのだ。
もしかすると、少年の異常な犯罪が多いのは、情報を頭に取り入れすぎた若者が、それを処理しきれなくなって混乱し、ついには幹がぶった切れてしまうからかもしれない。
不登校や、違法ドラッグ問題の原因も、そこにあるのかもしれない。
だが、明の人であれば、こんなことにはならないはずだ。物事は、深い部分を探れば、結局はひとつの場所に行き着くのだ。情報が散乱しているということは、それぞれの情報は深いものではなく、浅いものであることの証明でもある。だから、いちいち矛盾や、批判に腹を立てずに、それをしっかりと受け止めて、先にある深いものが何か、自分で考えてみよう。
小さな頃から明の人である人は、「先にある深いもの」を捉える嗅覚に優れている。だから、理解力もあるし、上達も早い。
もちろん、成績が伸びやすい人の全員が小さな頃から明の人であったわけではない。単に才能や適正が受験に合っているケースもある。
しかし、それでもやはり成績がすぐ伸びる人というのは、「小さな頃から明の人」であるというケースも多いのだ。だからもし、現在のあなたが「伸びが悪い人」ならば、もしかしたら「小さな頃から暗の人」だったのかもしれない。
だとすればそれはおおいに反省すべきである。