早稲田に多浪しました--元浪人による受験体験記です。

二浪計画で早稲田に受かるはずが――予想外の「三浪へ」。
現実は甘くないっすね。

なんちゃって哲学―続き

2006年05月17日 | 各論
 ここから時代を一気に飛んでみよう。近代ヨーロッパの哲学を見てみたい。このあたりからが、私たちが「哲学」と聞いてよくイメージするものである。
 大きな流れとしては以下の三つだ。つまりイギリスの経験論、フランスの合理論、そしてドイツの観念論である。
 簡単に言えば、思想が「経験」というやや古代的な考えから、「合理」という近代的な考えへ進んでいき、ついにはそれらを融合させた「観念論」へ行ったのだ。
 イギリス経験論は、ベーコンやロックが代表的人物だ。様々な経験からひとつの法則を導き出す、「帰納法」を提唱した。
 フランス合理論は、デカルトとライプニッツが代表的人物である。そしてまさに、このデカルトの合理主義こそが、現代に続く「西洋的なものの考え方」の起源なのだ。
 この、合理主義の「理」とは、理性のことだ。ただ、注意してほしい。この「合理」とは、私たちがよく使う「合理的」という言葉とは、少し違うのだ。
 普通、私たちが「合理的」と使う場合は「無駄がない」、というような意味だが、ここではそうではなく、「人間にはもともと理性があるから、その人間の理性を信用しようではないか」というような意味なのだ。
 いわば、性善説にも似た意味を含んでいるのである。
 「合理主義」がニュースを騒がせた例としては、戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏がしばしば「合理主義」を批判していたことがあげられる。
 戸塚氏は、「人間にはもとも理性はない。だからその理性を教育によって作らなければならない」と主張していた。その中のひとつとして、体罰容認論も掲げたわけだが、マスコミはその「体罰」という言葉だけを切り取ってセンセーショナルに伝えてしまい、結果、戸塚氏の主張したいところと別の方向へと報道が向かってしまった。
 こういう報道になってしまった原因は、戸塚氏が世論を見方につける語り方を心得ていなかったこともあるが、それにしても戸塚氏は誤解されすぎた。

 戸塚氏の言うとおり、デカルトの合理主義、すなわち西洋的なものの考え方は、完璧ではない。その証拠に、人間の理性を信じた結果、様々な事件が起きている。特に、理性を形成することができていない少年の段階での犯罪は、未然に防げるものばかりである。私は、その意味においては戸塚氏の主張するところを支持したい。
 何も、西洋だけが素晴らしいのではない。東洋的なものの考え方も、同じくらい素晴らしいのである。これから、新時代へ向かっていく中で、この二つを融合することが、私たちの使命だと言えるかもしれない。

 さて、そのデカルトについてである。
 デカルトの言葉で有名なのが、「われ思う、ゆえにわれあり(コギト=エルゴ=スム)」である。この意味を書こう。
 ――真理というものは、疑う余地のないものでなければならない。こう考えると、世界のあらゆる物事は、いくらでも疑うことができる。しかし、自分が今疑っているということだけは、間違いないことだ。このことから、少なくとも「自我」というものは存在するはずだ――そういう意味の言葉である。
 デカルトの著書としては「方法序説」が有名だ。また、押えておきたいのは「物心二元論」という考え方である。これは、人間を、自我と肉体に分けた考え方である。

 次に、カントについてである。
 カントは、ドイツの哲学者だ。著書は「純粋理性批判」が有名で、これは現代の哲学者が一度は通る書だと言われている。
 カントは、経験論と合理論を批判して、観念論を唱えた。
 カントの特徴としては、批判的なことである。ことに、人間の認識能力を疑った。デカルトのように、人間の理性を信用するのではなく、人間が認識するものは主観的なものに過ぎないと説いたのだ。
 これはつまり、「目の前に見えるものの全て、たとえば山や海、といったものは、山や海そのものではなく、これは山だと人間が思いこんでいるという主観を通して認識されたものに過ぎない。だから、人間の理性や自我では、世界そのものを認識することはできないのだ」という考え方である。
 カントはこの先へ進み、人間が認識するものは主観的だからこそ、人間の理性的能力が重要になってくるのだ、という考えに辿り着いた。そしてカントの思想は道徳・倫理的な色彩が色濃くなった。
 そのカントの観念論をさらに発展させたのがヘーゲルである。へーゲルは、カントの観念論に弁証法を導入して発展させた。
 弁証法とは、テーゼとアンチテーゼ、つまり肯定と否定とをぶつけることによって、より高い統一的存在を発見しようとする方法である。この思考の動きを「止揚(アウフヘーベン)」と呼ぶ。
 このようにしながら、歴史や世界の中で存在する「人間」の本当の意味をヘーゲルは探ろうとした。

 時代をさらに飛ぼう。19世紀である。
 この時期に、キルケゴールによって実存主義哲学が始まった。
 実存とは、現実存在の略で、俗的にいえば「自分の世界」というような意味だ。
 これは、ヘーゲルに代表されるような、「人間を、社会の中の構成物としてとらえる」のではなく、「個々の人間が持つ、交換不可能なその人だけの世界というものがあるはずで、人間はそこに存在している」という考え方だ。
 キルケゴールの思想の特徴は、絶望的な色が濃いことである。信仰も、個々の人間が抱える絶望の中から生まれると主張している。
 キルケゴールの著書の代表は、「死に至る病」である。

 後に現れた実存主義者の代表としては、ニーチェ、ヤスパース、サルトル、ハイデガーがいる。
 ドイツの哲学者、ニーチェの有名な言葉は、「神は死んだ」である。ニーチェはキリスト教を批判した。
 そして、神に変わるものとして人間自らが、「超人」となってたくましく生きようとしなければならない、と説いた。
 ハイデガーは、第一次世界大戦後のドイツの思想に大きな影響を与えた。ナチスを支持したため、戦後、大学を追放された。著書は「存在と時間」である。この書は、二十世紀最大の哲学書といわれている。


3 コメント

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Unknown (Unknown)
2006-05-16 23:35:15
マーチなどを知ってるから、ねらーですか?
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Unknown (Unknown)
2006-05-17 23:16:10
いつも読ませてもらってます。大変参考になります。 ちょっとお尋ねなのですが、自分は今一浪中で現役の頃の偏差値は40前半でした。先日の模試でも42でした。今予\備校に通っており早稲田に行きたいと講師に相談したところ、目指すのはいいが一年では無理だと言われました。家庭の事情で浪人は今年までしかできないのですが、やはりどうしても一年では無理でしょうか?自分は才能\がなくても努力でなんとかなると思っています。それともやはりマーチ狙いに変えてそちらの対策に力を入れたほうがいいのでしょうか?
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Unknown (管理者)
2006-05-18 11:46:39
こんにちは。コメントありがとうございます。

私自身は、日東駒専とMARCHの間には明らかな「差」があると感じました。

ましてや、早稲田となると、その差は歴然としています。

ですから、難しいのは確かです。



ただ、スポーツに才能があるように、受験にも才能があります。

才能のある人なら、伸びは期待できます。

(アルゼンチンのバティストゥータがサッカーをはじめたのは、いつかご存知ですか?彼には才能があった、ということです)



では、才能的に普通の人が一年で早稲田に受かるの絶対不可能なのかというと、そんなことはありません。

そのかわり、勉強の仕方、運、など色々な要素が絡んできます。

たったひとつだけ、受かる方法はありますが、相当きついです。

それは後にブログで書きますね。
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