早稲田に多浪しました--元浪人による受験体験記です。

二浪計画で早稲田に受かるはずが――予想外の「三浪へ」。
現実は甘くないっすね。

早稲田への憧れ

2006年05月19日 | 体験録
 私が早稲田に憧れた根本的な理由を書こう。それは、早稲田出身の祖父の影響である。
 私は、祖父に可愛がられた。特に幼少の頃は、家にあるおもちゃはほとんど祖父に買ってもらっていた記憶がある。「子供を甘やかせると良くない」という説があるが、それはあくまで親が守るべきことであって祖父ではない。実際、私の親はおもちゃをあまり買ってくれなかった。
 たとえば、私が小学校一年の頃、あるアニメのグッズがどうしても欲しくて、父にねだったことがある。が、多くの親がそうするように、私の父も買ってくれなかった。私はかなりふてくされた。父はその埋め合わせのつもりなのか、ある日出張先でおみやげを買ってきた。たしか鉄道のオブジェのようなものだったと記憶する。今思い出せばなかなか情緒のある良い品だったと思うが、私が欲しかったのはそんなものではなかったのだ。
 だから、そのおみやげを、壁に投げつけて壊した。
 映画やドラマの定番シーンで、「親がおみやげを買ってきて、子供は『ありがとう』と口では言うものの、実は全然うれしくなくて、ゴミ箱に捨てる」というものがあるが、あのときの私の心境はまさにそれだった。

 ――余談だが、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の「トゥルー・ライズ」の前半部分にこのシーンが出てくる。私は、二浪時にこの映画を見たが、このシーンのとき、私の幼少の頃の「鉄道のオブジェ」事件が鮮明に蘇った。そして、何か感じるものがあった。浪人二年目だということも影響していたのかもしれない――

 さて、そのアニメのグッズについてである。私は、結局は所有することができた。祖父が買ってくれたのである。
 買うことも買わないことも愛情表現には変わりはない。だが、子供にとっては、「買わない」という愛情表現は、なんとなく分かりはしても、はっきりとは感じ取れないものである。この場合も、幼少の私には、祖父の「買う」という行為の方が、直接的に訴えかけてきた。
 そんな祖父が卒業している学校が、早稲田という大学らしい、というのを知ったとき、私が早稲田に興味を抱いたのは自然の流れである。しかも、早稲田という名は色々なところで耳にする。
 当初、私は早稲田というのはそんなに大きな大学だとは思っていなかった。文字面からして、田舎臭いものを感じていた。田んぼの中に木造の校舎があるようなイメージである。だから、その「田んぼ大学」がいろいろなところで活躍しているのを見ても、感じたのは「畏怖」ではなく、「おじいちゃんの大学は小さいけど、勉強も運動も頑張っててすごいなあ」という妙な親近感であった。
 しかし、この「親近感」の影響は大きかった。私も、後に「早稲田は、日本を代表する大学である」ということを知るのだが、同じく「日本を代表する」ということで語られる東大や、慶応といった大学よりも早稲田の方に圧倒的な魅力を感じた。それは、この「親近感」の効果である。

 さて、祖父の性格についてだが、祖父は典型的な保守派である。保守派は、格式を重んじるものだ。だから私の祖父は、男の生き方の理想として、「伝統高校を出て、伝統大学を出て、公務員になる」ということをよく言っていた。祖父自身、地元の伝統中学(高校)から、早稲田の政治経済学部に行き、海軍に入った。そして中学の帽子、早稲田の角帽、海軍の帽子、軍服といったものを部屋に飾っていたし、私は祖父の家に行くたびにそういうものを見ていたので、私自身もそうありたいと願うようになった。
 だから、なんとしても伝統高校に行きたかったし、早稲田にも行きたかった。そうしなければ男ではないと思った。もちろん、海軍は無理だが、将来は公務員になりたいと思っていた。
 そして、まず伝統高校の入学は果たせた。このときの祖父の喜びようは想像以上であった。昔は一中と呼ばれていたらしく、一本線の帽子をかぶれることにステイタスがあったらしい。帽子は昔とは違っていたものの、それでも私は嬉しかった。いや、嬉しかった、というより、安心した。目標を果たせたことに安心しきったのである。
 その安心は、成績凋落という不幸な展開をもたらした。いわゆる「燃え尽き症候群」である。
 しかしそれ以外にも原因はある。まず高校の科目は難しい。いや、難しいだけならいい。私にとって一番つらかったのは、科目数が多いことだ。都会の私立のように、理系・文系に分けてそれぞれの教科を特化させるということはなかった。一応、クラスは二年から理系と文系に分けたものの、全科目を平均して重視するという方針には変わりはなかった。
 いいわけになるが、もしこの方針がなかったら、私も普通の生徒でいられたと思う。しかし、復習しても復習しても、消化していないうちに次へどんどん進んでしまう。全ての科目の復習を行うことは、ひとつひとつの力点が弱まることを意味する。そのようにして、私は常に消化不良状態で高校生活を送ってしまった。だから、劣等生になった。全校生徒450人の中で420位あたりをうろついていた。こんなことが本当にあるのか、と信じられなかった。極端なことを言えば、中学までの私の発想だったら、450人中20位くらいで当たり前だったので、420位などという順位が本当に存在するとは思わなかった。ちょうど、「神社のおみくじに大凶は存在しない」という定説を信じるかのごとくであった。そんな順位を取るヤツがいたとすれば、さくらの参加者がギャグで取っているのだろう、ぐらいの認識であった。
 しかし、目の前の私の成績表は、まさに「大凶」であった。現実とはどういうものかを学んだ。
 いくら優等生の時期が続いても、次の瞬間はどうなるかわからない。私と同じく、中学では優等生でならした者も、多くは私と同じように劣等生になっていた。劣等生になると卑屈になるもので、優等生時代は風格があった者も、劣等生になればゲームオタクになったり、隠れて煙草を吸うような情けないヤツに成り下がっていた。たいてい、髪はぼさぼさでフケもある。私も同じ元優等生として、そういう彼らの姿を見て悲しくなった。
 私は、煙草を吸うようなことはなかったが、それでもどこか「落ちぶれた感」が漂っていた。それは自分で分かる。バンドをやって友達とそれなりに楽しんでいたが、進学校にいるかぎり、勉強についていけているかどうかが一番の重要事項であることに変わりはない。そのことができた上でなら、部活で頑張ろうがバンドをしようが最低限の充実感は得られる。だが、私にはそれはなかった。一見楽しそうなことばかりやっているものの、いつも上滑りしていた。
 そして、三年生になった。早稲田などとうにあきらめていたが、冬に、考えが回帰した。将来の職業のことまでは、もうこだわりはなかったものの、せめて早稲田の牙城だけは守りたいと思った。それがあって初めて私の人生は充実するのだ、上滑りすることはなくなるのだ、とそう思ったのである。文学に興味があったので、志望は第一文学部にした。
 そして、三年間の浪人生活を経て、ようやく早稲田に入った。当初の予定とは狂い、第二志望の第二文学部であったが、嬉しかったのは確かである。
 さて、祖父の反応についてだが、夜間学部ということが気に入らなかったらしい。高校入学のときのような嬉しさは全くないようだった。
 もともと祖父は、私が一浪で國學院の文学部に受かったとき、飛び上がるようにして喜んでいたのだ。合格を告げた電話の向こうで、絶叫をあげていたのがよく聞こえた。祖父は、國學院という大学を認めていた。「あそこなら間違いはない、歴史も伝統もある立派な大学だ」と。
 しかし、私はそこを蹴った。そのとき、祖父は相当がっくりしたらしい。挙げ句の果ては夜間学部への入学である。夜間学部は、祖父にとって格式を感じられない学部である。たとえ早稲田であろうと、夜間なら何の意味もない。そういう反応だった。
 ちょうどその頃、祖父は体調を悪くした。高校のとき祖父は入学式に来てくれたが、同じように早稲田の入学式にも来てもらいたかった。しかし、来なかった。が、もし体調が良かったら来たかというと、それでも祖父は来なかっただろう。寂しい気もしたが、私の中では、「来なかったのは体調のせいなのだ」ということにしてある。
 祖父は、私が早稲田を卒業して数日後に亡くなった。骨と一緒に祖父の角帽も燃やそうかと思ったが、それはやめておいた。燃やしたのは、海軍の帽子である。