早稲田に多浪しました--元浪人による受験体験記です。

二浪計画で早稲田に受かるはずが――予想外の「三浪へ」。
現実は甘くないっすね。

学歴論③

2006年04月25日 | 学歴論
 私の認識が世間のものと一致しているか分からないが、とりあえず私が思う「世間ではこう位置づけられているであろう」という学歴認識を書いてみる。

 まず、最大の勝ち組は東大だろう。学歴的には申し分ない。民間の会社への就職はもちろんのこと、官僚への道も開けてくる。
 その対抗馬として、京大がある。京大は、エリート的な東大に比べて、反骨精神があることで知られる。東京の名門高校出身者も、その校風に惹かれて、あえて京大を受験するケースも多い。京都は狭い街であるためか、学生がよる店も決まっていて、そういう影響から、教授と学生との交流が深いと言われている。「クールな東大」に対して、「熱い京大」といったところか。

 さて、その次にランクされるのが東大・京大以外の旧帝国大学だろう。すなわち東北大学・北海道大学・九州大学・名古屋大学・大阪大学である。
 ――余談だが、今でいう旧帝国大学は、旧制高校時代は「ナンバースクール」と呼ばれていた(簡単にここではそう理解してもらいたい)。
 ナンバースクールに関してだが、それは古い文学作品にもその名が出てくる。例えば川端康成「伊豆の踊子」における主人公・一高生徒だ。「一高」は現・東大の教養過程の前身である。
 昔は、一高だろうが、二高(東北大の教養過程)だろうが、三高(京大の教養過程)だろうが、ナンバースクールに行けた者はそのまま繰り上がりで帝国大学に行けたらしい。簡単にいえば、「帝国大学」と呼ばれている大学に付属する形で、ナンバースクールがあったのだ。たとえて言えば、「東京大学付属高校」というようなものが、昔はあったということだ。 
 そして、当時は、「ナンバースクール→帝国大学」の流れこそが、完全無欠なるエリートコースだったのだ。「伊豆の踊子」で言えば、ヒロインの踊り子が主人公の学生と親しくなった理由も、主人公が一高の帽子を被っていたためである。それほど尊敬されていた、というわけだ。
 今の老人たちは、昔の記憶から、この「ナンバースクール」に強い憧れを持っている。だから、東大はもちろん、もし孫が東北大学や北海道大学に入った、となれば、老人ホームで大宴会の大騒ぎである――

 その次にランクされるのは、私学のトップである早稲田・慶応だろう。むしろ一般人には、東北大や北大よりもこちらの方が有名かもしれない。やや地味な印象のある東北大・北海道大・九州大・名古屋大・大阪大に比べれば、早稲田・慶応は著名人も多く輩出しており、またスポーツでも世間を湧かせている。入学試験の難易度では旧帝国大学に負けても、「イメージ」では負けない。もちろん、就職面でも有利である。
 そして八十年代以降は、上智もイメージを上げてきた。今では、「早慶上智」と一緒くたになって語られる。

 その次が、MARCHだ。すなわち明治・青山学院・立教・中央・法政である。これらは、学問だけでなく、スポーツその他の文化面にも優れている。早稲田のアンチテーゼ的な存在である明治、お坊ちゃん的な青山学院、洋風で洗煉された立教、法学に強い中央、左翼的でやや危険な香りのただよう法政など、世間的なイメージがかなり強い。俗的にいえば、「ピンとくる」大学だ。日本中の誰もが、これらの大学を知っているし、イメージも持っている。小学生に対しても、たとえば東北大のように、「俺の出身大学は実は旧帝国大学と呼ばれていて、スゴいんだぞ」などと説明する必要はない。「立教出身だぜ!」の一言でOKだ。

 その次は、地方国立大学だろう。これらの大学は、「ピンとくる」ものではないかもしれないが、学歴的には十分に勝ち組である。特に、地元の国立大学に進み、地元で就職する場合は、下手にMARCHに行くよりもずっと有利だ。地方のエリートコースは、「地元の名門高校→地元の国立大学」である。良くも悪くも、地方というものは排他的であるので、立教や明治に行けば「地方を捨てた裏切り者」という印象が少しだけ出てきてしまうものだ。だから、地元密着でいきたい場合は、無理して都会に出る必要はない。
 ――余談だが、地方においてあなどれないのは、「高校」の学歴である。地元で一番の進学校には、歴史があり、名士を多く輩出している。中には、文武両道で甲子園などで活躍している高校もある。「上智大学」を知らないおじいちゃん、おばあちゃんも、地元で一番の高校に関しては歴史から何から知り尽くしている。だから、地方では、「地元で二番の高校→上智大学」よりも「地元で一番の高校→地元の国立大学」の方が重視される。特に県庁に勤める場合などはこの方が有利だ。一説によると、県庁の中の会話で、「どこ卒なの?」と聞かれた場合は、大学ではなく高校を答えなくてはいけないと言われている。
 昔は、今の高校は「中学」と呼ばれていた。例えば、今でいう「高校野球」は、昔は「中学野球」だ。そして地元で一番の進学校は、たいてい、「○○一中」と名付けられていた。○○には、地名が入る。おじいちゃん、おばあちゃんの記憶には、この「一中」が強く刻まれている。だから、地方に新設の私立高校が出来ても、いまいち人気が出ない。都会では、私立高校の方が優秀だが、地方ではその逆なのだ。同時に、地元で一番の進学校には、言葉では説明できない権威がある。たとえば、東京の名門私立高校に通っていても、大学がダメなら全てがオジャンになるが、地方では、一番の高校を卒業しただけで許される空気がある。地方というのは、こういう変わった事情があるのだ――

 さて、その次は日東駒専だろう。すなわち日本大学・東洋大学・駒澤大学・専修大学である。これらの大学は、歴史もあり、スポーツ・文化面でも湧かせるが、昔はそれほど強いイメージはなかったらしい。たとえば早稲田出身の私の祖父は、日本大学を「ポン大」と呼んで軽蔑していた。人のよい祖父が、悪気もなくそのようなことを言うのを聞いて、私は意外に思ったものだ。
 これは、一種の「差別」である。昔の人は、色々な場面で差別を好んだ。それは学歴だけでなく、他の分野においてもそうである。しかし、このことが全て悪いかというと、私はそうは思わない。差別されることは、一種の個性である。もちろん、血筋や、国籍などで差別するようなことは論外だ。それはただのイジメである。
 しかし、大学のイメージには、差別のようなものがあってもいいと思う。別に人格を否定するわけではないのだ。差別されることによって反骨心も生まれるし、学生が一丸となって、何かを起こすかもしれない。または、学問では差別されても、スポーツの大会では優勝してやる、という強い心も生まれる。スポーツの大会で優勝することは、「良い意味での差別」だ。こうして、もともと「単なる差別」だったものが、「良い意味での差別」に変わっていき、ついには大学の個性になる。
 昨今は、全てを平等に、という方針で、なんでも差別用語に組み入れ、人々から言葉を奪っている。「差別される者がいる」ということは、裏を返せば「尊敬される者がいる」ということだ。スポーツでいえば、昔は王・長嶋というビッグネームがいた。それと同時にヒールもいて、いわばこれは差別されているわけだが、そのヒールも、ヒールであるがゆえに独特の雰囲気を醸し出した。そうして、個性豊かな選手で溢れた。
 だが、今の選手は、誰が誰だか区別が付かない。これは、闇雲な「差別をなくせば良い」という社会的方針がもたらした弊害である。「差別」という行為は、たしかに悪いことではあるが、差別しなくてもいいものまで平等主義で押し通す必要はないと私は思う。
 この、日大・東洋・駒澤・専修は、良い意味で独特な雰囲気を持っている。例えば日大は、芸術学部が俗に「日芸」と呼ばれ、その他の美術系大学とはまた違った魅力を持っている。「美術」といえば普通は絵画を想像しがちだが、日芸の場合は映像・写真に非常に力を入れている。特に写真が盛んなことはよく知られている。つまり、他の大学とは違った切り口で美術という学問を捉えているわけだ。
 日大・東洋・駒澤・専修。この四大学は、なくてはならない、重要な大学である。
 これは、大東亜帝国――すなわち大東文化・東海・亜細亜・帝京・国士舘にもいえる。これらの大学も、それぞれ独自のカラーを作り上げている。独特のカラーということは、いわゆる「普通の大学」とは違うイメージなので、そのため就職において他の大学に比べて不利になる場合もある。が、それはあくまで就職活動するほんの一、二年間に限った話である。いったん社会に出れば大学での経験をどう生かすかにかかってくる。実際、これらの大学の充実した学問環境や、独特の校風によって育てられた人たちが活躍している場面がしばしば見られる。
 私の知っている例では、亜細亜大学出身者で、ある省庁に勤めて出世している人がいるし、ライターとして活躍している人もいる。また私が実際に仕事を一緒にしたことのある人の中に、大東文化大学出身の人がおり、彼は非常に優秀だったことを思い出す。その職場は早稲田や明治といったクラスの者が多かったが、彼はそれらの社員を指導する立場にあった。
 ちなみに、彼のことで強く印象に残っているのは、ある社員と電話で会話しながら、同時にそこにいる私たちに同じ内容を図面を書いて説明している場面である。私はそれを見たとき、彼が聖徳太子に見えた。聖徳太子は、いうまでもなく複数の人間が一度に話す内容を聞き取れたという伝説を持った人物である。彼はおそらく大学時代に、存分に自分を磨き上げてきたのだろう。

 さて、以上が、私が思う、一般にはこう思われているだろう、という学歴図式である。少なくとも、私のまわりには、以上のように思っている人は多い。
 あなたのまわりの常識と合致しているかどうかはおいといて、少なくともこういう風に認識している人間がいる、ということは、何らかの参考になるだろう。
 もちろん、大学は以上だけではない。書ききれない部分もたくさんある。例えば、一橋大学などは、官僚然とした東大とは違い、成果で勝負する、即戦力の学生が集まっていることで有名だし、また学習院や國學院といった大学は特殊な校風があり、偏差値では計れない魅力がある。その他にも国際基督教大学(ICU)や獨協大学、はたまた防衛大学校にいたるまで、個性的な大学は色々とある。
 それぞれの大学には、それぞれの魅力があるものだ。

 あなたが浪人生活を終えて何らかの結果を得たときに、もう一度ここを読んでみると、何かのヒントが得られるかもしれない。

学歴論②

2006年04月23日 | 学歴論
 浪人していると、学歴の見方が一般と変わってきてしまいがちだ。浪人する前は、明治・法政・立教といった大学に敬意を払っていたクセに、いざ浪人してみると早慶のスベリ止め扱いしたりする。これは、東大に楽に入れると主張する本などによる影響だ。浪人生の中で学歴認識のインフレーションが起こってしまうわけだ。
 このことは、ある意味では良いことだ。なぜなら、人間、高嶺の花には飛びつかないものだが、それが自分と同じ目線に降りてきたきたときには、チャレンジしてみようという発想が生まれるからである。
 だが、そのことによる弊害があることも忘れてはならない。
 自分と同じ目線にある、ということは、尊敬の心が薄まるということである。だから、浪人して一年間頑張って、十分な成果を得たとしても、それを喜ばなくなってしまう。そして、もう一年浪人しようとする。または、その大学に進んだとしても、ふてくされてしまって、勉学に励まず、やる気のない大学生活を送ってしまう。
 私は、「浪人する」という行為に関しては、大賛成である。しかしそれは、それまでダラダラと過ごしてきた人が、心を入れ替えて頑張るというケースに限ったことである。一年間必死で頑張ったのに、もっと上を目指そうとして欲を出すとなれば話は別である。
 もっとも、私はいわば欲を出して三浪もしたのだから、人のことは言えないではないかと言われればそれまでである。しかし言い訳をするならば、私ははじめから二浪を予定していた。だから、一浪のままでは、完結感がなかったのだ。そして二浪目はスベリ止めを受けずに全滅し、結局は三浪した。
 だが、今考えると、一浪で受かったところに行っても良かったような気もする。完結感はなかったにしろ、一浪目の一年間は、必死で勉強した。映画や漫画でよくあるような狂いきった浪人生そのものであった。髪を切りにいく時間さえ惜しかったので、一度も床屋に行かなかった。髪はホームレスのように乱れていた。
 一浪時は、それなりの結果を得た。國學院大学・日本大学にそれぞれ二学部ずつ受かったのである。合計すると四学部だ。
 はっきり言って、これらの大学は高校三年時点の私には全く手の届かないところであった。高校時代の私は、少なくとも名前の知れたところは、全て除外していた。「スポーツで有名だが、勉強はそれほどでもないことで知られる大学」ですら、とりあえずは「名前が知れている」ことは事実である。それだけで、私には畏れ多かった。
 それが、スポーツだけで有名どころか、歴史の権威である國學院大學と、スポーツ・芸術・学問の総合大学である日本大学に受かったのである。いったい、何の不足があるというのだろうか。今なら、その価値が十分すぎるほど分かる。
 特に日大の場合、私がそこに行っていたならどんな可能性があっただろう、と今になって想像するのだ。三浪して早稲田に行ったときは、私は二十歳を超えていた。だが、一浪なら、超えていない。その若い状態で、若い力を、思いっきり燃やすことができたかもしれない。それだけの包容力があの大学にはあるのだから。
 もちろん、三浪して行くことになった早稲田の二文でも、私は誠意を持って大学生活を送った。良い成績を取ろうと私なりに頑張ったし、多くのサークルにも参加した。だからこれはこれで後悔はしていないのだが、それだけしか道がなかったというわけでもないのだ。

 少し話がそれる。
 私は、浪人生活を通して、自分が受験というものに向かない人間であると感じた。
 例えば、私は日本史が好きだ。子供の頃から、歴史関係の本を好んで読んでいたし、学校の授業も毎回楽しみにしていた。
 だが、いざテストされると、どうも点が取れない。好きなだけにショックだった。自分が好きな分野であったとしても、全く想定していなかった切り口で問題が出てくる。同じ歴史でも、横から見るのと縦から見るのとでは違う。試験には、試験なりの視点というものがある。その視点が、私の視点とは異なっていた。言い訳に聞こえてしまいそうで恥ずかしいが、これが、私が試験に合わなかった理由のひとつだと思う。
 大好きな日本史でさえその状態だ。それほど好きではない英語なら、なおさら相性が悪かったことは言うまでもない。まさに、泥沼に足を取られた中で奮闘した、という感じであった。
 一方、試験に向いている人、というのは、泥沼で奮闘する感覚はない。平地で、自分の力を存分に鍛えるという感じだ。もちろん、いくら平地でも何もしなかったら進展はないのだが、泥沼より有利なことは確かである。
 人によっては、日本史が嫌いでも試験の切り口が感覚的に分かり、また英語の単語ひとつひとつが古代文字のようなものではなく、生きた日本語に近い感覚で入ってくるタイプがいる。
 このように、同じ「試験」に向かう中でも、感覚は人それぞれである。

 さて、私が私自身のダメさ加減を書いたのは、何も言い訳がしたかったからではない。それは、そんな私でさえ、一年でそれなりの効果をあげていることに注目してもらいたかったからだ。
 「俺は、才能ないよ」とか、「どうせ俺は、馬鹿だから」といった嘆きはよく聞かれる。だが、そう言ってばかりいないで、努力と工夫によって、ある程度のところまでには行けることを知った方がいい。東大に現役で…、とか、早稲田に半年間の勉強で…といったことは、正直なところ、厳しいかもしれない。だが、何も東大に現役で受かるばかりが受験ではない。あなたなりの努力と工夫を総動員すれば良いのだ。
 ――総動員。これこそが重要である。良い時は波に乗って行けるところまで飛ばす。しかし、スランプにおちいっても、あきらめずに常に強い心と知恵をもってその脱出を試みる。そうすることで、次に波が来たら、さらに乗れるようになる。
 そうやって行き着く先は、「成功」かもしれないし、それでも「失敗」かもしれない。しかし、それがもし最後まであきらめずに努力して得た結果ならば、見た目が「失敗」でも、実は真の意味では「成功」なのだ。

 私は、一浪した時点で得た結果である國學院・日大合格は、大成功だったと今さらながらに気付いている。もちろん、三浪して得た早稲田の二文合格も、十分、納得している。これも大成功だ。
 ただ、悔やむことがあるならば、二浪時である。全学部に落ち、見た目の上でも失敗だったし、本質的にも失敗だった。私の全てを総動員させたか、というと、そうとは言い切れない面があった。心が大きく乱され、初志を貫徹せずに途中、色々な勉強法に目を向けてしまった。特に前半は、心理的な弱さが出てきてしまい、攻めの姿勢が足りなかった。ちょっとスランプが来ただけで大きく動揺した。
 私はスランプに関しては、一浪時は勢いでねじ伏せたし、三浪時は動揺せずに悪い波が去るのを待つことができた。いずれの時期も志は崩さなかった。
 だからこそ、二浪時は私にとって辛い記憶なのだ。

 もし、中途半端なまま受験生活を終えたとしたら、それはとても悲しいことだが、そういう状況におちいってしまうのは、見た目の結果を恐れているからである。見た目の結果など、人間にはどうにもできないことだ。それは神のいたずらで決められることだ。人間にできるのは、日々、懸命に生きることだけである。
 そう、懸命に生きるか、投げ出すかは神が決めるのではなく、あなたが決めることなのだ。ならば、投げ出して堕落するよりは懸命に生きた方が得だろう。

 何もわざわざ、損な方を選ぶことはないのだ。選択権は、あなたにある。

 見た目の結果がどうあれ、最終的には本質的な成功を目指して欲しいと思う。そのためには、今を大切にすることだ。

学歴論①

2006年04月14日 | 学歴論
 これは、私の大学時代の友人から最近聞いた話だ。ここでは、仮に彼のことを西田と呼ぼう。
 西田は、早稲田大学の政治経済学部を卒業している。高校は、彼の地元で二番目くらいの位置の進学校に通っていたらしい。「二番目」ということから分かるとおり、地元ではそれほどの尊敬を集めている高校ではないらしく、むしろ「一番目の高校に入れなかった生徒が仕方なく行く」というイメージで、地元の人からは同情の目で見られている高校ということである。
 西田はもちろん、一番目の高校に行きたかった。それを目標にして中学の受験期はかなり頑張ったらしい。
 だが、結局は、二番目の高校に入るのが精一杯だった。西田が一生懸命勉強していたことは、彼の塾通いの様子からして近所の人には知れ渡っていた。その彼が一番目の高校に入れなかったのである。それを見て近所の人は西田をなぐさめた。ことに、西田の幼なじみの友達の母親――彼いわく〝おばちゃん〟――は、西田を気の毒に思い、チョコレートの詰め合わせを彼に贈ってなぐさめ、励ました。西田は、非常に感激し、おばちゃんのためにも頑張らなくては、と決意を新たにした。

 さて、高校に入ってからの西田についてである。
 彼は、かなり努力した。高校受験と同じ過ちを繰り返さないために、一年のときから対策を練ることにした。
 志望校は早稲田大学である。野球やラグビーの試合をテレビで見て、西田は早稲田大学に憧れていた。学部は、著名人を多く輩出しているという単純な理由から政治経済学部に決めた。そこに絶対に入ってやるのだ、と西田は誓った。
 西田は、受験一本に生活の照準を合わせ、部活にも入らずにひたすら勉強した。一年間の浪人生活も経験した。その結果、彼は見事に早稲田大学政治経済学部に合格したのである。
 西田は、意気揚々と上京し、早稲田に入学し、そして卒業した。
 就職先は、日本を代表する某大手企業である。彼の名刺には、その企業の名前が、輝かしく刻まれている。西田は、非常に満足した。

 さて、西田が就職してから数年が経った。多くの新入社員が入ってきて、彼も先輩ヅラできるようになったころのことである。
 まとまった休みが取れたため、西田は久し振りに地元に帰った。そして、長年心配をかけた母親にディナーをごちそうした。そこではお酒も出されたため、母は酔い、今まで言わなかったことまで言った。
 それは、「おばちゃん」のことについてである。つまり、幼なじみの友人の母親だ。西田は、いつぞや高校受験がうまくいかなかったとき、おばちゃんが励ましてチョコレートをくれたことを思い出した。西田にとって、おばちゃんは優しい人であり、いい思い出しか残っていない。西田がまだ幼かった頃に、友人の家、つまりおばちゃんの家に行くと、たくさんお菓子をくれたことなども思い出した。
 しかし、母の話によると、どうやらここのところ、おばちゃんの様子が変らしいのだ。あの優しかったはずのおばちゃんが、なんと母をイジメているというのである。
 西田は仰天した。
 母に関するあらぬ噂をそのおばちゃんが近所中に流しているらしい。その噂を数人の人が信じ、母をのけ者にしているのだ。

 なぜだろう。西田をあれほど応援してくれたおばちゃんが…母と仲の良かったおばちゃんが…なぜ?
 西田は、事情をもっと詳しく母に聞いた。――そして、全てを納得した。

 つまりは、おばちゃんは西田の早稲田大学政治経済学部の学歴をねたんでいるのである。
 そう考えると、西田が高校受験を不本意な結果で終わらせたとき、おばちゃんが西田を励ました理由も納得ができた。その真相はこうだ。
 おばちゃんの息子、つまり西田の幼なじみは、高校受験では地元で一番のところに受かった。だから、おばちゃんには優越感があった。いわゆる勝者の余裕だ。その余裕の心があったからこそ、敗北した西田をあわれむこともできたのである。いや、もしかしたら、西田をあわれむことで、おばちゃんの中では優越感の心をさらに満足させようという狙いがあったのかもしれない。信じたくないが、おそらくそういうことなのだろう。
 そして、大学受験の時期が訪れた。西田の幼なじみは、現役で関西の名門、通称「関関同立」といわれる某大学に合格した。この結果は高校の校内掲示に張り出される。当然、噂も広まる。
 おばちゃんは、鼻高々だった。その噂が広まるのを待たずに、自分の方から積極的に関西の名門に受かったことを吹聴していた。それは西田自身もよく覚えている。だが、そのときの西田の感想としては、それはおばちゃんの喜びの気持が爆発した結果にすぎないと思っていた。だから、西田自身も「おばちゃん、あんなに喜んじゃって。ホントに嬉しいんだろうなあ」と思い、おばちゃんに祝福の言葉をおくったものである。
 だが、おばちゃんとしては、西田の祝福の言葉を、「敗北宣言」として受け取ったのかもしれない。何せ、西田は現役ではどこにも受からなかったのだから。
 おばちゃんは、あるいはこう思ったのだろうか。「おばちゃんの子の方が優れているのよ。高校受験でもあなたは負けたけど、あなたはそれを挽回しようと思って塾通いしたり、色々とこざかしいことをしていたわね。だけどこれで差は歴然とついたわ。決定的だわね。アハハハ…」
 だが、おそらくそうなのだろう。でないと、それ以降のおばちゃんの行動の説明がつかない。
 おばちゃんの行動とは――すなわち、西田の母へのイジメである。

 ともかくも、西田は一浪した後、早稲田大学政治経済学部に受かった。西田の高校の校内掲示でもそれは発表される。だから、噂としてそれは流れた。特に、西田の高校は地元で一番ではないということもあり、東大はおろか早慶に進学することすらめったになかったので、「開校以来の快挙」というような、大げさな紹介のされ方をした。校長から記念品ももらったらしい。
 ここまで盛り上がれば、西田の近所にそれが知れ渡るのは自然のことである。母は吹聴しなかったし、もちろん、西田自身もそうだ。だが、そのことすら、おばちゃんは歪んだ解釈をしたかもしれない。つまり、近所に知れわたったのは、母と西田が陰で吹聴したからだ、ああ見えて陰でこそこそ吹聴しているのだ、と。
 当時、おばちゃんは、西田に「おめでとう」とは言ってくれたが、今考えればその言葉の力は弱かったような気がする。おばちゃんにしてみれば、自分の子が近所で一番だという喜びの頂点の位置から、一気に叩きおとされたのである。しかも、叩き落としたその相手が、長年、密かに敵対心を持っていた西田だったのだ。
 そのおばちゃんの心を知らずに、西田は上京して早稲田に進学した。そして今まで過ごしてきた。母の酒の上での愚痴で初めて全てを知った。
 おばちゃんの本心は、母自身もはじめは気付いていなかったようである。それどころか、西田が早稲田に進学したことを、おばちゃんは喜んでくれているとさえ思っていたらしい。
 だが、陰険なイジメを受ける中で、だんだんそのことに気付いた。おばちゃんは、早稲田の学生が犯罪を犯してニュースになったときなどは、「たいしたことのない大学ね」と母に露骨に言ったこともあるらしい。

 母は、とても悲しく思った。子供同士が背比べのようにして一緒に育っていく中で、それぞれ親として、お互いに子の成長を暖かく見守ってきた仲である。いや、実はおばちゃんの側からはそうではなかったのかもしれないが、少なくとも母はそう思っていた。
 それが、真相は全く別の位置にあり、しかもイジメまで受けてしまっている。母は、酒に促されながら、西田にこの悲しみを語った。

 西田は西田で、この話を聞いておばちゃんのことを憎いとは思わなかった。むしろ残念な気持ちになった。
 彼自身は、おばちゃんや、その子に対してなんの敵対心もない。高校受験が上手くいかなかったときも、「幼なじみに負けた」とは思わなかった。素直に友人の合格を喜んだし、それは大学受験にしたってそうだ。関西の名門、ほんとに、ほんとに良かった、と友人と手を取り合って喜んだものである。
 ただ、西田がいまだに信じているのは、その友人自身は、西田に純粋な友情を持ってくれている、ということである。オカシイのは親だけで、子供同士にはなんの感情のもつれもない。西田が上京してから長い間、その友人とは会っていないが、おそらくそうだろうと信じている。友人の方でも、おばちゃんの嫉妬心を悲しんでいるに違いない。


 *  *


 さて、ここまでが、私が西田から聞いた話である。私は、この話を聞いて、おおいに納得するところがあった。そのような話は、私のまわりでもよくあることなのだ。知り合いから似たような話を聞いたことはある。それに、自分で言うのも恥ずかしいが、私自身の学歴も、一部からは嫉妬されている。
 むろん、三年間も浪人して、しかも第一志望学部に入れなかった身としては、そのような嫉妬はこそばゆい。私自身は敵対心を全く持っていないのに、「お前は早稲田といっても夜間だろ。早稲田だからって威張るんじゃねえ。俺は明治だ。文句アルカ」というような態度を取る相手に出会ったことがある(明治のみなさん、ごめんなさい)。そのようなことを直接いわれなくとも、雰囲気で感じ取ったこともある。早稲田の夜間学部はMARCHにとっては格好の攻撃対象なのである。普段から早慶に劣等感を持っているから、その早稲田の中で下位学部である夜間学部の学生を見つけたときは、鬼の首を取ったように騒ぐのだ。
 もともと、早稲田大学の夜間学部、特に第二文学部は、「第二」という名前からして不格好である。二文生に言わせれば劣等感の象徴である。だが、そんな「かわいそうな」我々二文生も、MARCHから攻撃を受けることはあるし、もっと下の偏差値の大学からは、単純な羨望の眼差しすら向けられてしまう。

 ここで、あなたに考えてもらいたい。
 この構図を見て、とても幼稚に思えないだろうか。
 とても小さく、くだらなく思えないだろうか。

 早稲田早稲田、というが、その早稲田は東大受験生にとっては単なるスベり止めである。では、東大がエラいか、というと、東大の中でもどこの学部かを気にする人がる。理Ⅲでなければ東大じゃないようなことを言う人さえいる。
 だが、もっと上の大学になるとどうだろう?世界的に見れば東大のレベルは高い方ではないらしい。アジアだけ見渡してみても東大よりレベルの高い大学はいくらでもある。そのような大学の学生からは東大はどんなに小さく見えることだろう…

 …こう考えると、キリが無くなってくる。だから、偏差値で大学を分けるようなことはよそうではないか。
 もちろん、浪人生のうちは、努力目標として偏差値を掲げるのは良いことだ。だが、受験が終わったら、自分が進むことになった大学を愛そう。まわりがどんな大学に進もうと、それはあなたが気にすることではない。
 やたらと他人のことを気にするという行為は、とても醜いことだ。これは、西田の話からも分かるであろう。西田も、西田の母も、誰に対抗したわけでもない。ただ自分の幸せを追い求めただけである。それを、おばちゃんは曲がった風に解釈をして、勝手に対抗心を燃やし、そして勝手に敗北し、勝手にひがみの心を抱いた。おばちゃんさえ素直になれば、息子が関西の名門私学に進んだことに揺るぎない誇りを持てるはずである。他の大学と比較しようとするから、感情が歪んでしまうのだ。

 「あそこの息子さん、東京の大学ですの?でも六大学じゃないんですってね…」
 「向かいの家のお嬢ちゃん、学習院に落ちたんですって。で、結局行くことになったのが、○○大学ですって。かわいそうだこと…」
 「おお、君んとこの息子さんは東京理科大に受かったのか。すごいじゃないか。でも、あそこは旧帝国のスベり止めで受ける人が多いからねえ。君んとこの息子さんもそうでしょ?で、第一志望はどこなの?…え?東京理科大が第一志望?いやいや、失敬!失敬!」

 あなたには、このようなセリフを吐く俗物になってほしくない。私は、それを切に願う。大学受験のために必死になって勉強するということは、学をつけるというこである。浪人を経験したからには、どんな大学に行っても、無学ではない。何かあるとすぐ近所のウワサに飛びつき、他人のアラを探すことばかり考え、自慢話を好み、陰険なイジメを誘発したり、それに加担したりする。これを、世間では俗物を呼ぶ。

 ――嗚呼、悲しい!本当に悲しい!

 人間である限り、醜い心は誰でも持っている。人間は嫉妬心の塊だ!自尊心の詰め物だ!生物を殺してそれを食って、糞をする俗物だ。
 所詮はそうなのだ。
 だが、それでも…少しでもいいから、美しくありたいとは思わないだろうか。美しい道と醜い道があったら、美しい道の方を選びたくないだろうか。
 もしかしたら、それは辛いのぼり道かもしれない。醜い道は、楽な下り坂かもしれない。
 しかし、人間、楽な方楽な方へ傾けば、ついには日の当たらないところにまで坂道を下り切ってしまう。そして、もどれなくなってしまう。
 もしあなたが下り坂を下っているのなら、取り返しがつかなくなる前に、引き返して欲しい。今なら間に合うのだ。なぜならばあなたは、若いから!

 あなたは、若いから!