同じ勉強をしていても、理解の早い人と遅い人がいる。この差は、いったいどこから来るのだろうか。それは、二つあると私は考えている。
ひとつは、「全体を見る能力」である。ここでは、このことについて書きたい。
つまり、今自分が勉強していることの意味が、よく分かっているかどうかということである。
どこの国の格言か失念したが、「頭が良くなりたい男はまず料理の達人になれ」というものがある。料理というのは、いくつかの材料を混ぜて作る作品だ。その材料ひとつひとつには、必ず意味がある。
例えばフライパンを使う料理の場合、一番最初にフライパンに入れるのはアブラ類である。その次に炒め物系を入れて適度にこがしてから、後半にソース類を入れる。そして次に、ライスだったり、麺類だったり、といった炭水化物を入れる。最後、皿に盛りつけた後に、ネギなどのトッピング類を乗せて出来上がりである。
理解力のある人は、まずこの大枠がすでに出来上がっている。だから、最初に入れるものが何か分からなくなっても、少なくともアブラ類であることは分かる。植物油か、鯨油か、それともバターか。
しかし、理解力のない人は、最初にいきなりライス類を入れてしまったりする。アブラもなしにライスを入れたら、こげてしまうのは当たり前だ。そして、しまいには取り返しのつかない状態になり、結婚したての新妻が作るようなヒドい料理が完成してしまう。
あなたも、母の料理作りを手伝ってみるといい。案外難しいものだ。きっと全体を見る能力が養われることだろう。全体を見る、ということは、計画性があることをも意味する。先程のフライパン料理の例でいえば、最後にスパゲティ麺を入れるところまで来たとしても、肝心のスパゲティ麺を煮るのを忘れてしまっていては意味がない。
料理というものは刹那的なものだ。だから計画を間違えれば食材をこがしてしまったり、麺がのびてしまったりで、必ず失敗する。
ところが、「全体を見る能力」がある人は、途中、ミスを犯しても、それを挽回するだけの危機回避能力がある。例えば、最初に入れるアブラをこぼしてしまったら、普通ならパニックにおちいるところだ。しかし、「全体を見る能力」がある人は、「アブラをこぼしても、代わりにバターを入れればいい」と即座に判断できるのだ。最初に入れるのはアブラ類でさえあればとりあえずは何とかなる、ということが分かっているからこそ浮かぶ発想である。料理をただのひとかたまりとして見るのではなく、それぞれの食材の意味がすぐに判断できる。これは、他のことにも応用できるわけだ。
だから、幼い頃から母の手伝いをしていた人というのは、たいてい理解力に優れた人である。学校の成績もいい。
こういうことは、料理関係のテレビ番組を見てもよく分かる。最近よくある番組で、「つぶれかけのラーメン屋のダメ主人が、一流のラーメン屋の職人に弟子入りして再起をはかる」というような番組がある。
そういう番組を見てみると、たいてい、ダメ主人は、一流職人に怒鳴られている。視聴者は、そのさまを見て「当たり前だ」と感じる。なぜなら、ダメ主人の動きが、あまりにトロいからだ。麺をゆでたまではいいものの、他の作業をしている間にそれを忘れ、気がつくと湯が沸騰して麺がこぼれてしまっている。
このとき視聴者は「おいおい、麺がこぼれてるぞ、早く気づけよ」と他人の目で見るのだが、それは、テレビという、全体を見ることができる視点で眺めているからそう思えるのである。だが実際にその場にいる者にとっては、この「全体像」がつかみにくいのだ。テレビを見て笑っている人も、その立場になってみれば怒鳴られるに違いないのだ。
このように、今、自分がしていることの意味というものは、その瞬間にはなかなか分からないものである。後で振り返ってみて、ああ、あれにはこういう意味があったのか、と分かるのだ。しかし一方で、初めからそれが分かる人というのがいて、まさにそういう人が、「理解力に優れた人」なのである。
たとえ初めて行うことでも、即座に全体像を自分の頭の中で作り上げる。そして、自分が今、していることの意味を、その全体像の枠の中に当てはめるのだ。
さて、では特別に理解力に優れているわけではない人は、どうすればいいだろうか。
それは、上記のこと、つまり「全体像を見る」ということを、意識して行うようにすることである。そうすることで、理解力がある人と同じような習得構造を獲得することができる。
勉強に当てはめて考えれば、たとえば今、あなたがある参考書のひとつのページを学んでいたとする。
まずは、ここでいったん手を休めて、その参考書の目次を見てみよう。色々な章があって、その概要が書かれている。その概要を全て眺めたうえで、もう一度今やっていたページに戻ってみよう。すると、そのページの意味が、理解できるはずだ。
もちろん、本当に理解力がある人は、単に参考書だけにとどまらず、試験に出ている映像すら、浮かぶ。
例えば、「count on―あてにする」という熟語を熟語帳で見たときに、
「countといえば、普通は、《数える》という意味だよな。それが《あてにする》という意味になるとは…。試験本番で出てきたらツイ《数える》と訳してしまいそうだ。気をつけないと」
と、「試験本番」というまさに「全体」からの俯瞰でその熟語を眺めることができる。さらに、以下のように、それを横のつながりで見ることも出来る。
「そういえば、depend onとか、rely onなんていうのも《あてにする、頼る》という意味だったな。まあonというのは何かの上に乗っかっているようなイメージだが、《頼る》というのも、ある意味では《乗っかる》つまりは《身を委ねる》ということだから、そういう意味になるのかもしれない。だからどうやらこのonは、《depend on》なんかと同種のonだと考えてよさそうだぞ」
などと、即座に他の熟語に関連させることができる。
――余談だが、《on》は、《上に乗っかる》というだけでなく、壁や天井に付着しているような場合でも使う。
例:a fly on the ceiking……天井にとまっているハエ
:a picture on the wall……壁にかかっている絵
これらは、試験に出るので注意。おっと、単にここで用法を見るだけで終わらないで欲しい。全体像を想像した上で、この用法を眺めてみよう。例えばどんな形式で試験に出るだろうか。おそらく、こんな感じだろう…
:a fly at the ceiking……問1)正しければT、間違っていればFをマークせよ
:a picture ( A ) the wall……問2)( A )に入る語を記入せよ
…と、こんな具合に。要は、こういう図がイメージできるかどうか、である――
自分が何をしているか、何のために勉強しているのか分からなくなったときは、全体をイメージしてそこから今の自分を俯瞰して見てみよう。そうすることで、今、自分がしていることの意味も分かるし、理解も深まるのである。
ひとつは、「全体を見る能力」である。ここでは、このことについて書きたい。
つまり、今自分が勉強していることの意味が、よく分かっているかどうかということである。
どこの国の格言か失念したが、「頭が良くなりたい男はまず料理の達人になれ」というものがある。料理というのは、いくつかの材料を混ぜて作る作品だ。その材料ひとつひとつには、必ず意味がある。
例えばフライパンを使う料理の場合、一番最初にフライパンに入れるのはアブラ類である。その次に炒め物系を入れて適度にこがしてから、後半にソース類を入れる。そして次に、ライスだったり、麺類だったり、といった炭水化物を入れる。最後、皿に盛りつけた後に、ネギなどのトッピング類を乗せて出来上がりである。
理解力のある人は、まずこの大枠がすでに出来上がっている。だから、最初に入れるものが何か分からなくなっても、少なくともアブラ類であることは分かる。植物油か、鯨油か、それともバターか。
しかし、理解力のない人は、最初にいきなりライス類を入れてしまったりする。アブラもなしにライスを入れたら、こげてしまうのは当たり前だ。そして、しまいには取り返しのつかない状態になり、結婚したての新妻が作るようなヒドい料理が完成してしまう。
あなたも、母の料理作りを手伝ってみるといい。案外難しいものだ。きっと全体を見る能力が養われることだろう。全体を見る、ということは、計画性があることをも意味する。先程のフライパン料理の例でいえば、最後にスパゲティ麺を入れるところまで来たとしても、肝心のスパゲティ麺を煮るのを忘れてしまっていては意味がない。
料理というものは刹那的なものだ。だから計画を間違えれば食材をこがしてしまったり、麺がのびてしまったりで、必ず失敗する。
ところが、「全体を見る能力」がある人は、途中、ミスを犯しても、それを挽回するだけの危機回避能力がある。例えば、最初に入れるアブラをこぼしてしまったら、普通ならパニックにおちいるところだ。しかし、「全体を見る能力」がある人は、「アブラをこぼしても、代わりにバターを入れればいい」と即座に判断できるのだ。最初に入れるのはアブラ類でさえあればとりあえずは何とかなる、ということが分かっているからこそ浮かぶ発想である。料理をただのひとかたまりとして見るのではなく、それぞれの食材の意味がすぐに判断できる。これは、他のことにも応用できるわけだ。
だから、幼い頃から母の手伝いをしていた人というのは、たいてい理解力に優れた人である。学校の成績もいい。
こういうことは、料理関係のテレビ番組を見てもよく分かる。最近よくある番組で、「つぶれかけのラーメン屋のダメ主人が、一流のラーメン屋の職人に弟子入りして再起をはかる」というような番組がある。
そういう番組を見てみると、たいてい、ダメ主人は、一流職人に怒鳴られている。視聴者は、そのさまを見て「当たり前だ」と感じる。なぜなら、ダメ主人の動きが、あまりにトロいからだ。麺をゆでたまではいいものの、他の作業をしている間にそれを忘れ、気がつくと湯が沸騰して麺がこぼれてしまっている。
このとき視聴者は「おいおい、麺がこぼれてるぞ、早く気づけよ」と他人の目で見るのだが、それは、テレビという、全体を見ることができる視点で眺めているからそう思えるのである。だが実際にその場にいる者にとっては、この「全体像」がつかみにくいのだ。テレビを見て笑っている人も、その立場になってみれば怒鳴られるに違いないのだ。
このように、今、自分がしていることの意味というものは、その瞬間にはなかなか分からないものである。後で振り返ってみて、ああ、あれにはこういう意味があったのか、と分かるのだ。しかし一方で、初めからそれが分かる人というのがいて、まさにそういう人が、「理解力に優れた人」なのである。
たとえ初めて行うことでも、即座に全体像を自分の頭の中で作り上げる。そして、自分が今、していることの意味を、その全体像の枠の中に当てはめるのだ。
さて、では特別に理解力に優れているわけではない人は、どうすればいいだろうか。
それは、上記のこと、つまり「全体像を見る」ということを、意識して行うようにすることである。そうすることで、理解力がある人と同じような習得構造を獲得することができる。
勉強に当てはめて考えれば、たとえば今、あなたがある参考書のひとつのページを学んでいたとする。
まずは、ここでいったん手を休めて、その参考書の目次を見てみよう。色々な章があって、その概要が書かれている。その概要を全て眺めたうえで、もう一度今やっていたページに戻ってみよう。すると、そのページの意味が、理解できるはずだ。
もちろん、本当に理解力がある人は、単に参考書だけにとどまらず、試験に出ている映像すら、浮かぶ。
例えば、「count on―あてにする」という熟語を熟語帳で見たときに、
「countといえば、普通は、《数える》という意味だよな。それが《あてにする》という意味になるとは…。試験本番で出てきたらツイ《数える》と訳してしまいそうだ。気をつけないと」
と、「試験本番」というまさに「全体」からの俯瞰でその熟語を眺めることができる。さらに、以下のように、それを横のつながりで見ることも出来る。
「そういえば、depend onとか、rely onなんていうのも《あてにする、頼る》という意味だったな。まあonというのは何かの上に乗っかっているようなイメージだが、《頼る》というのも、ある意味では《乗っかる》つまりは《身を委ねる》ということだから、そういう意味になるのかもしれない。だからどうやらこのonは、《depend on》なんかと同種のonだと考えてよさそうだぞ」
などと、即座に他の熟語に関連させることができる。
――余談だが、《on》は、《上に乗っかる》というだけでなく、壁や天井に付着しているような場合でも使う。
例:a fly on the ceiking……天井にとまっているハエ
:a picture on the wall……壁にかかっている絵
これらは、試験に出るので注意。おっと、単にここで用法を見るだけで終わらないで欲しい。全体像を想像した上で、この用法を眺めてみよう。例えばどんな形式で試験に出るだろうか。おそらく、こんな感じだろう…
:a fly at the ceiking……問1)正しければT、間違っていればFをマークせよ
:a picture ( A ) the wall……問2)( A )に入る語を記入せよ
…と、こんな具合に。要は、こういう図がイメージできるかどうか、である――
自分が何をしているか、何のために勉強しているのか分からなくなったときは、全体をイメージしてそこから今の自分を俯瞰して見てみよう。そうすることで、今、自分がしていることの意味も分かるし、理解も深まるのである。