連日メディアで耳にする台詞だ。
この台詞をチャイナスクールの日本官僚が口にした場合、それは「私の出世と名誉のために」
という言外の意味が含まれている。
この台詞を支那の狂三等員が口にした場合、それは「おい日本、分かってんだろうな、終いにゃ
キレるぞコラ!」という言外の意味が含まれている。
つまるところ「良好な日中関係」なんてものは、我々一般の日本国民にはな~んのメリットも
ないってことだ。
別に中華料理食わなくても生きてはいける支那(-。-)y-゜゜゜
一般市民が刑事裁判に参加して判決に関わる裁判員制度の施行を4年後に控え、
日弁連は弁護士を集め、法律の素人である裁判員に対して法廷で効果的に訴えるための
研修会を開いたそうだ。
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050620AT1G2002R20062005.html
法廷での弁護士の弁舌と聞けばハリウッド映画のようなサスペンスを想像してしまうが、
日経の報道によると実際に研修会に参加した弁護士は「高圧的」「発声が不明瞭」
「目線が裁判員を向いていない」などと指摘されたらしい。
これまで前例踏襲主義を旨とする裁判官に事務的に訴えるのとは異なり、裁判員の「人情」
に訴えねばならない弁護士には戸惑いもあることだろう。心中お察し申し上げる。
さて、問題にしたいのは弁護士の苦労のことではない。
裁判員制度の導入そのものについてである。
以前にも書いた事だが、私は日本の刑法は既に今のこの国の犯罪の有様に適応できて
いないと考えている。
「一人殺しただけでは死刑にならない」「理解できない犯罪者は精神鑑定して結局不起訴」
などの不文律がまかり通っているままで、法律の素人である我々一般市民が、判決に関わることに
何か意味があるのか?
考えてもみて欲しい。
「失業してムシャクシャしていた」という理由だけで一人の幼い子供を殺害した男の
裁判に裁判員が参加したとする。裁判員の中には家庭を持つ者もいるだろう。我が子を同じように
理由とも言えない理由で殺害されたと想像すると、極刑が相応しいと考えるのが親というものだ。
「我が子の命を踏み台にして、強く立ち直ってください」と言う親がいるのならば、それは保険金目当てだ。
しかし現状では一人の子供が殺された「だけ」では被告は死刑にならない。
よくて無期懲役。
そして実態は十年程で仮出所し、我々の気付かないうちに自由の身となっている。
死刑判決を受けた被告の刑もはすぐには執行されない。
この隙間だらけの刑法を放置したまま裁判員制度を導入すると、何が変わるのか。
何も変わらない気がしてならない。被告の生い立ちの不幸を殊更に訴える技術を身につけた弁護士が、
ワイドショーのリポーターさながらに涙を浮かべて被告を弁護する姿は想像できるが、犯罪そのものに
憤りを覚える一般市民の至極当然な報復感情は「犯罪者保護」という悪しき慣習の前に跪くしかないだろう。
そうした不満が溜りに溜って刑法改正という世論になればまだ良いが、果たしてそれまでに何年かかるか。
それまでに何人が理解不能で理不尽な理由で殺されるか。
今のままで裁判員制度を導入するのは、司法が民意を反映しているとエクスキューズするための方便にしか
思えないのは考えすぎだろうか。