柔道・武道 歪んだ柔道界・マスゴミ

柔道は部外者では計り知れない腐った世界を少しでも知ってもらい正していければと想い日本の道徳や常識も含め書いていきます

本当に玄人が居ませむ

2013-02-02 16:16:32 | 日記
前の物書きの困った考え
受身が負けを前提にしたモノと捉える処には目から鱗なぁんて事は微塵もありません。

立ち技を習得するには受け身が出来ねば何も出来ぬ。
また、転んだりした際にも怪我をしない護身の最たると言う事が解らないのも
スポーツライターと言う事でしょうが、御粗末過ぎます。
他にも沢山ありますが既に書いている事もあるので。

日本傅講道館柔道は心身共に生涯にわたり修練し社会生活に生かせかつ護身にも
最適な[国民体育]!と謳い嘉納治五郎が普及しようとしていた事を全柔連のロートルも
記憶に無いのでしょう。

スポーツ=運動と同レベルで考えられては甚だ迷惑な話ですが、現在の講道館も
全柔連主導になっている為体には理解できないは恥ずかしい現実ですが至極最も・・・
日本傅講道館柔道が異国の軍隊や警察の護身・格闘術として取り入れられて居た
事実でも陳腐な異国のスポーツでは無いと言う事です。

亜細亜・黄色人種・モンゴロイド初の五輪ピック委員が嘉納治五郎・当時の講道館の弟子が異国からウエートトレーニングを持ち帰り、嘉納治五郎も研究し取り入れる様にとしたモノも嘉納無き後は
殆ど取り入れず現在では勝手にやれ・・・
乱取りしていれば柔道力が着く・・・・呆れ果てます。

嘉納治五郎が五輪ピックに柔道を入れたのも日本には伝統的な運動は無い(相撲も国技
では無いうえ、世界には普及していなかった背景も)更に正しい日本傅講道館柔道を
更に普及発展させるが為にも自身が委員をし東京五輪以前の大会には団長として日本選手
を率いていたのですから、開催国の柔道を入れるも当然であり
誰かさんの勘違いして居る「五輪だからスポーツ」では無いと言う事です(ー3-)!”

東京五輪以前の大会で小谷澄之やらが付け焼刃でレスリングに出場し幾人かが入賞
(8位以上)をしている事を見ても以下に柔道が臨機応変に出来うるものであるかも
解るものですが、近代学生似非柔道しか知らぬ輩(愚民含)・マスゴミでは理解出来ない
理解する氣も無し・・・・


山下が「原点に帰る」とか馬鹿丸出しの事勿れな発言をしていましたが
紹介のされ方もおかしな感じです。
ロス五輪無差別級優勝者で
国際柔道連盟元理事とかは触れないのは?
まぁ、それは置いておいて
十云年前でしたっけ、全柔連が幼稚かつ恥の上塗り

柔道ルネッサンス

と此れまた何故に片仮名英語ε=(・д・`*)ハァ…



1.柔道を通じての人づくり、柔道ルネッサンスのキャンペーン活動
2.少年柔道教育活動
  柔道の技術だけでなく、勉学,豊かな心,生きる力を育む指導を充実する。
3.クリーンアップ活動
  柔道の大会会場の使用状況のさらなる良化。専用のゴミ収集用の袋を用意する。
4.正しい柔道推進活動(美しい柔道・無理のない柔道)
  「正しい礼法」の普及。一本を目指す柔道の指導。
5.柔道ボランティア活動
  時間に余裕の出来た柔道の先輩方が、子どもたちの指導を。
  柔道人による一般ボランティア活動の積極的な参加。
6.広報活動
  柔道ルネッサンスの事業を、報道関係者と協力して推進。
  柔道のイメージを上げる。
7.障害を持つ人たちとの交流活動
  大会会場のバリアフリー化。
  障害を持った人への柔道指導。
  パラリンピック支援。
8.ワーキンググループ
全体の実行委員会をつくり、ワーキンググループ案を基に各活動小委員会をつくり、
この事業を積極的に推進する。』



確か此れが、当初の恥ずかしい恥ずかしい 内容・・・

幼児が親から躾けられる事ですが、此れを見れば全柔連・近代学生似非柔道の指導者
面した最低最悪な現実が解るでせう、当時から私は呆れた現実を幾度も言い、書いて
居ましたが聞く耳持たぬすから悪しからず。

要は全柔連が柔道事故被害者面の会と御手て仲良く銭もうけで

[指導者資格]

なぞ本末転倒!

全柔連も文科と癒着しているので現実問題不可能でも解体せねば何も変わらない
と言う事です・・・

画の様な上村は今は過去・・・

この様な現実を柔道事故被害者面の会代表の小林にも話をしたのですが無視です(侮蔑)

2013-02-02 04:16:31 | 日記
小外刈り・・・小外掛け モドキ・・・

それにしても、何が楽しくて私の駄文を読まれているのでしょうか(笑) 日本の歪んだネット番長や違法警察官達は 掲示板で違法警察官の認識番号や名前・顔写真も含め、違法行為を公開し...


腐った悪敷、全柔連の人身御供宜しくで丁度いいので1年前の駄文を再度読んで理解できたら幸いでふ(笑)

なかなかどうして( ´∀`)

2013-02-02 01:14:45 | 日記
受身に関しては間違えでも面白い意見の輩が居たのでまんま=手前勝手なマスゴミの都合の良く抜粋するのでは無い(ー3-)!”
で長すぎますが転載します。
ゴング格闘技等々のマニアでは無い最低なオタクの編集や二宮清純・生島なぞの
的外れかつ戯言=綺麗事の自称スポーツライターに訳の解らないネットジャーナリスト
とか称し長いものには巻かれろの捏造常套的外れな現代フォーラムだかの柔道事故被害者面の会にベッタリの輩しか居ないと想っていましたが、まともな思考の輩もライターで居るのだと少しだけ感心したのと、そう言う発想やも有るのかと参考にもなりました。
この中で、柔道がスポーツに参入したはライターとして勉強不足か書面上の都合か知りませんが。
私の駄文よりも此方の方が偏見無く・・・読解はできないですかな(失笑)
この輩の内容についての勘違いなどは次回に書きます。



http://bylines.news.yahoo.co.jp/kanekotatsuhito/20130201-00023301/

そろそろ体罰問題から離れてオリンピックの招致活動について触れようと思っていたのですが、またしても大騒動が勃発してしまいました。柔道の問題です。ここまで騒ぎが大きくなってしまうと、触れないわけにはいかんでしょ。

改めて言うまでもないことですが、大前提として、わたしはスポーツに於ける体罰に反対です。ていうか、スポーツに罰を持ち込むという発想自体が間違っていると思ってもいます。

じゃ、なぜ反対なのか。

体罰くらってサッカーが、バスケットが、ゴルフがうまくなるとは思わないから──突き詰めると、この一点に尽きるわけです。

では、うまくなるのなら体罰はあっていいのか。

わたしの答はイエス、です。

殴られることが、罵られることが、自分の技量であったりチーム力の向上に確実につながるというのであれば、どうぞ殴ってください、罵ってください。勝ちたくて、強くなりたくてどうしようもない自分にさらなる力を与えてくれるなら、ビンタだろうがグーだろうが言葉の暴力だろうが、どうぞどうぞ。メッシやコービー・ブライアントやタイガー・ウッズも過酷な体罰に耐えたからこそいまがあるっていうんなら、わたしは体罰を認めます。愛情なんかなくたっていい。うまくなれるなら。勝てるなら。ハハッ。

もちろん、殴られてうまくなったサッカー選手なんかいなかったし、これからもいるわけがない。なので、体罰はくだらん。無意味。卑怯。スポーツに体罰を持ち込む指導者には侮蔑を。そう主張してもきました。

ただ、ずっと迷ってたし、いまも迷ってることがあります。

もともとはスポーツではなく武道だった柔道にも、完全なるスポーツの論理を持ち込んでいいものなのか。

以前、亡くなった格闘家アンディ・フグの練習について書きました。殺人的で非科学的に見えた彼の練習は、しかし、本人に言わせると必要なこと、だったのです。なぜならば、空手とは痛みに耐える競技でもあるから──。スポーツのトレーニングに慣れた人間の目からすると、彼がやっているのは罰そのものでした。

柔道は、痛みに耐えなくていいのでしょうか。

メッシやブライアントやウッズが人生において一度もコーチから体罰を食らったことがないのは確実ですが、過去に世界一になった日本の柔道家たちは、体罰を受けなかったのでしょうか。受けなかったから、世界一になれたのでしょうか(ちなみに、1月31日付の朝日新聞で、山下泰裕さんは「自分は指導者に恵まれたために体罰は受けなかった」といった内容のコメントをしています。意味深です)。

柔道がオリンピック競技になったのは、東京でのオリンピック開催を機に、競技の国際化を意識した柔道関係者がそれを強く望んだから、でもありました。つまり、柔道はスポーツであると方向づけたのは、ほかならぬ柔道関係者であったわけです。である以上、反スポーツ的な体罰は許されないというのが当然の流れ。それはわかる。よーくわかる。

でも、そもそもは護身術であり武術だった競技を、欧米生まれのスポーツと同列に論じていいもんなんでしょうか。

楽しいからやる。それがスポーツの根っこ。ずっと言い続けてきたことです。

柔道って、剣道って、空手って、初めてやってみる子供にとって楽しいことでしょうか。

スポーツは勝つから楽しい。勝つことにムキになって、同じようにムキになってぶつかってくる相手を倒したらなお楽しい。勝利を目指す。それこそがスポーツをやる上でのモチベーションでありエネルギー。じゃあ、武道はどうなのか。勝利はもちろん大切ですが、それ以上に、試練に立ち向かう姿勢であったり、苦境を打開する気概のようなものが重要視されるのではないでしょうか。だから、子供にとっては楽しくなくても、親がやらせる。将来のために、やらせる。

柔道には受け身というものがあります。初心者はたいてい、これから始めます。サッカーとバスケットと草野球しかやったことのない人間からすると、これ、ちょっと不思議です。

だって、受け身って、要は負け方の訓練でしょ。いかに負けた際のダメージを少なくするか。すべてのエネルギーを勝つために、あるいは負けないために振り分けるのがスポーツの常識だとすると、これ、とんでもなくイレギュラーなトレーニングだと思うのです。同じ格闘技でも、欧米で生まれたものには「ガードの仕方」はあっても「ノックダウンの仕方」とか「フォールのされ方」なんてトレーニングはないわけですし。

誰だって、負けて楽しいわけがない。にもかかわらず、競技を始めた最初の段階でまず取り組むのが「負け方」。この時点で、柔道という武道にとって一番大切なのは勝利じゃないんですよっていうのが証明されてると思うのですが、にもかかわらず、柔道はスポーツの世界に入ることを望み、それが受け入れられてしまった。

日本の柔道は1本にこだわる、と言われます。これだって、考えてみればまるでスポーツ的じゃない。「勝つためにどうするか」を考えるのがスポーツ的な思考だとすると、日本人の柔道に対する考え方は、いまもって「いかにして勝つか」という部分が色濃く残っています。目的と同じぐらい、時には目的よりも過程を重視する武道ならではの思考です。だから、スポーツ的な思考から編み出された、有効や効果でポイントを取ったらあとは逃げ回ってしまえ……というスタイルがどうもしっくりこない。一方で、自分たちの国が編み出した競技である以上、勝たなければいけないという思いもあって、これはもう、完全にスポーツ的な思考。つまりは、21世紀に入ってもなお、武道とスポーツの整理がつかず、ちゃんぽん状態のまま放置されてきたのが日本人にとっての柔道だと思います。

先日、スポニチのコラムに「日本人はスポーツをやることによって理不尽さへの耐性を獲得しようとしている」と書きました。スポーツをやっていれば根性がつく。スポーツをやっていれば実社会にでても役に立つ。だから1年生は黙々とグラウンド整備をするし、野球部の少年たちは礼儀作法を徹底して仕込まれる。

なぜこうなったのか。日本に武道があったから、です。

騒動が発覚後、つるし上げに近い形での記者会見に出席した園田監督は、記者からの「(体罰をふるうという行為は)あなたが特殊だったのか。それとも柔道界では一般的なことだったのか」という問いに対し、「わたし以外の人間がやっているのを見たことがないので、わたしが特殊だったのでしょう」と答えました。

これって、理不尽さへの耐性がなければできない答、でしょ。すべての罪を自分一人が引っ被り、回りに迷惑をかけまいとする。この発想が、欧米では圧倒的に少数派のはず。長く武道に親しんできた、日本人ならではの考え方。で、「いくらなんでも女性に手をあげるのはいかんだろ」と思いつつ、記者会見での潔さには胸を打たれてる自分がいたりもするわけです(書いてみて気づいたのですが、相手がオトコならばやむをえんかなという思いが自分の根っこにはあるようです)。

柔道だろうがなんだろうがおしなべて体罰はけしからん、という声が主流派になりつつあります。バスケットボールというスポーツで起きた、体罰に起因する自殺事件と、武道でもあった柔道で起きた騒動が、ほとんど同じ重さで語られています。柔道界自らがスポーツたらんと望んだ以上、仕方のないことだとはいえ、個人的には釈然としないものも残ります。

日本人が柔道を、あるいは武道を完全なスポーツとしてとらえるようになった時、理不尽さへの耐性はまだ残っているのでしょうか。そもそも、そんなもの、必要ないのでしょうか。 つるし上げの記者会見に出席する。自分だけが割を食うのは納得がいかんと、体罰をしていた仲間の名前を列挙する……このままの流れでいくと、そういう日本人が多数派となる時代になっていくのではないか。それで、いいのか。 迷ってます。

金子 達仁
スポーツライター/FC琉球スーパーバイザー