相場をする人が、よくよく心しなければならないのは、やる事なす事あたり続け
「神様」などと人から言われたときである。
言う側の人は決して悪気でない。言われた側も、まんざらでもない気持ちだ。
昔から、「当たり屋につくより曲がり屋に向かえ」といわれる。
大当たりが続いていても、そのように注目されだした辺りはもう、富士山でいう
八合目あたりである。
なぜ曲がるか。この事について色々な角度から解説することは出来るが、一言で言えば
これすべて「循環」である。要するに相場とは何ぞやといえば、「移ろい事」である。
移ろい事とは、移り変わっていく空虚さで、映ろう、空ろうの語もある。
雲居の桜移ろひせぬであって欲しいが、そうもいかないのが自然界だ。
短い当たる周期が過ぎると、長い長い冬のような曲がる周期が来る。これは絶対である。
その冬の時代を辛抱して春を待つというのが、相場の世界の八割、九割と見ておけば
よいだろう。従って曲がることは恥でもなんでもない。である以上は、曲がった時を
耐えられる資力と気力があるかどうかである。
相場師の寿命が長いか短いかは、冬の時代の処し方にある。
「花の色はうつりにけりな、いたずらに、わが身世にふるながめせしまに」
「神様」などと人から言われたときである。
言う側の人は決して悪気でない。言われた側も、まんざらでもない気持ちだ。
昔から、「当たり屋につくより曲がり屋に向かえ」といわれる。
大当たりが続いていても、そのように注目されだした辺りはもう、富士山でいう
八合目あたりである。
なぜ曲がるか。この事について色々な角度から解説することは出来るが、一言で言えば
これすべて「循環」である。要するに相場とは何ぞやといえば、「移ろい事」である。
移ろい事とは、移り変わっていく空虚さで、映ろう、空ろうの語もある。
雲居の桜移ろひせぬであって欲しいが、そうもいかないのが自然界だ。
短い当たる周期が過ぎると、長い長い冬のような曲がる周期が来る。これは絶対である。
その冬の時代を辛抱して春を待つというのが、相場の世界の八割、九割と見ておけば
よいだろう。従って曲がることは恥でもなんでもない。である以上は、曲がった時を
耐えられる資力と気力があるかどうかである。
相場師の寿命が長いか短いかは、冬の時代の処し方にある。
「花の色はうつりにけりな、いたずらに、わが身世にふるながめせしまに」