レポート 新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討 No10
10.レポート余談
〇多様な学びの支援??
最近の自治体首長選挙で、多様な学びを支援等の公約が見られる。例えば、校内教育支援センターの設置やフリースクールの授業料の助成などである。自治体の工夫の一つである。しかし、限度があることを認識した上で進めることだ。
多様な学びは、不登校になった子どもや親が苦境の中で切り開き、取り組んできたものである。それを「多様な学び」で一括りしないで、不登校の子どもたちがやっているさまざまな学び方に対して全面的な支援を行うことが大事ではないか。例えば、パソコンの購入やWi-Fiの設置、学習図書やアプリの購入、塾やフリースクールの授業料、交通費など「多様な学び」に対する支援である。「学びの多様化学校」という枠を設けるのではなく、個々の具体的な多様な学びへの支援をすればよい。このような「多様な学び」への支援なら私も賛成である。
〇学ぶとは何か
日本の教育は「人材育成」のための教育であって、子どもを競い合わせることを手段としている。それは子どもの発達・成長を保障するためのものではない。日本財団の調査によれば、不登校を含はじめ学校になじめない子どもが6人に1人いるそうだ。OECDの学力調査で日本の学力は良いそうだ。しかし、勉強嫌いも結構多い。“勉強は良くできるが勉強は嫌い”、そんな子どもが育っているようだ。
「“強いて勉める”と書いて勉強だ。勉強は強いられてするものだ。いやでもするものだ。」と言う先生がいた。また、ある校長は、「学校教育に必要なのは“忍耐”と“協調”である。」と言った。こんな日本の学校教育を端的に言い表している。
「なぜ、勉強するのかと問われた時、何と答えるか。」ある先生たちの研究会で質問が出た。一人の先生が「人間の尊厳を守るため」と言ったが、場はシーンとなった。私が「水曜塾」に来ている子に、「何のために勉強がしたいの?」と尋ねたら、その子は「騙されないためです。」と言った。ある子がいじめで学校に行けかった時、「僕も勉強がしたい」と言っので一緒に勉強する時があった。その子は中学を卒業した後働き出したが、10年経って通信制高校に入って勉強を始めた。高卒資格が欲しかったそうだ。
なぜ勉強するかは一人ひとりが考えればいいのだ。人それぞれに学びの意義がある。
学びて 時にこれを習う また楽しからずや。(学んだことを実践できることは楽しいことだ 下村湖人「論語物語」)
学とは 誠実を胸に刻むこと
教えるとは 希望を語ること (フランスの詩人 ルイ・アラゴン)
〇雑感(子ども 教育などなど)
法学者の浅井清信氏は「日本の民主主義は、人民が血と汗を流して勝ち取ったものではない。」と言った。だから、日本には民主主義が根を下ろしていない。今日の政治・経済・社会の状況を見ればわかる。
灰谷健次郎は、「日本の学校は水俣の海だ」と批判し教職を辞した。そして、作家としてまた幼児教育者として自らの思いを実践し表現していった。氏の作品には障害のある子どもが周りのみんなと一緒に活動する姿が描かれている。また、林竹二さんと共に取り組んだ尼工高での「人間について」の素晴らしい実践の記録も残している。
武者小路実篤は「人生論」の中で「子ども、教育についてはルソーの『エミール』、下村湖人の「次郎物語」を読むのがいい」と進めている。子どもがどのように成長していくかが描かれている。(初めて子どもを成長の主体として見出したのがルソーである。)
また、吉田松陰は、「18歳までは自由に学び、進路を考える時間であればいい」と言った。松陰は、「人が3人居たら学校ができる。」と「野山獄」で学校をはじめた。「松下村塾」を始める前のことである。
灰谷健次郎は、「日本の学校は水俣の海だ」と批判し教職を辞した。そして、作家としてまた幼児教育者として自らの思いを実践し表現していった。氏の作品には障害のある子どもが周りのみんなと一緒に活動する姿が描かれている。また、林竹二さんと共に取り組んだ尼工高での「人間について」の素晴らしい実践の記録も残している。
その他、「綴り方教育運動」や「自主的民主的同和教育運動」などわが国には優れた教育実践があった。
しかし、今や、この国の教育は、教育の主体であるはずの子どもや教師が疲弊しきっている状況にある。まさに、灰谷健次郎が言った「水俣の海」そのもののようだ。
毎日5時間や6時間授業が行われ、毎日宿題があり、テストがある、これって、日本の学校では当たり前のこと。学校の授業以外にも塾で勉強するのも日本では当たり前。髪型や靴下の色、服装まできめられているのも日本では当たり前。でも、世界に目を向けると、こんなことは珍しい。先生は忙しい。子どもも忙しい。起きてから寝るまで、学校のことで振り回されている。ゆっくり休み間もないほど忙しい。
教師は教師でマル付けや提出物の作成、事務的手続きに時間をとられて、教材研究や授業準備がおろそかになっている。
なぜなんだろう。子どもとは何か、成長とは何かが分かっていないから。「人材育成」が教育の目的だから、どんどんどんどん子どもを追い立てる。社会に役立つ、国に役立つ、会社に役立つ「人材」を育てる=作るために教育がやられているから。
本気で、子どもって何かを考えたらどうだろう。「子どもの権利条約(1989年)ができて、もう35年にもなるのに、不登校が30万人って、おかしくないだろうか。
*レポート「新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討」を終わります。