不登校問題を考える・子ども応援センターTomorrow 

不登校問題への提言・問題提起/不登校の親の会「こぶしの会」/不登校・ひきこもりの人たちの居場所「水曜塾」の活動紹介

水曜塾 7月の開催日

2024-06-28 09:40:25 | お知らせ

不登校・ひきこもりの人たちの居場所

       水 曜 塾

水曜塾は、誰でも自由に参加できる不登校や引きこもりの居場所です。ただ話をするだけでも、お茶を飲むだけでも、関心のある人は来てください。

水曜塾には、今、高卒認定試験を目指す青年が来ています。今年は数学と国語の単位取得を目指して頑張っています。また、6月の水曜塾には、16歳の娘さんの相談にお母さんが来られました。興味関心がある人は来てください。

7月の開催日

日 時 3日、10日、17日、24日、31日の各水曜日 

    午後1時から4時まで

場 所 亀岡市総合福祉センター

連絡先 090-9706-9431(野中 携帯)

持ち物は必要なものを自分で考えて持ってきてください。何をするかは、いっしょに考えましょう。

 


レポート 新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討    No10

2024-06-09 10:06:40 | レポート

レポート 新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討    No10

10.レポート余談

〇多様な学びの支援??

最近の自治体首長選挙で、多様な学びを支援等の公約が見られる。例えば、校内教育支援センターの設置やフリースクールの授業料の助成などである。自治体の工夫の一つである。しかし、限度があることを認識した上で進めることだ。

 多様な学びは、不登校になった子どもや親が苦境の中で切り開き、取り組んできたものである。それを「多様な学び」で一括りしないで、不登校の子どもたちがやっているさまざまな学び方に対して全面的な支援を行うことが大事ではないか。例えば、パソコンの購入やWi-Fiの設置、学習図書やアプリの購入、塾やフリースクールの授業料、交通費など「多様な学び」に対する支援である。「学びの多様化学校」という枠を設けるのではなく、個々の具体的な多様な学びへの支援をすればよい。このような「多様な学び」への支援なら私も賛成である。

〇学ぶとは何か

日本の教育は「人材育成」のための教育であって、子どもを競い合わせることを手段としている。それは子どもの発達・成長を保障するためのものではない。日本財団の調査によれば、不登校を含はじめ学校になじめない子どもが6人に1人いるそうだ。OECDの学力調査で日本の学力は良いそうだ。しかし、勉強嫌いも結構多い。“勉強は良くできるが勉強は嫌い”、そんな子どもが育っているようだ。

「“強いて勉める”と書いて勉強だ。勉強は強いられてするものだ。いやでもするものだ。」と言う先生がいた。また、ある校長は、「学校教育に必要なのは“忍耐”と“協調”である。」と言った。こんな日本の学校教育を端的に言い表している。

「なぜ、勉強するのかと問われた時、何と答えるか。」ある先生たちの研究会で質問が出た。一人の先生が「人間の尊厳を守るため」と言ったが、場はシーンとなった。私が「水曜塾」に来ている子に、「何のために勉強がしたいの?」と尋ねたら、その子は「騙されないためです。」と言った。ある子がいじめで学校に行けかった時、「僕も勉強がしたい」と言っので一緒に勉強する時があった。その子は中学を卒業した後働き出したが、10年経って通信制高校に入って勉強を始めた。高卒資格が欲しかったそうだ。

なぜ勉強するかは一人ひとりが考えればいいのだ。人それぞれに学びの意義がある。

 学びて 時にこれを習う また楽しからずや。(学んだことを実践できることは楽しいことだ 下村湖人「論語物語」)

 学とは 誠実を胸に刻むこと

 教えるとは 希望を語ること  (フランスの詩人 ルイ・アラゴン)

〇雑感(子ども 教育などなど)

法学者の浅井清信氏は「日本の民主主義は、人民が血と汗を流して勝ち取ったものではない。」と言った。だから、日本には民主主義が根を下ろしていない。今日の政治・経済・社会の状況を見ればわかる。

灰谷健次郎は、「日本の学校は水俣の海だ」と批判し教職を辞した。そして、作家としてまた幼児教育者として自らの思いを実践し表現していった。氏の作品には障害のある子どもが周りのみんなと一緒に活動する姿が描かれている。また、林竹二さんと共に取り組んだ尼工高での「人間について」の素晴らしい実践の記録も残している。

武者小路実篤は「人生論」の中で「子ども、教育についてはルソーの『エミール』、下村湖人の「次郎物語」を読むのがいい」と進めている。子どもがどのように成長していくかが描かれている。(初めて子どもを成長の主体として見出したのがルソーである。)

また、吉田松陰は、「18歳までは自由に学び、進路を考える時間であればいい」と言った。松陰は、「人が3人居たら学校ができる。」と「野山獄」で学校をはじめた。「松下村塾」を始める前のことである。

灰谷健次郎は、「日本の学校は水俣の海だ」と批判し教職を辞した。そして、作家としてまた幼児教育者として自らの思いを実践し表現していった。氏の作品には障害のある子どもが周りのみんなと一緒に活動する姿が描かれている。また、林竹二さんと共に取り組んだ尼工高での「人間について」の素晴らしい実践の記録も残している。

その他、「綴り方教育運動」や「自主的民主的同和教育運動」などわが国には優れた教育実践があった。

しかし、今や、この国の教育は、教育の主体であるはずの子どもや教師が疲弊しきっている状況にある。まさに、灰谷健次郎が言った「水俣の海」そのもののようだ。

毎日5時間や6時間授業が行われ、毎日宿題があり、テストがある、これって、日本の学校では当たり前のこと。学校の授業以外にも塾で勉強するのも日本では当たり前。髪型や靴下の色、服装まできめられているのも日本では当たり前。でも、世界に目を向けると、こんなことは珍しい。先生は忙しい。子どもも忙しい。起きてから寝るまで、学校のことで振り回されている。ゆっくり休み間もないほど忙しい。

教師は教師でマル付けや提出物の作成、事務的手続きに時間をとられて、教材研究や授業準備がおろそかになっている。

なぜなんだろう。子どもとは何か、成長とは何かが分かっていないから。「人材育成」が教育の目的だから、どんどんどんどん子どもを追い立てる。社会に役立つ、国に役立つ、会社に役立つ「人材」を育てる=作るために教育がやられているから。

本気で、子どもって何かを考えたらどうだろう。「子どもの権利条約(1989年)ができて、もう35年にもなるのに、不登校が30万人って、おかしくないだろうか。

 

*レポート「新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討」を終わります。


レポート 新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討 No9

2024-06-04 14:06:02 | レポート

レポート 新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討     No9

9.この国で、私たちはどう生きるか?!

 子どもの貧困、いじめの蔓延、不登校の増加、これらを一括りに「子どもの多様化」

として済ませてしまう国に私たちは生きている。本レポートで指摘したように、「新しい不登校対策(COCOLOプラン)」は、「学校とは別の場を準備するから、やる気が出たらそこでやりなさい」というものである。自らの政策で不登校を生み出しながら、政策を改めようとせず、不登校の子どもたちを置き去りにしてしまう国に私たちは生きている。

 そのような国で、私たちはどう生きていけばいいのだろう。

 さまざまな不登校対策が行われているが、なんの支援も受けていない子どももたくさんいる。

私の近くにこんな子がいた。小学校2年生で学校に行かなくなった。両親は働いていて、昼間は一人で過ごす毎日だった。家族は、彼のすることを何も言わずに見守っていた。テレビを見たりビデオを観たり、漫画を読んだりゲームをしたりする毎日だった。そんな日々を過ごしながら、本を読んだり、運動したり、家事を手伝ったり、勉強したり、時間の過ごし方が変化して行った。映画の影響か、5年生になって英語の辞書を買ってもらった。そして、独学で英語の勉強を始めた。6年生の終わりになって、「やりたいことができたので、中学校は行こう」と決めた。小学校を卒業する時期に「学校に行かなかった僕を、誰も責めなかった。ありがとう。」と文集に綴っていた。その後、中学、高校へ行き、大学では外国語の勉強をした。今は、「日本語学校」を支援する仕事をしている。小学校に行かなくても、家で1人過ごしても、安心して居られる場所があり、伸び伸び過ごせるところであれば、そして、子どもに寄り添う人がいれば、子どもは伸びていくのだと、この子は教えてくれている。

また、ある子は、小学5年生の時に、先生に詰られて教室を飛び出し2Kmの道を家まで駆け戻った。その時から彼は家に閉じこもった。15年間、彼は誰にも心を開かなかった。為す術もなく、ただ待ち続けた家族がいた。15年間の彼のこと、家族のことを簡単には語れないが、今、彼は高卒認定試験に取り組んでいる。昨年、英語の試験に合格し、今年は数学と国語を頑張っている。どんなに困難な状況に合っても、長い間引きこもっていても、生きているんだ。生きようとしているんだ。これが人間の底力なんだと思わずにはいられない。

子どもは様々な可能性を持っている。安心し伸び伸び過ごせる環境の中で、友だちと遊んだり学んだりし、失敗や過ちを繰り返し、悩んだり苦しんだりしながら成長していくものだろう。だから、不登校を生み出すような、子どもを切り捨てるような教育を、教育政策を私は許せない。

しかし、私たちはそんな国に生きているのだ。自らが問題を生じさせながら、あたかも救いの手を差し伸べるような「新しい不登校対策(COCOLOプラン)」。まるで、マッチポンプである。そんな偽善に付き合う必要はない。

子どもは、安心できる環境と寄り添う人がいれば、必ず、自らの道を切り開いて行く力を持っている。

せっかく不登校になったのだから、ゆっくり休ませてあげましょう。

登校を拒否することは、自立への第一歩です。

子どもの思うようにさせてやりましょう。マンガだって、ゲームだって、なんだって

一緒に食事をし、一緒に話しましょう。いっしょに遊び、いっしょに笑いましょう。

まずは、お父さんから、お母さんから始めましょう。そして、家族から仲間へと広げていきましょう。不安でしょうが、何も心配いりません。これまで、何万、何十万の子どもたちが自らの道を切り開いて行っているのですから。


レポート 新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討 No8

2024-06-01 10:19:56 | レポート

レポート 新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討     No8

8.教育とは何か(日本の教育の本当の姿)

 「7.不登校対策の背景 その2」では、中教審や経団連の考え方を述べた。中教審は日本型学校教育が諸外国から高い評価を得ていると自負しているが、日本の学校教育は、ほんとうにそのような素晴らしいものだろうか。

 そもそも日本の学校教育は、お国の為に役立つ人づくりから始まった(1872年)。それは侵略戦争をするための道具でもあった。第2次世界大戦の敗北によって挫折し、「日本国憲法」によって否定された(1947年)。(1972~1947・・・75年間)

 「日本国憲法」は、この国の歴史上はじめて国民の教育権を保障した。それから77年が経過するが、子どもの発達を保障するものであっただろうか(就学免除されていた障害児が義務教育の対象とされたのは1997年である)。

教育内容を決める教育審議会の会長や教育再生会議の座長の次のような発言がある。今日の教育の本質の一端を伺い知ることができる。

〇国立政策研究所研究員(1980年代)

学習指導要領(教育課程や学習内容の基準を決めている)の内容は3割の子どもが理 

解できればいい。

〇三浦朱門(教育課程審議会会長・1990年代)

・国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出

てくる。日本もそういう先進国になっていかなければいけません。それが“ゆとり教

育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどくいっただけ

の話だ。

・できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり

注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、

やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実

直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです。

〇野依良治(教育再生会議座長・2006年)

・1000人に1人のエリートを育てる

などなど。(斎藤貴男さんの「機械不平等」参照)

そして、2006(平成18)年の教育基本法改訂によって「人材育成」が教育の目的となった。 

 エリート育成、人材育成が日本の教育の根底にある考え方なのです。

 日本政府は教育に関して国連から勧告を受けている。

〇国連・子どもの権利委員会からの勧告(1998年・2004年・2010年・・)

・過度に競争主義的な環境による否定的な結果を避けることを目的として学校制度  

 および学力に関する仕組みを再検討すること

・教育について、教育制度が「高度に競争主義的」であるとし、「いじめ、精神的障

害、不登校・登校拒否、中退および自殺」につながることを懸念すると述べている。

〇国連・障害者権利委員会からの勧告(2022年)

・インクルーシブ教育の権利を保障すべき

  インクルーシブ教育とは、「多様な子どもがいることを前提とし、その多様な子ど

  もたち(排除されやすい子どもたちを含む)の教育を受ける権利を地域の学校で保

  障するために改革していくプロセス」のことをいう。

などである。

 日本政府はこれらの勧告を受け入れておらず、状況は変わっていない。

 1980年代以降日本の教育は大きく変化して行った。それとともにいじめ・不登校が深刻化していったと言える。その行き着いた先が不登校30万人である。この状況は、国の教育政策によって生み出されたものである。

 そして、今、不登校対策の名のもとに不登校に特化した新たな学校「学びの多様化学校」が作られようとしている。本レポート 「新しい不登校対策「COCOLOプラン」の批判的検討」で見て来たように、「新しい不登校対策」は不登校問題を解決するものではなく、学びの保障を名目とした新たな選別教育を推し進めるものと言えるだろう。