今日(10月5日)の京都新聞のコラム”凡語”に、コロナ禍の学校の課題が書かれていました。
コロナ禍で、学校行事はどんどんつぶれ、部活動は制限され、学校が楽しいという子どもが減った。その一方で、大人たちのルール破りの行動があった。子どもからは、自分たちだけが制限されている、という不満が聞こえた。
緊急事態宣言の解除で、運動会の練習に励む学校もあるだろう。子どもの躍動を周りが応援する場面が少しずつ戻ればいい。子どもたちの声に耳を傾けなければならない。
これは良しとしよう。
しかし、コロナ禍の中で、子どもたちの声を聴き(子どもたちの意見を聞き)、子どもたちと一緒に、「どのような学校生活を送ろうか」「学校行事はどうしようか」「クラブ活動はどうしたらいいのか」等を学校や学級がどれだけあったのだろう。
学校行事の中止も、クラブ活動の制限も、教育委員会や先生たちが考え出したことではなかったのか。その時に、子どもたちの意見を聞き、子どもたちといっしょに考えることをしたならば、コロナ禍の中でも、子どもたちは主体的な生活が送れたのではないだろうか。
コロナ禍という災害の中で、どう生きるか、それは、私たち一人一人の課題であるのだから。