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立つ鳥後を濁さず的発想は、私が日本人だからだろうか?

2005-04-21 22:26:48 | 社会
ネット上の自殺予告、令状なしでも情報開示を…警察庁 (読売新聞) - goo ニュース


ネットで予告しての自殺・ネットを介しての集団自殺というのは、ニュースではかなりの確率で取り上げられるから如何にも流行っているような印象を受けるのだが、実際そんなことは「全くない」。

もっとも、年間での自殺者の数自体は、10年前に比べると50%以上増えており、優に3万人を超す(*注1)。これだけ、1日に100人弱自殺している方が問題というなら遥かに問題で、ネットによる集団自殺者は、上のニュースの中にも書いてある通り、03年が34人、04年が55人に過ぎない。今年は既に3月時点で50人を超えているようだが、例えば今年の年間の総自殺者3万人、今年の総ネット自殺者をこのペースで200人として概算しても、ネット自殺者の割合は全体の僅か0.67%しかない。

こんなミニマムな部分を、無理矢理ISPに個人情報開示させて金と人員かけさせて取り締まることには何の意味もない。むしろ、下手をすると更に数を増やしてしまうことになりかねない。

何故なら、自殺願望を持っている人達の中には、「死に対する欲求が明確に形となって意識されていない=何となく死にたいなぁと考えている」人達もいると思われるが、それを権力によって「取り締まる」ことにより、「それをかいくぐって事(自殺)を成し遂げる」という『目先のはっきりとした目的』を彼らに与えてしまい、一抹でも残っているかもしれない死への恐怖感も拭い去ってしまう可能性があるから、である。

加えて、権力の介入という点では、交通事故死者数(24時間・30日以内合わせて)だって減少傾向にはあるとはいえまだ年間1万人程度いて十二分な対策が取られているとは言えないんだから、「自発的に死にたがっている」数十人数百人を抑える前にやるべきことはある筈だ。


ヨーロッパでは「死んでお詫びします」という自己表現手段としての自殺はまるで理解を得られないようだから、日本においての自殺を文化的・宗教的素地などマクロな視点から考えるのも有効かもしれないし、安楽死や尊厳死といったバイオエシックスの問題も自殺の中には一部絡んでくる。

でもそうすると更に話がややこしくなるのでここでは触れないが、とりあえず法治国家という観点から見れば、論点は「生きる義務」と「死ぬ権利」ってことに絞られてくるだろう。4/7のブログのテーマにも似通っているが、「恣意性の権利」にも話は及ぶ。

結局は、「権利と義務は表裏一体であり、社会との関わりにおいて個人が一方的(恣意的)に権利、自由を主張するのは許されるべきではない」、すなわちこのテーマにおいては「生きる義務も果たしていないのに勝手に死を選ぶのは"社会的に"許されない」というリクツで終わりではある。
ただ、「勝手に死ぬ権利を行使する」ことに対しての罰則や抑止力になるものは法律では、というより現世では殆ど如何なる形でも設けようがないのがネックで、自殺はリセットボタンを押すという最強の「裏技」だから、ショージキ「自殺なんてする気のない周り」があれこれ考えて言ったところでどうしようもない問題でもある。

だからって安易に周囲の愛情だの何だのって言いたくはないが、「私が死ねば家族に保険金が入って・・」などの積極的な自殺願望でない限り、それ以外の大抵の自殺願望を持っている人達には「生存欲求」や「生きる義務」がピンと来ていないのは事実だろう。
その「ピンと来てなさ」の原因としては、「(主に三大欲求の)不満を幼少期から感じていない=満たされてない"から"満たされたい・生きたいにならない」ことや、「周囲の役に立てていない・立てて喜ばれていない=他からの『自分の必要性』を認識できていない」ことが当然ある訳で。


前者については、日本は物質的豊かさを求める方向で発展してそういう不満を殆ど社会から一掃してしまったんだから、今更変えるのは難しいかもしれない。一方、後者で、特に未成年者の自殺については、これははっきり家庭での親子関係に問題があると言ってよい。

「自分の必要性」というのは、細かく分解すれば、
①その「自分」の中にまず「自と他の区別」があって、
②それで区別された「他」に対して自分が強制されることなしに何らかの行為により影響を及ぼして、
③その行為に対して「他」から好意的な・少なくともはっきり感じられるレスポンスがあって、
初めて認識されるものである。

そんなことは言うまでもない筈なんだが、困ったことに最近は「共依存(*注2)」の親子関係が結構増えているようで、親自身が子供を「自分の一部」として見境なく愛玩し、子供への過度な世話焼きで自分を満たそうなんてしているから、子供の方も「自分」ってもんが何がなんだか分からなくなって自殺なんてことも考えてしまうのである。

まぁ今は小学校でも心理療法士やカウンセラーがいるのは珍しくないようだが、こういう根本的な問題については対症療法的な方法よりも親が自覚しないことにはどうしようもない。ついでに、当事者以外の私達も、そういう親バカ親子を見て苦笑して済ませていちゃぁ、いかんと思う。「あんたらイタイよ」って冷ややかな目で見てあげないと、親も気づかないでしょう。


じゃあ20代以上の自殺者についてはどうかというと、これは上記①~③のうち、やはり基本的には③の問題が多いってことになろう。人口が多いうえに仕事内容も専門化・細分化され、その外的要因として「お客さん(レスポンスを返す他人)」が感情・感覚レベルで分からなくさせられることに加え、逆に内的要因として、自分のステータスや報酬の方に目が行き過ぎて勝手に「お客さん」の存在を忘れてその目標設定がちょっとでも達成できないと自滅、ってパターンもある。

更にそれらの原因を考えていくと、「目的と手段が分離している病理」ってことになろうが、それについてはエッセイとして別項にいずれ設けようと思う。


ともかく、一応結論めいたことを書いておく。「自ら死を選ぶ権利は、生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利の一貫として認められなくはないが、それら個人の尊重もあくまで"公共の福祉に反しない限り"なんだから、最低限死ぬ場所くらい選べよな」って言っておきたい。野生動物だって(全部ではないだろうが)そのぐらいするんだから。
・・細かに自殺の原因を考えておいて随分乱暴なと思われるかもしれないが、死んだ後にまで生き残った周りに迷惑かける権利だけはどうやってもない、ですからね。



*注:
(1)
警察庁発表によるH15年度の年間総自殺者数は、34,427人。H5年度は、22,104人だった。

(2)
共依存・・・共依存者とは、他者(主に身近な、配偶者、親族、恋人、友人等の他人)に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして、自己犠牲的な献身を強迫的に・過度に行なう傾向のある人のことをいう。
「他者に認められることで満足を得る」のはそれこそ本文中述べた「自己の必要性」の認識として問題になるようなことではないが、本来「他者に認められる」は自分の行為の「結果」でしかないのに、共依存者はそれを「目的」として他者を意図的にコントロールしようとするのが問題なのである。最近よく取り上げられる例は、アルコールやギャンブル依存症の人達の「支え手」になってしまっている共依存者、例えば「ギャンブル依存症の子供がギャンブルで負けた金を、工面し続けて依存症から当人を立ち直らせるチャンスを奪ってしまう親」のような人のことである。