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2005-04-22 23:07:19 | 社会
米で「父と暮せば」初上映 核保有国にも感動広がる (共同通信) - goo ニュース


まぁ、私は井上ひさし氏原作のこの戯曲「父と暮らせば」を読んだことはないし、この映画も観ていないので、この戯曲・映画についてどうこう評価するって訳じゃなくて。

というより、この戯曲も映画も一つの「作品」として感動に値するものだろうし、こういった作品を世に送り出すことには意味があるんだろうが、但し、こういった作品によって、どれだけ核保有国の人々の核に対する意識に影響があるのかって点については、私はちょっと疑問なのだ。


私は、広島には2回、長崎には1回、これまで計3回原爆資料館に足を運んだことがある(広島の資料館は正式には『広島平和記念資料館』という)。

もっとも、いずれも10数年以上前のことなので全てをはっきり記憶している訳ではないが、止まった懐中時計や柱時計(*注1)、泡を吹き変色した屋根瓦、背中などがケロイド状に大きく膨れ上がった少女の写真・・・等、皆さん一度は目にしたことがあるだろう「キノコ雲の上空からの記録映像」よりも何十倍も原爆の凄まじさを訴えかけるものが資料館には展示されている。


実際に広島と長崎に落とされた原爆の意味や是非については、相変わらず敗戦国の日本・日本人と戦勝国のアメリカ・アメリカ人の間にはギャップがあるだろう。1995年、対日戦勝50周年にあたりアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館で企画された原爆展が、退役軍人(元捕虜)らや米議会の抗議や批判によって結局B29の展示だけに留まった件は記憶に新しい。

私達日本人、特にあの被爆経験のある方々や第二次大戦を経験されている方々は、原爆に関しては心の奥底のどこかでアメリカへのルサンチマンはあるだろうし、それは生涯消えるものではないとは思う。

でも、物凄く酷い言い方ではあるが、第二次大戦はあくまで「終わったこと」なので、第二次大戦、戦争そのものについて「考える」意味はあっても、「原爆を投下する意味があの時点であったのか」とか「原爆投下によって戦争の終結が早まったという見方は是か非か」とかを戦後60年という今議論して(蒸し返して)もしょうがない。そういった議論は、無駄にナショナリズムを煽り偏見を生む悪影響ぐらいしかない。

真に大切なのは「繰り返さない・させないこと」でしかないし、だからこそ原水禁世界大会やこうした文化的な取り組み・交流を続けるべきなのだが、私が冒頭に書いた「疑問」というのは映画にしろ小説にしろ「ヒューマンドラマ」にしてしまうことに対してだ。

記録映画やノンフィクションのルポでもない限り事件や史実というのは正確には伝わりにくいものだが、特に原爆についてはそうだ。映画や小説として特定の登場人物を介してストーリーを作ると、作品の良し悪しに関わらずどうしても大きなテーマに対して焦点はぼやけ易い。

原水爆の是非を考えるなら、資料館に足を運んで、実際に遺物や写真を通して目に焼き付けるのが最も効果的であり、基本的にはそれしかない。
あれをきちんと見て何も感じない・考えない人は、まず有り得ないだろうから。「こんなことをしなければならない『戦争』の意味って何なんだろう?」と。


ただ、「できる限り多くの人に」という意味では、資料館や原水禁世界大会に足を運ばせるのはなかなか難しいので、例えばR指定でもいいから実際の資料を基にしてCGや特殊メイクなども駆使してできるだけ正確な『(ドラマとしてのストーリーがない)再現映画』を作る、っていう方法は有効かもしれない。

何と言っても、非核化が進んでいるのか進んでいないのかよく分からない今の状況は、「実際に原爆を経験して生き残った人間・それらを後の資料などである程度視覚体験として把握できてる人間が地球上に"少な過ぎる"」からなんだから。
正確な再現映画を作れるのは唯一の被爆国である日本しかないので、むしろこれは早々に作る「べき」であろう。勿論アメリカは嫌がるだろうし政治的圧力もかけてくるかもしれないが、これがなされ全世界の多くの人々に共有してもらうことができなければ、又繰り返される可能性が高くなるだけだ。

そうは思いませんか?


*注:
(1)
一応正確に日時を記しておく。
広島は1945年8月6日午前8時15分、長崎は同年同月9日午前11時2分。