lien

日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

街には専門店も百貨店もどちらも必要である~TV2.0について

2006-07-12 22:54:13 | 社会
ホリエモン騒動は、彼が小菅に行く前から既に話題の中心が彼の錬金術(の違法性)になってそれが変わらぬまま収束の方向に向かっているが、さて、彼がニッポン放送・フジテレビとドンパチやり始めた頃は、まだ彼の事業家としてのメディアに対するビジョン(既存メディアとインターネットの融合など)にも焦点が当てられていた。

結局フジテレビとLDが和解した後、業務提携推進委員会で何かやる筈が日の目を見ないままホリエモンに疑惑が降りかかって、今のマスメディアでよく目にする内輪キーワードと言えば「地デジ」や「特殊指定(宅配制度維持)」だが、ネットに目を移せばGyaOのようなインターネットTVも当たり前になっている。

で、今、中でも議論が盛り上がっているのがYouTubeについてらしい。ちなみに、私はYouTubeは、昨年存在を知ってごくたまにではあるが利用していた。海外のサッカーの試合は、今では日本でも数多く視聴できるようになっているとは言っても伊・英・西・独・仏といった有名トップリーグでさえ全てではないしUEFAカップなんて全く観る手段がないから、ゴールシーンだけでも観たい・確認したい時にはそれなりに重宝していた訳だ。(もっともきちんと探さないとなかなか見つからないけれども)


YouTubeそのものではなく、Web Video、すなわち映像配信が今後音楽配信のようにスタンダードになるのかってことについては、例えば弾さんはこう仰っている。

《しかし、これだけはわかる。

Web VideoこそTV 2.0なのだということが。

それは、Napsterの敗北が、Web Musicの敗北を全く意味しなかったことからも明らかだ。もうすでに音楽配信ははiTMSなしには考えられない。歴史の歯車はもう戻せないのだ。》
YouTubeがテレビになるのには10年もかからない』(404 Blog Not Found)

まぁ回線速度はどんどん速くなっているしサーバの記憶容量もどんどん大きくなっているし(「あちら側」に情報は蓄積させておけばいいという考え方が常識になっているし)、確かにその意味でもWeb Videoが人口に膾炙していくのは「必然」だろう。
VHSが登場したのが今から30年前。そこからTVはどんどん覇権を切り崩されていった。「映像を観賞する時間」は今やDVDにもゲームにも食われ、このWeb Videoにも食われかけているばかりか、HDDレコーダーの出現(&PCでの録画の普及)によって「視聴率」は更に無力化した。だからTV業界が流暢なことを言ってられない状況に置かれているのは間違いない。

但し、これはTVが滅んでいくことを意味している訳では全くない。「あり方」の変革を求められているだけだ。
というのも、これはホリエモンも弾さんも少々勘違いしている点だと思うのだが、皆が皆ホリエモンや弾さんのような人間ではない、「受動的」の価値はそんなに低くはないのだ。


人間は観たいものだけ観たい、それはそうだろう。
私もTVのニュースやバラエティ・お笑い番組は観る(HDDレコーダーに録画して観る)が、ニュースならそれほど自分にとって必要でない・価値がないと感じるものやバラエティ・お笑いなら面白くないと感じる部分はどんどん飛ばして観る。ただその観方が全てではない。帰宅した直後や風呂上りにちょっと一服しながら、或いはネットサーフィンしながら・電話をしながらなど、「流れているTVを意識せず眺めている」時間は必ずある。

ホリエモンや弾さんのようにそんな時間も勿体無い・存在しない忙しさの違いってこと"だけ"ではない。街中を散歩したり、大型の書店・レコード店やショッピングモールをぶらついたりするのと同様に、『自分が目的にしていなかったり未知だったりする情報が受動的に飛び込んでくる』ことには新鮮な刺激や発見がある。

自分の必要性や欲求だけを素直に追求するのは割合簡単であり、その実現は今やモノでも情報でも容易に環境を整えられるようになっている。しかし、その方向性とは別に、自分の感性や好奇心を広げていく・広げられる方向性はあってしかるべきだし、それはネットでもある程度は可能だが「不十分」だと思う。
何故なら、「自分にとっての新しい発見になり得るもの」は出会ってみるまでは「何だか分からない」から、事前に用意するのは非常に困難だからである。「受動的」をネットを通じてやろうとすれば、例えばGメールやAmazonからの案内メールなどで逆に自分に「関係ない」分野の広告を無作為に載っけて貰うなんてのは面白いかもしれないが、結局それを観る作業は能動性を伴うし、情報量を増やせば鬱陶しいだけってことにもなりかねないし、なかなか有効とは言い辛い。

その点で、やはり「ある程度万遍ない分野の、ある程度の確度の情報をだらだら流す」TVは、そういう特性だからこそ、又今の時代だからこそ必要なメディアだと思う。
「自分の好きなものばっか」は方向性としてあってもいいが、食べ物でそれをやると栄養に偏りが出易いように、情報・娯楽でも脳味噌に偏りが出易い。弾さんのように情報処理・記憶速度が速く好奇心も幾らでも広く湧いてくる人はいい。でも世の中弾さんのような人ばかりではない。


それだけで(一人一人の問題)なく、大袈裟なことを言えば、能動的なメディア・ツールばかりになって「マス」メディアの影響力が薄れていくのは、コミュニケーションの視点からしても社会全体にとって「問題」になる可能性がある。

例えばポータルサイトのニュースなどでは、一応最初に新聞の見出しと同じように大事件や世間の注目度が高いと思われるニュースを目に付き易いようにしているが、読む側が最初から「満遍なくチェックする」態度でなく自分の興味のある分野のニュースを読みたい場合は、関係ない分野のニュースは大抵後回しにされるだろう。
勿論、これだけネットが普及したって多くの人間は電車に乗って通勤して一つの決められた場所で同じ社内の人間と仕事をし、友達恋人家族とも同じ場所で時間を共有しているのだが、それでも既に、「多くの人間が、日常で同じ場所・時間を共有する他者とコミュニケーションをとる"ため"に、自分が余り興味のない分野の情報も敢えて多少は摂取している」という逆転現象が起きている気がするのだ。

私のこの認識が間違っていないとして、じゃぁ「世間」や「流行」ののりしろになるTVがなくなってしまったら人間関係どうなるの?って話だ。
俺は俺、おまえはおまえ、それでいいじゃんという乾いた共存のあり方は、時代の流れだからそれでいい、んだろうか?

「俺は俺、おまえはおまえ、それでいいじゃん」は、この話の中では「多様な価値観を認める」ではない。「俺は俺で勝手にやるし、まぁ俺の関心がない・好きじゃないことにおまえが関わっていてもそれはそれで許してやろう」って態度だ。
「好きじゃない」はまだいい。「好きじゃない」を本当に表明する場合は、その対象に少しは触れた経験やそれに基づく理解がなければそんなことは言えない。ただ「関心がない」は、その関心がない対象に全く触れることなく、単に「自分の関心は既に何かに満たされているから」それ以外に向きようがないってパターンもある。つまり認める認めない以前で、だから「乾いた共存」なのだ。

もっとも、しつこいがこれは極端な机上の話で、しかも男の発想でもある。
ただ一つ言えると思うのは、「ロングテール」も恐竜の首があってこそで、恐竜の首にはTVという受動的なメディアも必要だってことだ。

すなわち、前述した『(TVが)「あり方」の変革を求められているだけだ』ってのは、TVも広告代理店・スポンサーの方ばっか向いてないで、自身の存在価値・意義を再確認してより特性を活かせるようなコンテンツを作らないといけないですよ、って意味である。