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「雷」は正に「神鳴り」だったし、実は今もそうかもしれない

2005-04-24 20:54:04 | 社会
対日批判の中、注目の判決 靖国参拝で26日東京地裁 (共同通信) - goo ニュース


まず論じる前に、このテーマを少し整理しておく。

靖国神社は、1869年、明治天皇の勅命によって、明治維新の「官軍」の戦没者を祀る目的で創建された東京招魂社が起源である。1879年に靖国神社に改称、別格官弊社に列せられ、戦没者を護国の英霊として合祀するようになった。第二次大戦後の1946年、憲法の政教分離の立場から国家の管理を離れ、1952年に完全な一宗教法人となった。

その後、鈴木、福田、三木ら歴代の首相が終戦記念日に参拝し、首相や閣僚の靖国神社公式参拝が合憲か違憲かについては当時から揉めていた(らしい)。この問題が複雑化するのは1978年にいわゆる「A級戦犯」が合祀された一件と、1982年に教科書問題で中国が反日の動きを見せたこと、1985年に中曽根首相が公式参拝した一件(*注1)である。

1985年以降は、2001年に小泉首相が参拝するまで歴代首相の公式参拝はなかったが、それは批判の声が大きくなったことだけではなく、自民党内で親中・ハト派だった田中派、その流れを組む竹下派(今の橋本派)の影響力が強かったことも原因としてあった(ようだ)。

ざっとまとめるとこんなところだろうか。
じゃあ論じましょうといっても、実は私は、右でも左でもなく、中道(無論政治的な意)ですらおそらくない。政治的な問題に関心はあっても、カテゴライズできるような「専門的な知識」、或いは「個人的な感情」がない。

もう少し詳しく言い換えると、私はそういう教育(学校だけでなく家庭・社会全て含む)を受けて来なかったから確固たる宗教観や国家観がなく、そのうえ今まで政治的な問題によって「直接、個人的に」はっきりとした被害に巻き込まれた訳でもないから、立場を明確にすべき内なるモチベーションも少ないってことだ。

勿論、昨年、国家総動員法になりかねない「国民保護法」(*注2)が成立施行され何やらきな臭い状況にはなっているのだが、赤紙が届いて強制的に自由を奪われる事態にでもならない限り「国家権力に面と向かって楯突く"行動"」はとりあえず私はとるつもりはない。(そりゃ法律・行政の明らかな「不備」によって事故事件に巻き込まれた場合は別ですが)

要は、私は無責任かもしれないが、政治・経済・国際問題などの世の中の出来事に対して、自分自身の「影響の大きな利害」に絡んでこなければ、こうして「関心を持って情報を仕入れて考えて分析して発言する(それらを繰り返す)」だけで、署名運動とかデモとかの具体的なアクションを起こしもしなければ、自分の発言・文章によって聞き手・読み手を分かり易い方向に誘導する気もない。この靖国参拝問題は、その私の姿勢を表す最たるテーマだってことである。
(じゃ書くなと言われそうだが、これを取り上げたのは、これがどうしてここまで議論の的になっているかが私には分からなかったからである。)


で、一応分析するなら、小泉首相の靖国参拝を支持する日本人は、靖国には「お国のために勇敢に戦って死んだ同胞の"軍人"達(空襲の被害にあった一般国民や在日外国人などは祀られていない)の霊が祀られているんだから鎮魂すべきだ」と、それこそ「愛国無罪」って心情があるんだろう。それとは別に、つまり靖国参拝そのものの是非ではなく、中国の反日に対して「内政干渉はけしからん」という意味で支持・追随している人も結構多いようだ。

逆に靖国参拝を非難する日本人は、日本の第二次大戦を「過ち」として、軍国主義の復活につながりかねない行政の長の軽挙妄動を危険だと感じているんだろう。

そして私は今のところどちらでもない。どちらでもないが、但し、首相の靖国参拝に積極的に賛成しようとも思わない。
というのも、時には木や岩まで信仰対象になってしまう日本人の宗教観の一方で、日本の寺社の中には、そもそも「怨霊」を封じるためのものが少なくないからである。菅原道真を祀ってある太宰府天満宮や大国主を祀ってある出雲大社に代表されるように、時の政府にとって、「邪魔な存在だったから惨殺した」者の崇りを恐れ、彼らを神に格上げし崇りを封じる(あまつさえ守護神にしてしまう)ためにわざわざ寺社を作った訳だ。

靖国はと言えば、動機はむしろ逆かもしれないが、結局は「体制側が自分達の行いを正当化(*注3)」していることに変わりはない。冒頭に書いた『明治維新の「官軍」の戦没者』には当然「賊軍」だった西郷隆盛などはカウントされていないし、それ以前に、戦死者が合祀をされるどうかの自由が、本人にも遺族にもないんだから。

少なくとも、私は自ら進んで長いものに巻きつかれたくはないし個人的にも直接関与していないから、「どっち(どこ)でもない」のである。


*注:
(1)
中曽根首相は、「戦後の総決算」を標榜し、1984年に靖国懇話会を設けその報告書に基いて1985年に公式参拝を行った。これに対し、朝日新聞が、靖国問題を「中国が厳しい視線で凝視している」と書き、それに呼応する形で人民日報が靖国参拝に批判的な日本国内の動きを報道し、遂に中国外務省も初めて公式に反対の意思表示をした。当時政府の反体制勢力だった社会党も訪中し、社会党と中国政府が半ば連携するような形で反対運動が一気に盛り上がり、その後の中曽根首相の公式参拝を阻止した。

(2)
この法案の問題点については
<http://homepage3.nifty.com/ksueda/yuuji2.html >
<http://www.asyura2.com/0403/senkyo3/msg/390.html >
あたりを参照してみて下さい。

(3)
「正当化」という表現について・・・4/22のブログに引き続き、やっぱり私は「第二次大戦が正しかったのか或いは完全に間違いだったのかどうか」についてはっきり結論づけようとは思ってないが、それは「いずれの解釈にせよ、解釈に拘る必要がないと考えている」という意味である。つまり、「あの戦争は完全に過ちだったから正当化は許されない」ではなく、「事実関係そのものだって何が本当なのか実際は分かってないんだし、直ちに正しかったか間違ってたかを判断して終わってしまってはいかんだろうって点で、正当化"も"すべきでない」ってことである。