lien

日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

【エッセイ第25回】とりあえず言葉(=理性)で理解しておくことも必要である

2006-04-07 22:36:34 | エッセイ
言うまでもなく、世の中には様々な人がいる。似たような文化的背景で育っていても、それこそ「均質的な」日本の中であっても、感性やものの考え方が全く自分とは異なる人間に出会うことは珍しくはない。

様々な人がいるから面白いのだが、例えば、自分が非常に好きなもの・深く関わっているものに対して、自分と接している他人が全く興味を示してくれないなんて場合、コミュニケーションに苦労することはある。
好きか嫌いかという感情はプリミティブなものだから(好き嫌いや恐怖をコントロールしているのは脳の中でも大脳皮質ではなく大脳辺縁系にある扁桃核だという意味でも)、いくら人間に理性があっても意図的に好きを嫌いに・嫌いを好きに変えることは容易ではない。

で、「嫌い」なものや分野であれば何かのきっかけで好きに転じてしまうことはあるが、上に挙げた例のように対象に対して「無関心」の場合は、言い換えればその人にとってその対象が感情を「刺激しない」ってことなので、嫌いを好きに変えさせるよりも難しい。
その対象について行われる行為が全く未経験(=五感を通しての情報の入力がない)で、言葉(名前)だけ知っていてイメージで興味を持てない場合なら、まだ実際に経験することで興味が芽生えることはある。しかし、何度も経験はあってそれで興味が湧かないとなると、もう他者がそれをどうこうするのは難しいどころか無理のようにも思える。

脳に何らかの異常なり欠損なりがあったり神経伝達物質の量的な異常があったりなどの原因による精神障害・発達障害、或いはアパシー・シンドロームやバーンアウト・シンドロームのような周囲の環境と当人との関係の変化悪化によってもたらされる精神障害、こういったことで全体に、もしくは特定のものに対して無関心無気力になるってことはある。
しかし、身体も精神も正常な状態においての人間の好奇心の持ちよう・メカニズムというのは、医学的にもどうもまだ解明されていない(私が知らないだけかもしれないのでご存知の方がいらっしゃれば教えて欲しい)し、となれば、後は言葉に頼るしかない。


無論、社会的生活に不可欠なものでない趣味に類するもの・分野に興味があろうがなかろうが大した問題じゃない本人の勝手でしょと言ってしまえばそれまでだ。
私は好奇心旺盛な方ではあるが、それでも当然なかなか興味を持てないもの・分野は幾らでもあって(性差によって根本的に異なる男女の興味の方向性の差というのを除いても)、それを何とかしなきゃいけない必要性は自身で余り感じてはいない上、周りからの強いはたらきかけがあったからといって直ちに興味が湧くかと言えば否、である。

だから、コミュニケーションの中においても、興味のある側がない側にはたらきかけて「変えさせる」ことなんか無理にする必要は全くないのだが、ただ、お互い、「なんで自分はそれに興味があって好きなのか、或いは全く興味がないのか」の原因理由を自分の中で掘り起こして言葉として表現しておいた方がいい、ってのはあると思うのだ。

むしろ、お互いに共通の好きなもの・分野がある場合には仲良くなるのは簡単なんだから、そういうものが少ない・ない場合にどうやって接していくのか、言い換えると互いに「共感」できない部分をどうやって「相互理解」に変えていくかは重要な問題と言える。


・・・とここまでは実は長ったらしい前置き・導入で、何故私がこんなことを言い出したかと言うと、今から引用する文章を読んだからだ。

《自分は、スポーツに興味がない。プロ野球,W杯,オリンピック,大相撲,ことごとくスポーツ観戦に興味がない。WBCも競馬も観るもの全てに大体どうでもいい。賭博していても同じだろう。熱狂出来ない。
そこにあるドラマや文脈にも恐ろしく無関心。
・・(中略)・・
センバツ高校野球を仕事中ちらちら見るチャンスがあった。ボール一個に一喜一憂。高校時代なんて遊びたくて遊びたくて仕方ないサルみたいな時期になにもかも諦めて野球に打ち込むボウズ頭は尊敬に値するなあと思った。でも、やっぱり休みの日にわざわざチャンネルを合わせないし、スポーツ関連の新聞記事も読まない。自分の出身県の高校が勝とうが負けようが、どうしようもなく興味がない。
高校野球特有のああいうひたむきさとか必死さとかは、なかなか普段お目にかかれないので好きな人が多いのだろう。普通の生活,平凡な日常の中で分かりやすく,勝ち負けがはっきりして,実害がないと言えば,スポーツ観戦かゲームくらいしかないから応援する楽しみを味わうためにファンになるのだろか?勝ち負けがハッキリという点はパチンコとかも同じか…
やはり、スポーツの魅力がわからない。結局,他人じゃんとか,優勝したからって俺には関係ないし…とか我ながら究極につまんない奴なのだ。》
『21世紀炊飯ジャー』(小判日記)
(*途中の「中略」は引用者の私によるもの)


私は、この文章を書かれたnagi373さんとは全く正反対である。高校野球こそ観ないものの(その理由は05'08/24のエントリーで述べた)、スポーツは年中観ている。睡眠時間を削ってでも観ている。保険会社の医療保険の毎月の保険料より高いぐらいの額をスカパー!に支払ってでも観ている。
私は国内のスポーツでも現地には滅多に観に行かないしユニフォームやフラッグなどを始めとした各種グッズは買わないから可愛いものではあるが、それでも「興味がない」nagi373のような方々からすれば十分勿体無いくらいにスポーツ観戦にお金も投下しているし可処分時間も割いている。


私は、スポーツ観戦を趣味にしている人の中ではそう一般的ではない。

それはすなわち、基本的に「プロ」の、それもトップカテゴリーで世界的に見ても上の方のものを好んで観るというのが一つ。また、陸上競技のような、順位付けはあっても性質的には個人戦のスポーツよりも、「勝負事」として勝敗がしっかり付けられる競技が好きである。更に、一つのスポーツの中で特定の一チームや特定の選手"のみ"を"極端に"応援することはなく(好きなチームや選手がない訳ではないが)、評論家や監督のような視点で楽しむ。
だからそんな私が代表してスポーツ観戦の魅力を代弁する訳にはいかないのだが、とりあえず、私個人が何故そこまでしてスポーツを「観たい」のかちょっと書いてみたい。


まず一つには、プロスポーツは、言うまでもなく素人常人にはできないレベルのものだということがある。
その常人には不可能なくらいにまで高められた肉体から表現されるスピードやパワーや技を楽しむという行為は、優れた芸術・文芸作品などを観賞するのと「同じ」である。最も分かり易い喩えで言うならば、超絶テクを持つヴァイオリニストが奏でる素晴らしい楽曲をライブで観賞するようなものだ。

まぁ音楽の場合は演奏者の技巧の凄さと奏でられる楽曲の良さが必ず比例しているとは限らないが、ちょっとその楽器を自分でも演奏したことがある人や、自身で演奏経験がなくても長年数多くの人間の演奏を観てきた人は、演奏者の技量が優れている場合それは「分かる」。
プロスポーツの場合も同様で、プロ選手の凄さが「分かる」ためには、自身のプレイ経験なりある程度以上の観戦経験なりがないと何がどう凄いのかは理解できない。

だから、「興味がない」の中には、少しは「(凄さが)分からない」も含まれていると思われる。ピカソの絵の何が凄いのかサッパリ分からない人は、わざわざ観になんて行かない。


そしてやはり、野球やサッカーが筋書きのないドラマとよく表現されるように、「ストーリー性」というのもある。
nagi373さんは、スポーツのドラマや文脈には興味がないと仰っているが、nagi373さんも映画はよく観賞されるようなので、もし興味を持ってさえ観ればそのストーリー性が「分からない」ということはおそらくないだろうと思う。

私が推測するに、nagi373さんのように(特に勝負事の)スポーツに興味がない人が「スポーツのドラマや文脈に興味がない(持てない)」のは、自身が勝負事をしないために感情移入ができないからだ。
(だからその点、勝負事をより好む男性の方が女性よりもこういったスポーツを好んで観るし、女性のスポーツの見方としてドラマや文脈よりも「あの選手かっこいい♪」なんて方に行き易いんだろう)

しかしながら、スポーツにおけるストーリー性も、小説や映画や演劇などにおけるストーリー性も、結局のところそう違うものではない。

小説にしろ映画にしろ演劇にしろ、主人公がいて脇役がいてイベントがあってパターンがある。キャラクター一人一人の葛藤やキャラクター間の駆け引き(心理的なものも含む)もある。
で、それらは、キャラクターの台詞や表情や動作仕草や間などで表現される。スポーツだって、台詞はまずないが、選手一人一人の表情なども含めた身体を使ったプレー全体でそれらが表現されるのは同じなのである。スポーツの場合は、ストーリーのテーマや舞台やイベントが「限定的」であるというだけだ。

限定的ではあるけれど、スポーツの場合は八百長がなければ、どのタイミングでどういうイベントが起こってどうストーリーが進行されるかは決まっていないし見ている側からは完全には予測できない(観戦経験を積んでプレイしている選手の力量などを把握できれば多少は予測できるものの)。
一方、小説や映画や演劇などは、それらについては逆にある程度決まっていて「限定的」である。特にイベントの「タイミング」についてはそうだろう。ヒロインが生命の危機に晒されているのに、彼女が死んでしまってから助けにくる間抜けな主人公は基本的にいない(推理小説であれば逆のパターンになることが多いが)。

別にどっちが優れているとかドラマチックだとかってことではなく、ただスポーツにも十分観賞に耐え得るようなストーリー性は存在する、ってことである。


「結局他人じゃん」と言えば、「観賞」するものは何だって「それで終わり」である。
まぁ自分で全くやっていないことだから感情移入できないし興味が持てないというのは十分「分かる」が、nagi373さんだけでなくスポーツに興味がない方々全てに言っておきたいことは、
『あなた方が何らかの対象を好んで観賞しているのと(多分)同じように、私もスポーツを好んで観賞している』
ってことである。

このエントリーが、「共感」にまで行かずとも「相互理解」の助けになれば幸い、なのだが・・・