巌義円さんが在籍していたと思われる明治末の東洋大学はどの様な学風であったのだろうか。
運動に関しては「東洋大学百年史通史編」に「・・・常光浩然(大学幹事)の『運動部の起源』(東洋大学新聞第八号 大正十五年七月七日)によると、常光が入学した明治44年頃は運動部は全くなかったという。そこで常光浩然が主唱して大正元年に運動部を設立したと述べている。弓道部、撃剣部、庭球部を同時に創部し、運動部長に垣内松三を推した。」とあることから余りスポーツ活動は盛んではなかったようだ。
但し、同記事には「明治三十九年十二月十三日改正の同窓会規則では第四条六項に『本会ニ運動部ヲ置キ撃剣柔道テニス』の練習をする、となっている。先の常光浩然記憶が正しいとすれば、撃剣の練習はあったが部としては設立されていなかったといえよう。」との記述もある。今日で言う同好会サークルのようなものはあったのかもしれない。
また、運動のことには触れられてはいないが、読売新聞には下記の様な記事も見られ、当時の校風や学生の気質を推し量る上で興味深いものなので引用しておく。
明治44年という年は朝日新聞が8月から“野球害毒論”を展開する年でもあり、野球熱は中学生までに広がっていた時代である。そこで、東洋大学(哲学館)と関係の深い郁文館中学の野球について探ってみたい。
郁文館は明治22年に哲学館が湯島の麟祥院から本郷蓬莱町に新校舎を建て移転してきた際に同時に開設された学校である。東洋大学百年史には「郁文館は哲学館の校舎を午前中使用して、中等程度の教育をおこなうために設立されたものである。井上円了は明治二十一年六月海外視察に出発するにあたり、哲学館の諸事務を、館主代理として東京大学時代からの親友であり、哲学館の講師でもあった棚橋一郎に依頼した。井上円了は帰国後、その労をねぎらい感謝の意をあらわす為、棚橋一郎に哲学館教場を利用しての学校設立をすすめ、郁文館が設立されることになったのである。・・(中略)・・ところで明治二十二年哲学館に設けられた「英学科」は哲学館生で英語を学びたいものを郁文館の「英学専修科」において別途月謝を取り学ばせるものであった。また、郁文館設立時の講師陣は多く哲学館の講師たちであった。」とある。
この同居関係は明治二十九年に火災にあい、翌年哲学館が小石川原町(現在の白山キャンパス)に移るまで続くのであるが、郁文館での野球は明治二十七・八年ごろから始まり三十年から明治末頃まで最盛期を迎え、当時最強チームであった一高を二度も破っている。中でも明治三十四年に郁文館を卒業した押川清は草創期の早稲田の中心選手として活躍し、その後日本最初のプロ野球チーム「日本運動協会」の創立にもかかわり、野球殿堂入りを果たしている。もともと一高とは校地も近いので郁文館の生徒は見よう見まねで野球を始め、一高に練習を見てもらったこともあったようだ。
郁文館の校地は明治二十九年の火災の後、隣接していた有馬候の下屋敷跡に校舎を建てそれまでの校舎の場所を運動場にした、との事なので郁文館の野球が強くなっていくのは哲学館が移ったお陰とも言えるかもしれないが、同居時代の哲学館生には野球に興じる郁文館の生徒と接する機会はあったであろう。英学科の学生の中には野球部員と机を並べた者もいたかも知れぬ。明治時代の“哲学徒”たちの目にはたして野球はどの様に映っていたのだろうか。
運動に関しては「東洋大学百年史通史編」に「・・・常光浩然(大学幹事)の『運動部の起源』(東洋大学新聞第八号 大正十五年七月七日)によると、常光が入学した明治44年頃は運動部は全くなかったという。そこで常光浩然が主唱して大正元年に運動部を設立したと述べている。弓道部、撃剣部、庭球部を同時に創部し、運動部長に垣内松三を推した。」とあることから余りスポーツ活動は盛んではなかったようだ。
但し、同記事には「明治三十九年十二月十三日改正の同窓会規則では第四条六項に『本会ニ運動部ヲ置キ撃剣柔道テニス』の練習をする、となっている。先の常光浩然記憶が正しいとすれば、撃剣の練習はあったが部としては設立されていなかったといえよう。」との記述もある。今日で言う同好会サークルのようなものはあったのかもしれない。
また、運動のことには触れられてはいないが、読売新聞には下記の様な記事も見られ、当時の校風や学生の気質を推し量る上で興味深いものなので引用しておく。
「―此頃の消息(六)東洋大學―
▲僧七俗三 經費その他の點に於て獨立大學を設立し得ざる二三の佛教各派の如きは自宗の學徒をこの大學に依託就學せしめて居る。現在學生二百五十名中七分迄は僧家の子弟で殘る三分が俗人である。從って其の氣風も他の學生に見る如き華々しく生きた所もなく輕浮な風潮もない何れも質朴に過ぎる程落ち着いて居る様だ。三十五年例の哲學館事件のため時の文部大臣より中等教育免状を取上げられ四年前に漸く再許を得たがその後の第一回卒業生にして免状を下付されたのは唯だ一人きりで本年四月には約三十名ばかりある卒業生の中から半数の十五名丈けは文部省に推薦が出來るだらうとの事だが僧家の人が多い丈け就職難の聲も餘り高くはない。・・(中略)・・斯ふした風に各宗の出身者が集まってをるから各自々宗の信仰を維持し自然校内の氣脈も色々に分かれて居るだらうと思う人もあるかも知れぬが此學校の生徒のみは然うした宗争的観念を持って居ない寧ろ各宗融合して佛教統一を計らうなどと意氣込む位であるそうな。故野口寧斉佐々木信綱氏等の如く全く方面ちがいの人もあったが創立當時は世人全く哲學の意味を解せず、又哲學思想の餘り普及して居らざりしため好奇心にかられて相當な地位ある人も入學した。また三並良氏等の如き熱心なクリスチャンが佛教研究の目的を持って入學した事もあるとの事だが現にニコライ神學校の學生が一名入學して居る。兎に角一個の特色を有する學校に相違ない。」(讀賣新聞 明治四十四年二月四日)
明治44年という年は朝日新聞が8月から“野球害毒論”を展開する年でもあり、野球熱は中学生までに広がっていた時代である。そこで、東洋大学(哲学館)と関係の深い郁文館中学の野球について探ってみたい。
郁文館は明治22年に哲学館が湯島の麟祥院から本郷蓬莱町に新校舎を建て移転してきた際に同時に開設された学校である。東洋大学百年史には「郁文館は哲学館の校舎を午前中使用して、中等程度の教育をおこなうために設立されたものである。井上円了は明治二十一年六月海外視察に出発するにあたり、哲学館の諸事務を、館主代理として東京大学時代からの親友であり、哲学館の講師でもあった棚橋一郎に依頼した。井上円了は帰国後、その労をねぎらい感謝の意をあらわす為、棚橋一郎に哲学館教場を利用しての学校設立をすすめ、郁文館が設立されることになったのである。・・(中略)・・ところで明治二十二年哲学館に設けられた「英学科」は哲学館生で英語を学びたいものを郁文館の「英学専修科」において別途月謝を取り学ばせるものであった。また、郁文館設立時の講師陣は多く哲学館の講師たちであった。」とある。
この同居関係は明治二十九年に火災にあい、翌年哲学館が小石川原町(現在の白山キャンパス)に移るまで続くのであるが、郁文館での野球は明治二十七・八年ごろから始まり三十年から明治末頃まで最盛期を迎え、当時最強チームであった一高を二度も破っている。中でも明治三十四年に郁文館を卒業した押川清は草創期の早稲田の中心選手として活躍し、その後日本最初のプロ野球チーム「日本運動協会」の創立にもかかわり、野球殿堂入りを果たしている。もともと一高とは校地も近いので郁文館の生徒は見よう見まねで野球を始め、一高に練習を見てもらったこともあったようだ。
郁文館の校地は明治二十九年の火災の後、隣接していた有馬候の下屋敷跡に校舎を建てそれまでの校舎の場所を運動場にした、との事なので郁文館の野球が強くなっていくのは哲学館が移ったお陰とも言えるかもしれないが、同居時代の哲学館生には野球に興じる郁文館の生徒と接する機会はあったであろう。英学科の学生の中には野球部員と机を並べた者もいたかも知れぬ。明治時代の“哲学徒”たちの目にはたして野球はどの様に映っていたのだろうか。
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