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DEBONAIR LIFE+LOVE

とりとめる

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2012年01月30日 | Weblog
「泣いた」が作品に対する褒め言葉として使われることは多いけれど、「泣く」というのはほとんどの場合、個人的な事情でしか流れないもので、作品の善し悪しとは別のところにある。それは個人的な感受性の尺度や、その優位性を示す自分語りの変奏であったり、作品を記号的に消化することで行われる仲間意識や帰属意識の確認でしかないと思う。

感受性の尺度、なんて書いたけど、尺も度も比較を可能とする基準やフィールドがなければ機能しないし、感受性というものがそもそも他人と同じ基準やフィールドにある、と思うこと自体がおかしい。例えばそれは自分自身においても、大人になって読み返してみると子供の時とは違った印象がある、なんてほどの時間(や経験?)を経なくても、その日の体調程度でも十分に変わってしまうものだ、ということを忘れない方がいい。作品の善し悪しは全然そういうこととは別の次元にある。



昨年末に鑑賞した『三月の5日間』について備忘録

ぼくは『三月の5日間』後のチェルフィッチュの舞台を先に体験していて、2004年初演のこの作品を僕は今回初めて観たから、その発展した姿、や、あらたな到達地点(『ゾウガメのソニックライフ』など)を目の当たりにしている。

一人の役者が一人の登場人物を演じるわけでもなく、複数の役者によって一人の登場人物が演じられ、一人の役者によって複数の登場人物が演じられる。そこでは一人の登場人物、役者の身体的な特徴は消滅し、また、演じられる役者によって、その登場人物像が微妙に異なり、時間が重複する。

重複する時間から観客は次の出来事が予感させられ、新たな一面に出会う。この間、役者の動きは、登場人物の動作(むしろ、それはどこまでも緩慢になされる)だけでなく、空間や時間の動きを示唆する。映像作品におけるカメラワークのような効果が生じ、観客は客席という定点から舞台を観るのではなく、登場人物たちを上空から見下ろしたり、空間や時間が水平方向にスライドしたり、何層もの厚みを持つ。

これらのことがなんの説明もなく目の前で繰り広げられていている。それはまるで目の前でキュピズム絵画が何枚も何枚も、ゲルニカに到達するまでの習作が何枚も描かれてあの一枚に辿り着く、その最中を目撃するようなスリリングさ、圧倒的な力がある。(最近の作品ではオブジェやモニターを活用した作品もあるけど、それがどういう意図、効果なのかがまだ僕にはわからない)

『三月の5日間』はひとつの到達地点。今の方がもっとヤバい、と思ったけど。チェルフィッチュの舞台は現在進行形でまだまだ更新、発展していく芸術の可能性そのものや、分岐点つまり、最前線を目撃することだと思う。

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2011年10月30日 | Weblog
内気な様子で、恥じらって、足取りも拙く、跳躍をしそこなった虎のように、高人たちよ、あなたがたが、こっそりとわきへ退くのを、わたしはしばしば見た。骰子の一擲にあなたがたは失敗したのだ。
 しかし、賭博者たちよ、そんな失敗が何だろう。
 あなたがたは、賭博者、そして嘲笑者としての心がけを学んでいなかったのだ。われわれはいつも巨大な賭博と嘲笑の卓についているのではないか。
 そして、あなたがたが大きなことをやりそこなったとしても、だからといって、あなたがた自身ができそこないだろうか。また、あなたがた自身ができそこないだったとしても、だからといって―人間ができそこないであったろうか。よし人間ができそこないであったにしても、だからといって―。それなら、さあ!
 高い種に属するものほど、完成することはまれである。ここにいるあなたがた高人たちよ、あなたがたはみな―出来上がりの不十分なものではないか。
 勇気を失ってはいけない。そんなことがなんだろう。多くのことが、まだまだ可能なのだ。あなたがた自身に笑いを浴びせることを学べ、当然笑ってしかるべきように笑うことを学べ。
 あなたがたの出来上がりは不十分、ないし半分であったとしても、なんの不思議があろう。あなたがた、なかば砕けた人たちよ。あなたがたの内部で、ひしめきあい、押しあっているではないか―人間の未来が?
 人間の達しうべき最も遠いもの、最も深いもの、星のように高いもの、巨大な力、それらすべては、あなたがたの壺のなかで、ぶつかりあって泡だっているのではないか。
 ときに壺が砕けることがあっても、なんの不思議があろう。あなたがた自身にたいして笑いを浴びせることを学べ。当然笑ってしかるべきように笑うことを学べ。高人たちよ、実に多くのことが、まだまだ可能なのだ。

『ツァラトゥストラ』フリードリヒ・ニーチェ

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2011年10月17日 | Weblog
もう終了してしまったけど、仕事でご一緒させていただくカメラマンに紹介してもらった
鬼海弘雄の写真展が非常に素晴らしかった。
普段、僕が積極的に手にしたり、足を運ぶ写真ではないけれど。
彼は市井の人々を写真の中に収めるが、その被写体に対して評価を下さない。
彼は、自意識を無邪気に発露させたり、自分の価値観や感傷に浸ることなく、
ただ目の前の人を撮る。撮り続ける。彼の視線はどこまでも厳しく、そしてフェアだ。

鬼海さんの写真の被写体の中に、一人、男性のダンサーがいた。
ダンサーは他の被写体と異なり観られることに慣れていた。
美しい状態を保つという不自然が身にしみ込んでいる、というのが適切なのかわからないけれど、
はじめ、その写真を前に、演出が入ったダンサーの姿は
他の被写体に比べて、厳しく、フェアであるが故に暴かれる世界の前では、むしろ、弱い。と僕は感じた。

しかし、会場を何度か周り、その写真の前に立つとそうではないことに気が付く。
年老いたダンサーの、その鍛錬からも免れることができない時間、時間の経過は確実に、平等に彼の肉体に刻み込まれている。
だけどそれは残酷なことなのだろうか?僕は"違う”と答える。


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2011年09月21日 | Weblog
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ。
-ラインホールド・ニーバー

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2011年09月13日 | Weblog
『1973年のピンボール』で、ぼくがピンボールマシンに再開するシーンの美しさはずっと記憶の中にあって、
だけど、それがどう描かれていたのかは忘れていた。

先日読み返した時に「ああ、こういう風に書かれていたんだ」と、
それは金井美恵子の『軽いめまい』のスーパーのシーン(ここでは、読んでいて本当に軽くめまいを覚える)や、
映画『トレインスポッティング』のラストシーン、ユアン・マクレガー演じるマーク・レントンが
街中を逃走するときに彼が描く未来像のどうしようもなさと、それゆえの切実な想いと同じ手法だけど、
(ラストシーンで同じく走る『サタデーナイトフィーバー』でのジョン・トラボルタとの違い!)、
やっぱりピンボールマシンに再開する場面は再読(何度目かは覚えていない)しても美しかった。

庭の描写があまりにも美しくて、その場面に再開したくて、
よしもとばななの中で一番好きな『王国』を再読していると、
そのシーン、第1部にあったと記憶していたら第3部だった。

まあ、現代詩なんてまるごと一冊読み終えて、あとがきではじめて、
この本前にも読んだ!って経験があるからたいしたことないんだけどね・・・・