「泣いた」が作品に対する褒め言葉として使われることは多いけれど、「泣く」というのはほとんどの場合、個人的な事情でしか流れないもので、作品の善し悪しとは別のところにある。それは個人的な感受性の尺度や、その優位性を示す自分語りの変奏であったり、作品を記号的に消化することで行われる仲間意識や帰属意識の確認でしかないと思う。
感受性の尺度、なんて書いたけど、尺も度も比較を可能とする基準やフィールドがなければ機能しないし、感受性というものがそもそも他人と同じ基準やフィールドにある、と思うこと自体がおかしい。例えばそれは自分自身においても、大人になって読み返してみると子供の時とは違った印象がある、なんてほどの時間(や経験?)を経なくても、その日の体調程度でも十分に変わってしまうものだ、ということを忘れない方がいい。作品の善し悪しは全然そういうこととは別の次元にある。
昨年末に鑑賞した『三月の5日間』について備忘録
ぼくは『三月の5日間』後のチェルフィッチュの舞台を先に体験していて、2004年初演のこの作品を僕は今回初めて観たから、その発展した姿、や、あらたな到達地点(『ゾウガメのソニックライフ』など)を目の当たりにしている。
一人の役者が一人の登場人物を演じるわけでもなく、複数の役者によって一人の登場人物が演じられ、一人の役者によって複数の登場人物が演じられる。そこでは一人の登場人物、役者の身体的な特徴は消滅し、また、演じられる役者によって、その登場人物像が微妙に異なり、時間が重複する。
重複する時間から観客は次の出来事が予感させられ、新たな一面に出会う。この間、役者の動きは、登場人物の動作(むしろ、それはどこまでも緩慢になされる)だけでなく、空間や時間の動きを示唆する。映像作品におけるカメラワークのような効果が生じ、観客は客席という定点から舞台を観るのではなく、登場人物たちを上空から見下ろしたり、空間や時間が水平方向にスライドしたり、何層もの厚みを持つ。
これらのことがなんの説明もなく目の前で繰り広げられていている。それはまるで目の前でキュピズム絵画が何枚も何枚も、ゲルニカに到達するまでの習作が何枚も描かれてあの一枚に辿り着く、その最中を目撃するようなスリリングさ、圧倒的な力がある。(最近の作品ではオブジェやモニターを活用した作品もあるけど、それがどういう意図、効果なのかがまだ僕にはわからない)
『三月の5日間』はひとつの到達地点。今の方がもっとヤバい、と思ったけど。チェルフィッチュの舞台は現在進行形でまだまだ更新、発展していく芸術の可能性そのものや、分岐点つまり、最前線を目撃することだと思う。
感受性の尺度、なんて書いたけど、尺も度も比較を可能とする基準やフィールドがなければ機能しないし、感受性というものがそもそも他人と同じ基準やフィールドにある、と思うこと自体がおかしい。例えばそれは自分自身においても、大人になって読み返してみると子供の時とは違った印象がある、なんてほどの時間(や経験?)を経なくても、その日の体調程度でも十分に変わってしまうものだ、ということを忘れない方がいい。作品の善し悪しは全然そういうこととは別の次元にある。
昨年末に鑑賞した『三月の5日間』について備忘録
ぼくは『三月の5日間』後のチェルフィッチュの舞台を先に体験していて、2004年初演のこの作品を僕は今回初めて観たから、その発展した姿、や、あらたな到達地点(『ゾウガメのソニックライフ』など)を目の当たりにしている。
一人の役者が一人の登場人物を演じるわけでもなく、複数の役者によって一人の登場人物が演じられ、一人の役者によって複数の登場人物が演じられる。そこでは一人の登場人物、役者の身体的な特徴は消滅し、また、演じられる役者によって、その登場人物像が微妙に異なり、時間が重複する。
重複する時間から観客は次の出来事が予感させられ、新たな一面に出会う。この間、役者の動きは、登場人物の動作(むしろ、それはどこまでも緩慢になされる)だけでなく、空間や時間の動きを示唆する。映像作品におけるカメラワークのような効果が生じ、観客は客席という定点から舞台を観るのではなく、登場人物たちを上空から見下ろしたり、空間や時間が水平方向にスライドしたり、何層もの厚みを持つ。
これらのことがなんの説明もなく目の前で繰り広げられていている。それはまるで目の前でキュピズム絵画が何枚も何枚も、ゲルニカに到達するまでの習作が何枚も描かれてあの一枚に辿り着く、その最中を目撃するようなスリリングさ、圧倒的な力がある。(最近の作品ではオブジェやモニターを活用した作品もあるけど、それがどういう意図、効果なのかがまだ僕にはわからない)
『三月の5日間』はひとつの到達地点。今の方がもっとヤバい、と思ったけど。チェルフィッチュの舞台は現在進行形でまだまだ更新、発展していく芸術の可能性そのものや、分岐点つまり、最前線を目撃することだと思う。