■チェルフィッチュ『現在地』
「フィクションを作る」「数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使いたい」などのコメントを事前に読んでいたので、いわゆる普通の演劇を作るのだろうことは想像していた。チェルフィッチュの演劇における分析的キュピズムの到達地点のような作品も目の当たりにしているし、たぶん、それを発展させる目的で映像や舞台装置を使った作品の、それらの効果については僕には解らないのだけど、まあ、なんとなく、その解らなさも含めて総合的キュピズムのような作品も。
しかし、伝聞だけど、そのころ、岡田さんがニューマンだったかロスコのような舞台にチャレンジしたい、と言っていたそうで、つまりカラーフィールド・ペインティング的な舞台?それはちょっとアプローチ端折りすぎなんじゃない?それともまさか一気にそんなに飛躍しちゃうの??っていうか、それってどんな演劇なんだよ?想像もできない。けれども、一旦、それが提示されてしまったら、それでしか成立しえないような、芸術の新しい可能性が萌芽する到達地点。それは是非観たいけど、まだ僕は観てない。(劇場にいながら僕が理解できていないだけの可能性が高いけど。)そして、それを実現させるとすればやっぱりチェルフィッチュなんだろうとの期待。
というようなファンの身勝手な想いの一方で、「フィクションを作る」「数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使いたい」というのは、絵画でピカソが「新古典主義」の時期を経るようなものなのだろうか?だとしたら、僕はきっと好きだ。(ピカソの作品で好きなのは晩作と、新古典主義と、分析的キュピズムの頃の作品だから。)なにも演劇の歩みを絵画の歩みになぞらえる必要も比喩として使う必要も、ない。ないし、安易なそれはとても危険な行為な気がするけれど。
とにかく今、観逃さないと決めているのはチェルフィッチュと快快で、彼らが実践しようとしていることが演劇というフォーマットでしかなしえないことに挑んでいる、それを刷新しよう試みていると感じているからだ。文学の世界で若手劇作家が一気に評価され出したころ、演劇の世界で何か面白いことが起こっているんだ、と色んな劇団を観に行くようになった。しかし、たとえ面白くても、2度、3度と足を運ぶ劇団はなかなかなくて、その理由は、これ別に演劇として観なくていいじゃん、小説や戯曲、映画でいいじゃん、と感じたからだ。
多層的な展開を繰り広げるときに生まれる面白さを封印した時に、何が残るのか。あるいは、何を残すのか。『現在地』は非常に危険な作品だと感じた。チェルフィッチュの劇を観ていて思考停止になることって、ない。ただ筋を追えばいいってことじゃないし、あまりにも多くのことが同時に展開されているから。
それなのに本作では、観ている最中、震災以降、何度も陥ってしまう思考停止の状態に追いやられた。この作品は「変化との戦いのフィクションである」とも岡田さんはコメントしている。思考停止の状態に追いやるような世界(フィクション。雲一つなかった空に気が付けばクラゲのように光る雲が一つ浮かんでいた。それは、世界の終わりを予言する出来事だとの言い伝えがある村の物語。)を突きつけ、何も答えを与えない。答えを与えられないその世界で、思考を停止させるな、それが、それだけが変化との戦いなのだ、と。
観劇後の疲れが半端なかった。
※チェルフィッチュにとって数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使うってこと自体が物凄い変化なんだよな、ということにいまごろ気が付いた。
「フィクションを作る」「数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使いたい」などのコメントを事前に読んでいたので、いわゆる普通の演劇を作るのだろうことは想像していた。チェルフィッチュの演劇における分析的キュピズムの到達地点のような作品も目の当たりにしているし、たぶん、それを発展させる目的で映像や舞台装置を使った作品の、それらの効果については僕には解らないのだけど、まあ、なんとなく、その解らなさも含めて総合的キュピズムのような作品も。
しかし、伝聞だけど、そのころ、岡田さんがニューマンだったかロスコのような舞台にチャレンジしたい、と言っていたそうで、つまりカラーフィールド・ペインティング的な舞台?それはちょっとアプローチ端折りすぎなんじゃない?それともまさか一気にそんなに飛躍しちゃうの??っていうか、それってどんな演劇なんだよ?想像もできない。けれども、一旦、それが提示されてしまったら、それでしか成立しえないような、芸術の新しい可能性が萌芽する到達地点。それは是非観たいけど、まだ僕は観てない。(劇場にいながら僕が理解できていないだけの可能性が高いけど。)そして、それを実現させるとすればやっぱりチェルフィッチュなんだろうとの期待。
というようなファンの身勝手な想いの一方で、「フィクションを作る」「数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使いたい」というのは、絵画でピカソが「新古典主義」の時期を経るようなものなのだろうか?だとしたら、僕はきっと好きだ。(ピカソの作品で好きなのは晩作と、新古典主義と、分析的キュピズムの頃の作品だから。)なにも演劇の歩みを絵画の歩みになぞらえる必要も比喩として使う必要も、ない。ないし、安易なそれはとても危険な行為な気がするけれど。
とにかく今、観逃さないと決めているのはチェルフィッチュと快快で、彼らが実践しようとしていることが演劇というフォーマットでしかなしえないことに挑んでいる、それを刷新しよう試みていると感じているからだ。文学の世界で若手劇作家が一気に評価され出したころ、演劇の世界で何か面白いことが起こっているんだ、と色んな劇団を観に行くようになった。しかし、たとえ面白くても、2度、3度と足を運ぶ劇団はなかなかなくて、その理由は、これ別に演劇として観なくていいじゃん、小説や戯曲、映画でいいじゃん、と感じたからだ。
多層的な展開を繰り広げるときに生まれる面白さを封印した時に、何が残るのか。あるいは、何を残すのか。『現在地』は非常に危険な作品だと感じた。チェルフィッチュの劇を観ていて思考停止になることって、ない。ただ筋を追えばいいってことじゃないし、あまりにも多くのことが同時に展開されているから。
それなのに本作では、観ている最中、震災以降、何度も陥ってしまう思考停止の状態に追いやられた。この作品は「変化との戦いのフィクションである」とも岡田さんはコメントしている。思考停止の状態に追いやるような世界(フィクション。雲一つなかった空に気が付けばクラゲのように光る雲が一つ浮かんでいた。それは、世界の終わりを予言する出来事だとの言い伝えがある村の物語。)を突きつけ、何も答えを与えない。答えを与えられないその世界で、思考を停止させるな、それが、それだけが変化との戦いなのだ、と。
観劇後の疲れが半端なかった。
※チェルフィッチュにとって数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使うってこと自体が物凄い変化なんだよな、ということにいまごろ気が付いた。