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DEBONAIR LIFE+LOVE

とりとめる

120429

2012年04月29日 | Weblog
■チェルフィッチュ『現在地』

「フィクションを作る」「数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使いたい」などのコメントを事前に読んでいたので、いわゆる普通の演劇を作るのだろうことは想像していた。チェルフィッチュの演劇における分析的キュピズムの到達地点のような作品も目の当たりにしているし、たぶん、それを発展させる目的で映像や舞台装置を使った作品の、それらの効果については僕には解らないのだけど、まあ、なんとなく、その解らなさも含めて総合的キュピズムのような作品も。

しかし、伝聞だけど、そのころ、岡田さんがニューマンだったかロスコのような舞台にチャレンジしたい、と言っていたそうで、つまりカラーフィールド・ペインティング的な舞台?それはちょっとアプローチ端折りすぎなんじゃない?それともまさか一気にそんなに飛躍しちゃうの??っていうか、それってどんな演劇なんだよ?想像もできない。けれども、一旦、それが提示されてしまったら、それでしか成立しえないような、芸術の新しい可能性が萌芽する到達地点。それは是非観たいけど、まだ僕は観てない。(劇場にいながら僕が理解できていないだけの可能性が高いけど。)そして、それを実現させるとすればやっぱりチェルフィッチュなんだろうとの期待。

というようなファンの身勝手な想いの一方で、「フィクションを作る」「数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使いたい」というのは、絵画でピカソが「新古典主義」の時期を経るようなものなのだろうか?だとしたら、僕はきっと好きだ。(ピカソの作品で好きなのは晩作と、新古典主義と、分析的キュピズムの頃の作品だから。)なにも演劇の歩みを絵画の歩みになぞらえる必要も比喩として使う必要も、ない。ないし、安易なそれはとても危険な行為な気がするけれど。

とにかく今、観逃さないと決めているのはチェルフィッチュと快快で、彼らが実践しようとしていることが演劇というフォーマットでしかなしえないことに挑んでいる、それを刷新しよう試みていると感じているからだ。文学の世界で若手劇作家が一気に評価され出したころ、演劇の世界で何か面白いことが起こっているんだ、と色んな劇団を観に行くようになった。しかし、たとえ面白くても、2度、3度と足を運ぶ劇団はなかなかなくて、その理由は、これ別に演劇として観なくていいじゃん、小説や戯曲、映画でいいじゃん、と感じたからだ。

多層的な展開を繰り広げるときに生まれる面白さを封印した時に、何が残るのか。あるいは、何を残すのか。『現在地』は非常に危険な作品だと感じた。チェルフィッチュの劇を観ていて思考停止になることって、ない。ただ筋を追えばいいってことじゃないし、あまりにも多くのことが同時に展開されているから。
それなのに本作では、観ている最中、震災以降、何度も陥ってしまう思考停止の状態に追いやられた。この作品は「変化との戦いのフィクションである」とも岡田さんはコメントしている。思考停止の状態に追いやるような世界(フィクション。雲一つなかった空に気が付けばクラゲのように光る雲が一つ浮かんでいた。それは、世界の終わりを予言する出来事だとの言い伝えがある村の物語。)を突きつけ、何も答えを与えない。答えを与えられないその世界で、思考を停止させるな、それが、それだけが変化との戦いなのだ、と。
観劇後の疲れが半端なかった。

※チェルフィッチュにとって数千年も続いてきた演劇という装置の有用性を素直に使うってこと自体が物凄い変化なんだよな、ということにいまごろ気が付いた。

20120425

2012年04月25日 | Weblog
■備忘録『高橋由一展』4月28日~6月24日@東京芸術大学美術館

高橋由一の展覧会のリーフレットを見つけたのは国立近代美術館にジャクソン・ポロックを観に行ったときだったと思う。その時、妻に「実は高橋由一好きなんだよね」と話すと「実は高橋由一好きなんだ」と、あんまりそういう話しないんだけど、妻の返事が可笑しかったので「うん」と、それから、何が好きかって思い出しながら話すと面白くて二人で笑った。※普段、プライベートの僕はほとんど喋らない。ブログとかしてるとそういう話とかよく話したりするって思われがちだけど。

たしか神奈川近代美術館(鎌倉館)で観た彼の初期の作品があまりにも下手で、それは彼が明治の初期に西洋画にチャレンジしてたからなんだけど(きっと)、僕がはじめてカメラを買って写真を撮りはじめた時、変に構図に凝ったりして、視覚的には刺激的というか効果があるというのか、それしかないというのか、いや、まあただノイジーな写真というか、、、、とにかくウザい写真で、はじめて手にして嬉しいものだから、本人がそのことに気づいてない、そのことに似てるというのか。とにかく下手なんだよね。意欲は認めるし嬉しいのもわかるけど。
それですごく高橋由一に親近感を覚えて。もちろん、彼はそのあと鮭や豆腐の傑作を描くことになるんだけど。(しかし、あの豆腐は全然美味しそうに見えなく描いたのはなんなんだろう)

でも、ドガのバレエの作品も実物を観て感じたのは、この人はよく“当時のバレエ界が金銭的に困っていてパトロンなしにやっていけなかったその舞台裏までも描いている”、とかそういう当時の美に隠れた暗部がどうのこうの的なことが言及されるけど、そうかなあ?って。

ドガが活躍した頃ってまさにカメラが本格的に普及しはじめる頃で、ドガの作品はバレエに限らず写真の影響を強く受けているのがわかる。(当然、びっくりするぐらい下手な作品や形が間違っている作品がある)
バレエを描いた作品を見ていても、その視点から絵を描くとすると舞台裏やパトロンの姿は普通に入り込む。「いい写真」を撮ろうとするとその人邪魔だな、ってなるんだけど、ドガは、そこに人がいることをあんまり気にしてないように感じて、気にしてないって言うのか、ぼくだって客席から舞台袖の様子が見える席でバレエや舞台を観劇したことは何度もあるけど、その時は視界に入ってるけど観えてないことにしてる、そういう配慮はしてて、だからドガも視覚にはいるんだから描いてるって、それだけの感じで、僕はそこにパトロンがダンサーを値踏みしているって物語を見つけることは出来なかった。

とにかく、高橋由一の展覧会があるんだったら僕は必ず足を運ぶし、下手な作品があったら会場で二人、笑っちゃうんじゃないかなあって、そんなことを想像している。それだけの話。

120402

2012年04月02日 | Weblog
今のところ、ぼくの中で今年一番の映画

■映画
ピナ・バウシュ 夢の教室

この映画はダンス経験のない10代の男女40名を集めてピナの作品を踊る、その10カ月を追いかけたドキュメンタリー。彼らはピナ・バウシュがどういう人か知らずに集まった。ある少年は、ダンスなんて全然興味なかったけど映画『リトル・ダンサー』を観て、有名になる話だったから。ある少年は演劇が好きで学校の先生にいい経験になるんじゃないか、と勧められて。紛争で祖父が生きたまま焼かれて死んだ少女(なんと、その映像はYouTubeにアップされている)。自分はジプシーだと誇らしげに語るヒップホップ少年。不慮の事故で父を亡くした少女。人と接するのが苦手な少年など。どこにでもいそうな10代と、そうではなさそうな10代のどちらもいる。

踊ることや人とコミュニケーションすることを恥ずかしがっていた彼らは迷いながら、歩み、殻を破り、他者を信頼しはじめる。自分の演じる役がどのような人物なのかについて語る彼らのコメントは、そのまま彼らの告白に聞こえる。

映画に限らず、芸術に対する感想で「泣いた」というのが賛辞のように使わることは多い。けれども「泣く」という行為は、ほとんどの場合、個人的な経験に基づくものでしかなく、作品の善し悪しとは、本来別のものだ。(それは多くの場合、個人的な感性を示したり、仲間意識や帰属意識の確認など作品に対してではなく、その人のコミュニケーションツールとして示される。だから「泣ける」映画は多くの人が足を運ぶのだろう)

もっと自己を解放させなさい、と映画の中でピナは彼らに何度も繰り返し伝える。だけどこの映画は安易に泣くことを許さない。泣いてはいけない、と僕は思う。自己を解放させることと、自己の世界に浸ることは全く違う。安寧の地で自己を肯定することともきっと違う。たぶん、それは世界と対話する、ということだ。真剣なまなざしが、とまどいが、それによって生まれる豊かな時間が、このフイルムの中には納めている。僕は映画の間、ずっと涙が止まりませんでした。

■追記
ピナ・バウシュの舞台は、彼女が亡くなる1年前(2008年)に来日した際の公演で、「これから先、彼女の手掛ける作品を僕は見逃さない」と、そう決めさせた体験だったから、たった一度きりで、まさかそれが最後になるなんて思わなかった。

オープニングとエンディングで同じ振付のダンスが行われた。だけど、それはよくあるような大団円でもつじつま合わせでもなかった。そこで行われていることがいったい何なのか僕にはわからなかった。何かはわからないけれど、それがオープニングとは全く違う。何かはわからないけれどだけど、とても大切なことが行われている。その実感だけが確かに残っている。

以下、引用はそのときのダンスについて書いていることではないけれど、僕がいいたいこと、感じたことが書かれている(と思う)。

「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」 内田 樹  より引用

レヴィナスやラカンのようなスケールの思想家の考えていることは長い船体を持つ船に似てる。まず、船首が見えて、それが視野を通過し、ずいぶん経ってからようやく船尾が見えてくるが、そのときにはもう船首は視野の外なのだ。
巨大なスケールの思想については、私たち凡人は決して「一望俯瞰的」に語ることができない。そこにはどうしても「時間」という要素が必要になる。
長い時間をかけて思想の暦程をたどるという忍耐強い作業が必要になる。読み始めたときにはその意味を知らなかった概念が血肉化され、それまでの常識が放棄されてゆくという自己変容のプロセスを経験しなければならない。
(中略)
たぶん、ほとんどの学術論文は英米式に、中枢的な知的統制に服するべきものであって、
そうでない場合は、書き手の知力が足りないと判じてよろしいのであろう。
しかし、世の中には「そういうふうに」は書けない主題もまれに存在する。
レヴィナスやラカンについて論じる場合がそうである。というのは、このようなスケールの思想家を相手にしていると、議論の出発点において「私は」と語っている論述の主体が、
議論が進行するにつれて次第に変容を遂げ、議論の終点に至ると、書き始めたときとは「別人」になってしまうことが起こるからである。
むしろ、論述の主体自身の変貌抜きには、先へ進めないという事実のうちに、これらの偉大な思想家の「偉大性」は在するとも言えるのである。私が先ほど「時間」という要素を強調したのは、そのことを申し上げたいからである。

120316

2012年03月16日 | Weblog
■最近見たドラマ
『Q10』
『セクシーボイス アンド ロボ』
『野ブタ。をプロデユース』

たとえば2010年と2005年の高校生(『Q10』←→『野ブタ。』)の違いは
人物の配置、関係性、キャラクター、進化、制約など挙げることが出来る。
もちろん、それぞれのドラマが持つ時代背景によるところもあるけれど、
作品のもつ強度、ドラマの完成度が近作ほど高くなっていることに驚き

つぎに観るのは『すいか』。
『やっぱり猫が好き』もDVD-BOXで発売されているみたいだし、
渋谷の蔦谷にだったらレンタルあるだろうか

今見ているドラマ『平清盛』
先週末は佐藤義清、出家(のちの西行)
触発され『西行』白洲正子を再読中。


■最近観た舞台・ダンス
『アントン、猫、クリ』快快
ぶっちぎりで凄い。次回公演から、必ず、欠かさず、行く。

一人の役者が一人の人物を演じないスタイルは
チェルフィッチュによる発明なのだろうか。
落語では一人の噺家が複数人を演じるし、
ラーメンズの小林賢太郎はそれを過剰にすることで
そのルール自体を笑いに変えた(たしか『ATOM』の中の1コント)
“ダブルキャスト“も、大きく括れば
一つの役を二人の役者が演じるわけで・・・・

今回、驚いたのはこのことではないし
仮に演劇における、その始まりがチェルフィッチュでなかったとしても
その形式を快快も採用していたとしても
彼らの魅力が損なわれるわけでもないので書きとめることはしないけれど
とにかく僕は嬉しかった。

(どの号か忘れてしまったけれど、
『新潮』でチェルフィッチュと快快について
書いているテキストあったんだよなあ
最近まとめて処分した本のなかに
入っていなければいいけれど・・・)

震災後、とか、あの出来事以降、
全く変わってしまった、と、よく耳にするし
何回かはぼくもそんな事を言いそうになったり、
ひょっとしたら言っちゃったりしてるかもしれないけど
この言葉を聞くときの、なんていうんだろう、
疑いなく振り掲げられる正しさの威圧感や、違和感や
安直な感じ、思考停止の連帯感、
それによりかかるような嫌な感じ、などなど

別に、この公演はあの出来事を取り上げているわけでもないし
時代性をうんぬんかんぬン、とかそういうことじゃない。
ただ、近所の野良猫(アントンと呼ぶ人やクリと呼ぶ人がいる)が現れ、
去っていく、それだけといえば、それだけの話だ。
(アントンが白血病かもしれない、という噂もあるけれど)

演劇やパフォーマンス、コンテンポラリーダンスを観に行っても
同じことを感じるときがあって、ジャンルの垣根がなくなっているのかな、
目指しているところが同じなのかな、どんどん自由になっていて、
もちろん、このことを感じるのは全ての劇団やダンサーではないし、
だから昨年末に観に行ったチェルフィッチュの岡田さんと森山開示くんが
『家電のようにわかり合えない』で一緒にやるってときは本当に驚いたし。
舞台芸術だけでなく、彫刻や絵画を観ていても、
ああ、このひともセザンヌから発展している、しようとしているって感じることはある。
もちろん、それが成功だ、と感じることは数多いわけじゃない、というより滅多にないけど。

だけど、ただジャンルの垣根がなくなるってことも形式的なことで、
ただ単に作品が形式的に進化したって、きっとそんなに面白くはない。
作品の持つ強度によって形式が変化するときに新しい可能性が生まれる。

だから、今回、僕が本当にうれしかったこととは違って
僕が嬉しかったのは、目の前で繰り広げられていることが
それがどこにも敗者を生みださないような強さ、ポジティブさで、
けして、どんな出来事にも変えられることのない、
変えられてたまるか、というような
そんなことは決して作品の中で微塵も言ってないし、
たぶん、そんなこといちいち主張しないし、
だって、当然なんだもん、って、そんな話では全然ないんだけど、
そんな感じで、自然体で
本当に観ていて僕は嬉しかった。



『ホントの時間』珍しいキノコ舞踏団

あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、
また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち、「これでいいのだ」と。

森田和義 弔辞

今回の公演用リーフレットの裏に引用されていた
この言葉がこの作品にもふさわしい。
キノコはキノコが目指す場所に向かえばいい。
僕もきっとそこも好きだ。

120221

2012年02月21日 | Weblog
「いいアルバムなので、ぜひ」三束さんは笑った。
「クラッシックなんて、ちゃんときいたことがないので、わかりますかね」とわたしは言った。
「わかるも何も、音楽ですから、ただきくだけですよ」と言って三束さんはまた笑った。
そうですか、とわたしは言って、ありがとうございますと頭をさげた。
「このアルバムのなかの、一番に入っている曲が、その、まるで光のイメージなんです」と三束さんはなぜだか恥ずかしそうにそう言った。
「光のイメージ、ですか」
「はい」と三束さんは言った。「まあ、とてもきれいなんですね。あまりこの曲について言及する人は多くないと思うのですが、わたしはショパンのなかでいちばんすきな曲です」
(略)
「グールドは、ショパンを嫌いだったですね」と三束さんは言った。「それに彼の演奏は、光にかぎらず、つまり人間以外のものをイメージさせませんね。わたしはグールドをすきですが、やはり年をとるにつれて、ききたいと思える頻度は減ってきたように思います」
「人間というと、暑苦しいのですか」
「そうですね」と三束さんは笑った。「それだけではないですが、そういう人も多いですね。・・・・・ただわたしはすこし、つらくなるのかもしれません」

『すべての真夜中の恋人たち』川上未映子

今、通勤中に読んでいるのは、これとあと2冊なんだけど(あとは『ゴダール 映画史(全)』『問題解決に活かす「フェルミ推定」』)、グールドのアルバムはぼくのI-Podの中にバッハ、モーツァルト、ベートーベンと映画音楽を集めたものが入っていて、バッハ 「平均律クラヴィーア曲」は高橋悠治の演奏したものも入っている。

『すべての真夜中の恋人たち』は登場人物たちがとても素敵で、時々、ちっとも素敵じゃなくて、それを兼ね合わせているところが魅力的で、ところどころ作者が意地悪で、川上未映子さんの小説の中で一番いい、と感じながら読みつづけているのだけど

人間以外のものをイメージさせませんね

に思わず笑ってしまった。たぶんぼくが笑ってしまったのは、どんな会話の流れだったか覚えていないんだけど、2年前のお花見で石川忠司さんに勧められて高橋悠治のバッハを借りて聴き始めた。聴く前はどっちが好きかなと思っていたんだけど、グールドと高橋悠治という個性的な二人の「平均律クラヴィーア曲」を僕はどっちも好きで、そうだよな、どっちも好きって、当然ありえるよな。なんでどっちの方が好きかな、という風に考えたんだろう。だけど、たぶん、これが個人的な演奏だったら僕は聴いてられないだろうな。とその時感じたことを覚えているからだと思う。