__ 「団塊の世代」に対して一言ある人は、何も私に限ったことではなくて、ネット世間で噴出する苦情を並べてみると……
> あの世代、団塊の世代のインテリの人たちって、最終的な責任は取らないでまぜっ返して面白がっている的な無責任さがありますね。評論家さんたちにもかなり。
>中2病イコール団塊の世代の思想に似ていませんか?。
権力にはとりあえず反対して、大騒ぎで武力で駄々をこねていたり、意見が違うとボコボコにするとんでもない行動力。
いまだに、地域会合でも一言大声で発言しないと気が済まない幼児性。といつて、やるべきことをやるよりも、ウロウロしながら顔を突っ込んではかき回していくところ。
>私も団〇の世代の方達に、やたらと憲法〇条信奉者や、お題目のように「平和、平和」と唱える人が多いように思っていました。
あの世代の方達は直接は戦闘には参加している世代ではありません。
>今の団〇の世代の方が全員、左依りとは思わないですし、80代以上の方が全員人格者だと言っているわけではありません。
割合として、多い、もしくは少ないと自分で勝手に感じているだけです。
〇塊の世代の方達にまさか「あなた達のその原動力の元になってるのはあの時の空腹感なんでしょ」とは言えませんからね。
>例えば団塊の世代の女性が殊更に男女平等を叫ぶのは、その母親世代が戦争を経験し「これからの時代は、夫を支えるばかりの妻じゃ駄目」と、娘には社会に出るよう促し、家事は教えてこなかった。というのです。
いつの時代も、前の世代のツケを引き受けながら紡いでいくんだと思います。
>学生運動などで社会を斜めから見て「なんでも反対活動」してきた親世代は、そののちに髪を切って役所勤めや新聞社勤め、教師になって日きょう租さまを拡大し、日本国民の社会活動をけん引されてきたのでしょう。
その世代たちは今ではおじいちゃんとおばあちゃんだから、今更非難しても遅いですが、今でも、自分たちの生活第一で年金や株などを必死で握って、老人を大事にしろと越え高々に叫ぶ。
地域の話し合いの場でも、どうでもいいことをこだわっておお手を挙げて話し出すのはこの世代。声もでかいし、握りこぶしでアジ~してます。そして、一人が発表しだすと、我も、我もと、次々に議題の重箱をつつきだします。
次世代の40~50代の司会者達(地域のリーダー)は、これが始まると、しばらくは苦笑いで待っているしかない。
どこまで行っても、「反対」が好きなのである。この世代は。
>テレビの街頭インタビューで、団塊世代が素敵な服を着て、お金のことを語るのを見ると、恥ずかしく思いますよ。
新しい世代、子育て世代の生活を何とかしたいという気持ちも見られず、ニートを養う自分たちの年金、株にかかわる経済を語る姿にあきれるし、赤面です。恥を知れと言いたくなる。
日本国民の弱体化は、明らかに団塊の世代が発祥元だと、私は思っています。 そして、次の世代、次の次の世代が道徳感の欠如を余儀なくされていきましたとさ。めでたくなし、めでたくなし。
>団塊世代の親はとても苦労されてきましたが、団塊の世代は、不平不満を行動に移し、人を蹴散らして生きてきました。大人数なので、同年代だけでなく、その下の数年分の後輩たちの職、地位、給金すら、彼らはガッチリと自分たちのものとしてきました。
団塊の世代の後には、出世の道も、ポストもなく、いつまで居座るつもりだと、後輩たちは頭を抱えてきました。ぺんぺん草も生えないと、後輩たちは嘆いてました。
その挙句に、
団塊の世代の子供たちは、ニート多数。 働くこともせずに親の年金をアテにし、国税を収めることなく、国の金(親の年金も含む)で暮らし、狭い世界でひとり、人生を謳歌しているのです。
>この世代は「やっぱりな」の世代。
だって、親が団塊の世代でしょうから。 私は以前から団塊の世代=超薄っぺらい先輩たちについて、イヤミを書かせていただいてきました。
戦争を知らず、立派な親の世代にしっかりと守られ、足の引っ張り合いを日常的にし、えげつない生存競争をしてきた彼ら団塊の世代。後輩の我々は、ほんとうに嫌な目にあってきました。
権力に対して異常な闘争心を持つ割に、いざとなると力の強いものに尻尾を振る彼らに、嫌悪感を抱いてきました。
そして、教育。
団塊の世代は自分の子に大甘であり、大量のニートを製造してきた。
そして、自分の子だけでなく、団塊の世代に教育をされてきた30代は少なからずいます。統計を取ったらものすごく面白い結果が出ると思います。
団塊チームは、自分には異常なほど保守的。でも他人にはすぐに責任を求める。プラカードをもって、団体で動くのがお好き。
反体制が大好物。今は引退して暇だから、またプラカードを持って霞ヶ関あたりを徘徊しています。
意味もなく反対をしたいのです。
そんな大人に教育されれば、
自分さえよければいい、生活費を誰かからもらって遊んでいられればいい。結婚は面倒だからしない、家族を養う責任もなく、オノレの快楽重視で生きる~(今回の事件のバカ父)。
そんな世代を製造してきたわけです。
…… なんとまあ、酷い言われようです。しかし、傾聴すべきご意見が多かったと思います。これだけの目立つ「特徴」を持っている世代はそうそうありません。時代精神といおうか、世代全体がその傾向を有するわけですから。
こんなにまで言うのは、日本人というものに誇りを持っていらっしゃるからです。古き良き日本人が、絶滅しようとしているのが我慢ならないのです。
いまの日本人は、本来の日本人の美徳をもっていない。ごもっともだと存じます。こんどは、以下に私見を述べます。
🔴 貰ってばかりの人生 20220703
小網神社⛩へ日参するという、金融界の鬼才・イトウ潤一(51才)の出演した番組を興味深く拝見した。
現在は、「東大金融研究会」の主宰をつとめる。
多様性を持つように他大学の学生もうけいれているらしいが、彼が学生たちに向けた言葉に引き込まれた。
(インタビューより)>
「 日本って、ギブバック(寄付)の精神がほとんど無いんですよ。
GIVE(与える側)の精神がほとんどないんですよ。
やっぱり(学生さんは)親御さんに守られて生活してきましたと。
今までの人生全部TAKE(受け取る側)なんですよ。
親御さんからTAKE、先生からTAKE、塾の先生からTAKE、下手すると地域社会からTAKE。
先輩になったら後輩にギブバックしなきゃならないし、
同じ世代でも、できる人はできない人にギブバックしなきゃいけないし、
持っている人は持っていない人にギブバックしなけゃいけないし、
いろんな人がいる中で、社会が成立しているんで、自分の世界観が全てじゃない。
なので、他人の世界観をしっかり受け入れる、そこで融合させる、そういったプロセスっていうのを理解してほしいなって思いです。」
…… 古代インドにも人が生まれながらに負う「三つの負債」(神々・賢者・祖霊に対して)があるし、
現代アメリカにも「PAY FORWARD」(感謝のリレー)のしきたりがある。
ラーマ・クリシュナだったと思うが……
「 神様たちへの負債があります。両親への負債があります。妻に対する負債があります………
両親への負債が払われないかぎり、どんな仕事もよくは行きません。
両親が満足しないかぎり、どんな信心もなんの役にも立ちません。」
と云っている。
[※ 引用元が判明したので、付記する。「人間には払わなけりゃならない負債(かり)があるんだよ。家の祭神に対する借り、聖者(リシ)たちに対する借り、母親からの借り、父親からの借り、それから妻に対する借り。母さん父さんからの借りを返すまでは何をやっても成功しない。」(ラーマ・クリシュナ、訳:田中嫺玉)]
伊勢白山道でも、根源神への負債(お蔭さま)を表したものが、聖句であろう。
だから、さんざん親のスネをかじって大学まで出してもらった上に、独身貴族とばかりにひとり身を謳歌して、個人主義をつらぬき、自分だけのために投資し、中高年になるまで、TAKEばっかりの人生に、おそらく満足は生じ得ないであろう。
バランスがとれていない、陰陽☯️が完結していない。
愛情を受けてばかりいると、心が腐るとゆーのが私の持論である。
伊勢白山道は、負債を返すやり方を伝えているようにも感じられる。
団塊の世代から団塊ジュニアを経てその子どもの世代へと、いよいよ自分たちの権利の主張と国家から分捕ることばかり考える日本人が日増しに増えてきていた。
しかし、リーマンさんによれば、感謝を以て返済する日本人がまだまだいらっしゃるようなので、日本はなんとか保っている。
日本の個人主義は、西洋人の単なるサル真似で、本来の日本人にはそぐわないと私は思う。
おひとり様が、腐った蜜柑にならないように、ほんとうにお願いしたい。
🔴自信のない日本人 20220718
宮台真司賢人が言っておられた。(彼が昔取った統計データに拠ると)
> 自尊心のレベルが低い人は、公的な関心がないんですよ。(…… )
自分に価値がないと思っている人間は、自己防衛に汲々とするでしょう。
余裕がない。
だから政治的な関心を持ちようがない。
‥‥ それが、日本の選挙で投票率の低い理由であるとのこと。
この間の参院選の投票率は、なんとか5割を越えて、なんとか二人に一人は投票していることになる。
うちの山形県は、6割を越えた。これは、何気に凄い数字なのだ。高齢者の人口が多い中で、認知症やら寝たきりで投票を棄権しなければならないお年寄りが沢山おられる。
高齢者の多数の棄権があってなお、60%越えなのである。
田舎人は、自己肯定感が強いと云えそうである。
都会人はほんとに気の毒だ、大地との接触がないからである。
> 大宮人たちの都会文化は洗練されていたが、「自然との交錯」がなかった。
『方丈記』に記すように、「京のならひ なに事につけても、みなもとは田舎をこそたのめる」のが都会文化の実相である。
都会には「なまもの」がない。加工され、人為の手垢のついた商品しかない。そして、(鈴木)大拙によれば、自然との交流のないところに宗教は生まれない。
「大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは、大地と人間の感応道交の在るところを通すとの義である。」(『日本的霊性』45頁)
[※ 内田樹『武道論』より引用]
…… 親鸞さんも、京で学問していたときは、本質がわかっていなかったと云う。日本的霊性に目覚めたのは、流罪にされて地方で大地に触れたことからだった。
大地とか御山とか、巨きな存在感が「自信」には必要なんだろうね。安心感かしら。
日本人の自信のなさ(自尊心が低い)のために、日本人の幸福度もまた低い。
しあわせな人が少ない。不幸せを認めたくないから、無理して自らの幸せを演出しなければならない。お気の毒に。
不自然な環境に、不自然な過ごし方(働き方)、イライラが募る者同士がお互いのトゲで傷つけ合う。地獄絵図ですな。
自信のない人は、リーマンさんに頼るしかあるまい。
さびしい女性が増えている。
これは、日本の社会構造から来ている。多くの女性が考えもなしに、それにまんまと乗せられたのです。
哀れなことですが、自分から踏み出した道です、「強制したわけではない」といつも言われます。
女性の社会進出は、ほんとうに女性が望んだことだったのか、こんなにも不幸な女性が増えるとは予想していなかったに違いありません。
🔴 20220620
小さい頃に、野山や海の大自然にどっぷり浸った経験のある子は、違うと思う。
私は山だったが、森閑とした静寂(耳鳴りがするほどの静さ)と自分との境いがつかなくなって、森として生きている感じで、日ごろのしがらみから完全に解放されたとゆーか、異世界にいる感じが、民話の下地になっている気がする。
無音の雪原なぞ、侘しさ極まってかえって充填される感あり。
このとき、子どもは孤独ではない。
以後、大人になってからも心底ほんとうに淋しさに堪えきれないときは、深い大自然に潜る。
ほんとうに煮詰まった時に、相手になれる人はいない。それは人間では解決できない類いのことなのだ。
信仰とは、つねに相手がいるという事ではと思う。
神さまが自分の内にいるとは、なんておかしいんだと思いましたね ♪
青い鳥と同じで、そばにいるのに遠くまで探しに出かけるんですよ。
自分で実感するのに、エビデンスは要らないんです。
根拠のない自信、否定しようのない思い、まわりが総て崩れてもこれは揺るがない立志めいたものは、大自然の森の静寂から直接ながれこんできたものだと思います。
人間をいやすのは地球ですね。
山奥でひとりぽっち、あれは孤独ではないんですね。
都会の人々は文字通り不自然です。土を踏めるだけでも違いますよ。
🔴素直な社員とは 20220719
鼻っ柱のつよかった私が、コテンパンにやられたことがある。
何年か勤め、向上心に燃えて、熟練した上司のおひとりに「こんな場合は、どうやるものですか?」と勇気をだして質問したことがある。
その方は、親切にこれこれこういう風にやると教えてくれた。
わたしは、なるほどと感心したものの、私のやり方には合わないので、教わった方法を実践しなかった。
当然うまくゆかず、ひとり伸び悩んでいた。
そんなとき、上役からも信頼されている先輩から注意を頂戴した。
先輩が言うには……
仕事の出来る上司に、教えを乞うのはよいことだ、
しかし、教えてもらった以上はそれを実行しなければ失礼だろう。もう教えてもらえなくなる。自分で勝手に判断してその実績のあるやり方を変えてはならないという事。
仕事を訊くということは、そういうことだ(その通りにやること)と懇々と説いてくれた。
わたしには、ハッとする見解だった。
ひとつとして、勝手に変えてよい所はなかったのである。
素直にやるとは、先人の経験則を守ることで敬意をあらわして、仲間に入れてもらうことなんですね。違うかな、、まだわかってない?
伝統芸能や武道の世界は、わざの伝承において仕来りが厳しいが、
煎じつめれば、師匠の心情に弟子が同期することで、「あれ取って」とか、言葉で言わなくても仕草や雰囲気でわかる状態になる。
教えてもらうとは、その情報量の濃密さはそれぞれ違うが、やっぱりこの「同期」が大切ですね。
自分の思い込みがわずかでも混ざると同期できない。
昔のコトバで言うと「啐啄(そったく)同機」ですね。
🔴新しい日本人か? 20220721
「新しい展開の世界」ってどんなのだろうと思いを巡らしていたら……
安倍ちゃんに献花に訪れていた高校生や中学生のお姿が思い出された。実に真摯に黙祷を捧げていらして、よくもこの日本でこんなにも立派に育ったものだ、親御さんの顔を見てみたいとフト思った。
「ゆとり世代」の後期が「さとり世代」と呼ばれるらしいが……
・ゆとり世代→ 1987〜2004年生誕
・さとり世代→ 1996〜2004年生誕
とすると、
いまの高校生以下は、【2005年以降】に生まれた、未だ名付けられていない世代である。(現在17歳位以下)
なるほど、新たに18歳で選挙権を与えられた世代ということになろう。意味深長な区分分けであると感じ入った。
もう一つ踏み込むと、これから成人に成る新世代は、「団塊の世代」の孫にあたる。
・団塊の世代→ 1947〜1949年生誕
・ポスト団塊ジュニア世代→ 1975〜1979年生誕
…… 「団塊の世代」が第一次ベビーブームに生まれ、「団塊ジュニア(1971〜1974年生誕)」が第二次ベビーブームに生まれた世代なのだが、
「団塊の世代」のご子息にあたるのは、団塊ジュニアではなくて、その次の世代「ポスト団塊ジュニア」なのである。
そして、その「ポスト団塊ジュニア」のお子様たちが、いまの高校生以下の新世代ということになる。
実感しやすいように、世代の代表を挙げれば……
・団塊の世代→ キタ野武、ヤ沢永吉、コ泉純一郎、イト井重里、ムラ上春樹、ヨシ田拓郎
・ポスト団塊ジュニア→ ナカ田英寿、ア室奈美恵、タケ田恒泰、ハマ崎あゆみ、イ藤英明、おーどりー
…… で、ポスト団塊ジュニアのお子様たちが、新世代となるわけである。
個人的な見解だが、日本の戦後態勢がマッカーサー占領軍下に統制されて、スリーエスに象徴される愚民化政策にみごとに洗脳されて、「権利」の主張や「自我」の主張が、「戦後レジーム」として推奨されて定着した。
本来の道に外れた日本人が、輩出し始める。
安倍ちゃんの「戦後レジームからの脱却」とは、御自らの反省も含めて、日本人として至らぬレベルの国民が増えてきたから、本来の日本人に戻ろうとする揺り戻しの露われだと思う。それが「日本を取り戻す」というスローガンに表れている。
戦後(1945年以降)生まれた「団塊の世代」より下の人々は、本来の意味での日本人ではない。大和魂をもった日本人としては認定されていない。(台湾人の評価等に見られる)
お爺さん・お婆さんから三代、いまの高校生以下の新世代は、戦後レジームで純粋培養🧫された三代目である。
わたしは、待つコDXにはギリギリ真正日本人を感じることがあるし、好きである。カノジョは「団塊ジュニア世代」に属していて、戦中派に育てられた最後の世代なのである。
やっぱりその下の世代(ポスト団塊ジュニア)は、待つコとは感性が違うと感じる。
ところが、その「ポスト団塊ジュニア」のご子息たちは、なかなか立派である。
[※ 例えば、リアクション芸人・出川哲朗をリスペクトして、「出川ブーム」を創り上げたのは、この子達である。画面にあらわれない陰の努力とか優しさに逸早く気づいて、当時の安倍総理が、日本のために自分達のためにご尽力くださっていることを察して、急逝に際し、慎ましやかに花束を以って感謝の気持ちを捧げたのが、他ならぬこの世代なのである。わたしたちは、この抜きん出た精神の顕われを悦ばなくてはならないだろう。彼ら彼女らの親やジジババが教えたわけではない。自ら見い出したのだ。]
これはどういうことかと、あたまを悩ましたが、ある川柳を思い出した。
> 売家(うりいえ)と 唐様で書く 三代目
…… つまり、苦労して創業した初代や、生まれた瞬間から跡継ぎとして厳しく育てられた二代目とちがって、三代目ともなると、「生まれながらの将軍」なので甘やかされて教養を身につけたはいいが、商売への意欲はからっきしで身代を持ち崩して、唐様の書体で洒落て「売り家」の貼り紙して、実家を売り飛ばすという惨状に至るというわけである。
商売にともなう恨みや生き霊もあいまって、三代続けて繁盛させるのは至難の業であることを教訓とする川柳でもある。
してみれば、初代の「団塊の世代」で、亜米利加🗽の口車に乗せられて「自由」を謳歌して、わがまま一杯に生きて反・日本人を成し遂げてから、三代経過すると、最初の人生哲学は大きく捻じ曲がって、別物になることを暗示してはいまいか。
まったく思いも寄らないことだが、18歳で選挙権を得た新世代は、いわば「反・反・日本人」で、巡り巡って真の日本人に立ち帰る可能性を秘めている。
世界は逆に進行する(老子)ことで、妙な具合に僥倖がおとずれた、神々に愛される日本国なのではあるまいか。
_________玉の海草