1977年9月28日、日本航空ダグラスDC-8機が日本赤軍にハイジャックされた。
政府は福田赳夫首相の判断でテロリストである日本赤軍に全面屈服した。
福田赳夫政権は超法規的措置により、囚人である日本赤軍、東アジア反日武装戦線のテロリストを釈放した。
福田赳夫首相は
「一人の生命は地球より重い」
と発言。日本政治史に残る珍迷言となった。
さらに福田赳夫政権は日本赤軍に身代金600万ドル(約16億円)まで支払い、テロリストを野に放ったことで世界から批判された。
諸外国からは「テロリストまで輸出する」と非難された。
日本赤軍はレバノンにキャンプを置くPFLP-GCを中心としたテロリストに身代金16億円を配った。
1977年10月15日、長崎県大村市で西肥自動車バスが2人の男にバスジャックされる。
犯人2人は「阿蘇連合赤軍」を名乗り政治テロ思想テロを思わせる。
犯人2人はバス車内にワイヤーを張り、ワイヤーに接触すると爆発すると脅す。
しかしワイヤーはただの針金であることを長崎県警に見抜かれる。
事件発生から18時間後、午前4時25分に長崎県警の捜査一課、機動捜査隊がバス車内に突入し犯人に発砲、同時にバス車外からも発砲する。
犯人の川崎久之は死亡、川下孝一は負傷、逮捕された。
川下孝一は取り調べで、1977年9月28日に発生した日本赤軍のハイジャックからヒントを得て身代金目的で犯行に及んだと自供した。
川崎久之と川下孝一は知り合ったばかりで、「阿蘇連合赤軍」という組織も実在せず、日本赤軍から着想したものだった。
1977年10月13日に発生したルフトハンザ航空ハイジャック事件。
ルフトハンザ航空のボーイング737機がPFLP(パレスチナ解放人民戦線)にハイジャックされた。
PFLPと西ドイツ赤軍派の共闘だった。
ソマリア・モガディシオ空港に着陸するルフトハンザ航空のボーイング737。
犯人のPFLPは収監されている西ドイツ赤軍派とPFLPのメンバーの釈放、身代金900万ドル(約24億円)を要求した。
PFLPテロリストの要求に対し、西ドイツ政府は拒否を決断した。
パイロットを殺害したPFLPテロリスト。
ソマリアのモガディシオに指揮を執る総務長官と、対テロ特殊部隊である内務省国境警備隊第9部隊(GSG-9)が派遣される。
イギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)の支援のもと、GSG-9は特殊音響閃光弾スタン・グレネードを使用、H&K MP5機関拳銃でPFLPテロリストの無力化に成功する。
3人を射殺、1人を逮捕した。
日本赤軍テロは大成功だったが、PFLPと西ドイツ赤軍派は大失敗となった。
西ドイツ赤軍派は大きな打撃を受けた。
日本の警察庁首脳は事態を重視、西ドイツに幹部を派遣、GSG-9設立の経緯と運用を調査した。
GSG-9は1972年のミュンヘン・オリンピックでイラク・バグダッドを拠点とするパレスチナ・ゲリラ「黒い9月」によるイスラエル選手団人質、殺害事件の反省から発足した。
当時の西ドイツでは、基本法(憲法)により北大西洋条約機構域外に連邦軍を派遣できなかったことから、全世界に隊員を派遣できる国境警備隊に対テロ特殊部隊を設立することになった。
GSG-9は、第二次世界大戦からコマンド部隊を運用し、マラヤ、ギリシアでの共産主義ゲリラ掃討、北アイルランドでの暴徒鎮圧とIRA(アイルランド共和軍)への対テロ戦、を経験しているイギリスSAS(特殊空挺部隊)に国境警備隊のヴェーゲナー中佐を派遣、対テロ戦を学んだ。
このことは憲法などの政治的制約により、自衛隊の運用が厳しく制限されている日本において非常に参考になった。
1977年10月末、警察庁は警視庁警備部第6機動隊に極秘裏に「第7中隊」(「特科中隊」)を編成した。機動隊員を中心に60人を選抜、対テロ特殊部隊が日本にも設置された。
また、1977年12月には大阪府警察警備部第2機動隊に「零中隊」を編成した。機動隊員を中心に40人が選抜された。
これら対テロ特殊部隊は、GSG-9、SASなどから対テロ作戦を学び、徐々に実力をつけていった。
福田赳夫首相はヘルムート・シュミット首相と仲が良かったが、ずいぶんと差をつけられた。
日本赤軍、JRAは世界的テロリストとして恐れられ80年代は日本、アメリカ、イギリスをターゲットとした爆弾テロを敢行する。
しかし90年代から「日本赤軍を支援するPFLP-GCとシリア軍特殊部隊」を支援するソ連がダメになったので日本赤軍もおとなしくなった。
2000年には日本赤軍リーダー重信房子が高槻市で逮捕される。
日本赤軍リーダー重信房子は高槻市の病院に潜伏していた。
日本赤軍リーダー重信房子は社民党関係者名義の偽装パスポートを持っていた。