風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

天狗党壊滅

2009-03-05 23:14:35 | 歴史
 
身を切られるような雨まじりの寒風吹きすさぶなかで、三百五十三人もの捕らわれの身の者が斬罪に遭うというできごとが幕末の日本で起こった。それは身も心も凍りつくような凄惨な出来事であった。
処刑された者たちの名を天狗党と言った。彼らは、水戸藩内の勤王攘夷をとなえる過激派の集団であった。
彼らが捕らわれ、処刑された場所は、水戸からはるか離れた日本海に臨む敦賀の地である。
これにはわけがあった。天狗党は、自分らの主張を、当時、禁裏守衛総督の任についていた自藩の一橋慶喜に言上すべく京に向かったのである。それは気の遠くなるような遠征であった。だが、彼らの意志は結局うち砕かれることになる。  
幕末の歴史書のなかに、はじめて天狗党の名を発見した時には、なんと怪異な名前であることかといぶかったものである。
そもそも天狗党という名は、水戸藩内における政治勢力のひとつの名であった。この件にくわしい『水戸藩党争始末』には、九代藩主徳川斉昭の治世下に、門閥派と革新派の間の権力闘争が激しくなり、一方をのちに諸生派、もう一方を天狗派といった、と解説されている。 
天狗の名の起こりは、保守を自認する門閥派が、革新派のやり方を、成り上がり者がテングになっていると揶揄してそう呼んだものだが、一方、言われた側の革新派の方は、それを逆用して、我らこそは、天狗のように才知にたけた者たちであると、みずからを尊称して、そのように呼ぶようになった。
革新派であるグループは、文字通り、藩政改革推進派であった。藩主斉昭の進める改革路線を支持し、その担い手になっていた。彼らは藩の中・下級武士層からなり、その中心人物は藤田東湖という国学者であった。東湖は斉昭擁立にも奔走した人物で、国学者藤田幽谷の嫡子である。
一方、門閥派は斉昭の政治の進め方に批判的であった。斉昭の側近のひとりであった結城寅寿という人物を代表する藩の上級武士層からなっていた。
藩主斉昭の時代は文政十二年から天保一五年(1829~44)という長い間つづくが、その間、両者の確執はしだいに激しくなり、権力闘争化するに至るのである。
そもそもこの両者の党争は、あるイデオロギー論の対立からはじまったものだ。
それは当時、編纂改訂された『大日本史』をめぐっての解釈から生じた。国学者の藤田幽谷とその師である立原翠軒との間で引き起こされた論争は、その後、弟子たちに引き継がれ、水戸藩を根底からゆさぶる事態をまねくことになる。
党争がいちだんと激しさをますようになるのは水戸藩主に徳川斉昭が就任してからのことであった。じつは斉昭が藩主になるにあたって、すでに藩内の対立は先鋭化していた。
対立は国元の水戸派と江戸詰めの江戸派との間で巻き起こった。勤番する場所のちがいが、考えを異にする理由になるということは、ままあることである。
水戸藩は徳川御三家である。御三家には参勤交代という制度は課されてはいなかった。そのかわり、江戸にも常駐の家臣を置くことが定められていた。
しかも、藩主は江戸詰めであった。水戸藩士の半数ちかくの人間が江戸に在住し、そこでひとつの藩を形成していたようなものであった。 
水戸と江戸では情報量のちがいが大きかった。今の時代とはちがって、通信手段の乏しい時代である、本藩と江戸詰めの藩士との間に情勢分析で落差が生じたとしてもおかしくない。 斉昭が藩主になることで勢力をはったのは、藤田東湖を代表する江戸詰めの革新派であった。
だが、この改革は急進すぎた。藩内の保守派はますます頑なになり、反発を強めることになった。藩内はもめにもめた。結局、革新派が藩をまとめきるまでには至らなかった。 
そうしたさなか黒船来航という日本をゆるがす一大事件が勃発した。嘉永六年(1853)のことである。緊迫した情勢をふまえた対立がさらに燃えさかることになる。
ところが、安政年間(1854~59)に入って、革新派の藤田東湖が安政地震で逝き、結城虎寿が失脚して斬死する。
この事態で、いちじ両派の対立は沈静するかに見えたが、じっさいはそうならなかった。対立はさらに、野火がひろがるように若い世代に燃え移っていったのである。
その頃、革新派の理論的支柱になったのは会沢正志斎という人物であった。彼は藤田幽谷の弟子である。彼が著した『新論』という書物は、憂国の革新派藩士のバイブル的な存在になっていた。
彼らが尊王攘夷という言葉をさかんに叫ぶようになるのもこの頃からである。やがて、ひとつの藩のなかで燃えさかっていた危機意識は、日本という国全体にひろがっていく。それは尊王攘夷を唱える諸国の論者たちと連帯してゆく行動となって具体化する。これは幕府の政策に明らかに異を唱える行動であった。とはいえ、御三家である水戸藩は、あからさまに幕府に反対するわけにもいかず、建前は、幕府に攘夷の決断を促すための行動であると釈明した。
この頃、水戸藩を脱藩した浪士たちが各地で騒擾事件を起こしては世間を騒がせていた。水戸藩内部の革新派と保守派の対立は、やがて幕府と朝廷の対立を鮮明にさせていくことになる。
同じ頃、幕府の大老職に井伊直弼が就任した。開国論者であった井伊は過激尊攘派の者たちをいっせいに検挙、断罪していった。水戸藩に対しては前藩主斉昭を永蟄居にするなど厳しい措置がとられた。世に言う安政の大獄(安政六年)である。
だが、反動は反動を呼んでいった。こんどは尊攘派弾圧に反発した浪士たちが、登城途中の井伊直弼を桜田門付近で待ち伏せ襲撃し、これを暗殺するという事件(万延元年)が起きた。殺戮の報復である。       
     * * *

天狗党が筑波山に挙兵したのは、桜田門の変が起きてから四年後の元治元(1864)三月二七日のことである。決起の目的は、自分たちが攘夷の先駆けになることを全国の尊王攘夷派の有志に宣言し、共に起つことを呼びかけることにあった。
筑波山は茨城県のほぼ中央部に位置する山で、関東平野のいずこからも望める。昔から霊峰として崇められてきた名山で、万葉集の頃から歌にも詠まれている。
その筑波山で決起するということは、天狗党にとって意味ある行動だった。神聖な目的のために立ち上がった自分たちの意図を内外に知らせるにこれほどふさわしい拠点はなかった。
後年になるが、明治の一七年にこの筑波山とは山つづきになる加波山で、自由党の過激派ともいうべき青年たちが決起したことがある。
ちなみに、加波山も筑波山と同じように聖なる山として崇められた山である。古くは神場山と呼ばれたほどの霊域であった。 
加波山での決起組は、当然のことながら、天狗党の筑波山決起のことを頭に入れていたはずである。そうした山で決起することは、自分たちの大義名分を押し立てるにふさわしい行為ととらえたのである。 
筑波山に決起したのは、田丸稲之衛門を大将にかつぎあげた藤田小四郎ら過激派の者たちであった。藤田小四郎は藤田東湖の子である。田丸は水戸町奉行であったが、尊王攘夷の考えに日頃から共感を覚える人物であった。 
決起した当初は六十三人であった人数が、数日たつと、天狗党に共鳴する藩外の、いわゆる草莽の士を加えて山はあふれた。このなかに、例えば、のちに赤報隊を組織して斬殺された相良総三もいた。
余勢をかって、彼らは日光に押し出した。天狗党の隊列の先頭には、常に水戸斉昭の位牌をおさめた素木の神輿がかつがれていた。
日光山に立て籠もるという目的が阻まれると、今度は方向を変えて、栃木県にある大平山に集結した。大平山に本営を定めたのは、そこで軍資金の調達をするためであった。
周辺の藩や町の商家が、金集めの標的にされた。関東平野の町や村は、にわかに騒然としはじめたのである。 
これに対して保守門閥派は、家老の市川三左衛門を頭に天狗党と武力対決の構えを見せた。彼ら保守派は水戸弘道館に通う上級藩士の師弟がその中心であった。それに幕府が派遣した田沼意尊を総督とする天狗党追討軍数千が合流した。
事態を複雑にしたのは、この二勢力に、江戸にいる藩主慶篤が送りこんだ徳川頼徳を総大将とする騒乱鎮撫の軍隊三千あまり、それに尊攘派であるが筑波山の決起には参加しなかった竹田耕雲斎らの軍勢が加わったことである。竹田は家老職にあったが、藩主から職を罷免させられていた。
当初、鎮撫軍は天狗党に味方したが、のちに脱落。この結果、天狗党は致命的な敗北を喫することになる。筑波山決起から七カ月後のことだ。 
水戸郊外の那珂湊の戦いに敗れた天狗勢は、ほうほうの体で久慈川が近くに流れる大子村に集結した。元治元年十月二五日のことである。
天狗勢が大子に集まったのは、そこが敵を迎え撃つにふさわしい山間の要害の地であり、以前から尊攘派に共感する村民が多かったためであるとされる。 
天狗勢のなかには女や子供、武士ではない農民や職人もまじっていた。とうぜんのことながら、数も増えた。その数、千人規模にまで膨らんでいたのである。
なかには、今まで天狗党とは考えを異にするグループも加わっていた。尊攘思想の持ち主であるが、天狗党とは一線を画していた竹田耕雲斎もそのひとりである。その彼が総大将に選ばれた。
これからも分かるように、諸勢力が、いわば尊王攘夷という考えで大同団結したのが天狗党であった。彼らは自分たちの清廉な志を、京都にいる一橋慶喜を介して天皇に奏上しようと企てたのである。
慶喜は斉昭の子である。当然のことながら、彼らの願いを聞きとめてくれる考えの持ち主であると確信した。
大子に集結した者たちの多くは、甲冑に身をかため、刀や槍で武装していた。銃や大砲までが持ち込まれていた。意気は大いにあがっていた。 
こうして、元治元年十一月一日の深夜、一千人に及ぶ天狗党の一団は京を目指して長途の旅に立ったのである。すでに冬の季節である。寒気がひとしお肌をさした。
軍列は威風堂々としていた。軍団ごとに編成された隊列には隊長格の者が馬にまたがり、そのあとに鉄砲隊、長槍隊、それに二門の大砲がつづいた。総大将の竹田耕雲斎は馬にまたがり各軍団の最後尾についていた。
長途の旅を予想してか、付き添う荷物も多かった。重い荷を乗せた荷馬と長持ちをかつぐ人足の列が長々とつづいた。
軍列の上には、彼らの決意を示す「攘夷」「魁」などの文字を染めぬいた幟がはためいていた。  

       * * *

 日本海に面する敦賀の冬は晴天が少ない。私も二度ほどそこを訪れたことがあるが、いずれも氷雨にそぼ濡れたり、暗い雲が流れる風の強い日だったりした。
天狗党の一団が一カ月以上にもわたる長旅の果てに、ようやくたどり着いた地は敦賀であった。元治元年十二月十一日のことである。ようやくのことで山中を抜け出て、日本海側に出られるという期待感が彼らには強くあった。そして、自分たちの願いがいよいよ聞き遂げられる日が近づいたという思いが、誰の胸のうちにも熱くこみあげていた。
ところが、その矢先に事態が暗転したのである。敦賀の地に足を踏み入れるということは、彼らの意志が潰えさることを意味した。
やっとの思いで加賀藩領にたどりつき、京にいる慶喜に自分たちの嘆願を述べたてる文書を送った結果が、降伏せよとの返答であった。
しかも驚くべき事態を知ることになった。慶喜が天狗党の追討総督になっているではないか。裏切られた思いと、なぜそのようなことになったのかが容易に呑みこめなかった。これは予期しない出来事であった。彼ら天狗党には信じがたい内容であった。幹部たちの間で昼夜を分かたずの激論がかわされたことは言うまでもない。
天狗党を終始指導してきた藤田小四郎は考えたことであろう。天狗党には遠大な計画があったはずであると。
それは、前藩主斉昭の子が藩主になっている鳥取藩や岡山藩の同志たち、及び尊攘派の拠点になっている長州藩と連携し、朝廷に働きかけ、幕府に攘夷の決行を迫るというものであった。天狗党の決起はそれに同調するための行動であった。 
だが、天狗党が一カ月に及ぶ長旅をしている間、事態はそのようには動いていなかった。それどころか、尊攘派の動きは完全に封殺されていたのである。
そもそも、慶喜に面会し、自分たちの志を陳述すれば、嘆願の意志がつうじると考えたこと自体が、一方的な思いこみであったとしか言いようがない。
いまにしてみれば、血気にはやる気持ちばかりが先行した行動であったと反省された。現実を目の前にすれば、やはり、すべてが幻想でしかなかったと思わざるを得ない。いまや降伏するしかなかった。
武装を解かれ、敦賀の町に入った総勢八百二十三名の天狗党の面々は、さっそく敦賀湾に近い町中の本勝寺、長遠寺、本妙寺の三つの寺に分散して収容されることになった。それは客人としてでなく、追って沙汰ある身としての捕らわれの境遇であった。
当時、敦賀は加賀藩の領地であった。ために天狗党の身柄は加賀藩預かりとなったのである。
加賀藩の天狗党に対する扱いは終始、丁重であったと言われる。ところが、一カ月ほどたち、天狗党の身柄が幕府側に移されると同時に、突然、彼らの扱いは激変した。
一月二九日のことである。全員が寺から海辺近くにあるニシン蔵に駕篭や徒歩で移送されたのである。 
移送の当日、通りの要所要所には、警備の兵士が手に抜き身の槍を携えて立った。家々は鎧戸を閉め、町は静まりかえっていたという。 
ニシン蔵というのは、その名のように北海で獲れた産物、主に肥料用のニシンを貯蔵する蔵である。回送問屋が所有していたその蔵を強引に空けさせたものである。当時、船町(現在の蓬莱町)にあった倉庫のうちの一六棟に彼らは押しこめられた。
間口五・七メートル、奥行十一メートルある蔵には窓があったが、それもふさがれた。土間には筵が敷かれ、中央に排便用の桶がしつらえてあった。収容された者たちは皆、松板でつくった足枷を左足にはめられた。   
そして、蔵の周囲には竹矢来が組まれ、武装した兵士が警戒にあたった。夜になると篝火がたかれ、高張り提灯には火が入れられた。 
ニシン蔵での生活は、食事が日に二食。握り飯がひとつずつと、それに冷めた湯が与えられた。夜は布団などもちろんないので厳しい寒気にうち震えた。病人が続出し、怨嗟の声が高まった。 
現在、市内の松原神社の境内にそのニシン蔵がひとつだけ移築されて残っている。もちろん、その建物は天狗党にかかわる史跡のひとつとして野外展示されているものだが、あまり広くない、その建物内に、立錐の余地もない状態で詰めこまれたことを想像するだけでも胸が痛くなる。
処刑の時が近づいていた。幕府側から若年寄の田沼意尊がやって来たからである。田沼は天狗党の追討軍総督として、以前に水戸に攻め入ったことのある人物である。
田沼は到着するや、形ばかりの裁判を行うために、町中にある永覚寺(敦賀駅そば)にお白洲を設け、一人ずつに刑の宣告を開始した。二月に入ってからすぐのことであった。 
そしてついにその日がやってきたのである。処刑の場所は町の西はずれにある来迎寺地内。そこは昔から刑場であったところでもある。急ごしらえの四つの大きな穴が掘られてあった。 
ニシン蔵から天狗党の面々がつぎつぎと引きずり出されていった。ある者は縄で縛られ、身体の衰弱した者は駕篭に乗せられ、それを警護の兵が取り囲んだ。
そして、刑場に到着するや、ただちに処刑されていった。
幕府側から斬首の執行を任されたのは小浜、彦根、福井の各藩であった。この時、彦根藩は桜田門で倒れた井伊直弼の意趣返しをする気持ちが強く、斬首に立ち会うことに積極的だったといい、一方、福井藩はそれを頑なに拒んだという後日談が残っている。
慶応元年(1865)二月四日、まず総大将の武田耕雲斎ら二五名の幹部たちが斬首の刑に処された。このなかには、副将の田丸稲之衛門、軍師の山国兵部、天狗党生え抜きの幹部である藤田小四郎らがいた。  
その日は風雨の強い日であったという。穴の前に座らされた罪人たちは、首を斬り落とされると、つぎつぎと穴の中に蹴落とされた。 武田耕雲斎の辞世が残っている。
「討つもまた討たれるもまた哀れなり同じ日本の乱れと思えば」
こうして、第二回、二月一五日、百三十四名、第三回、二月一六日、百三名、第四回、二月一九日、七五名、第五回二月二十三日一六名とつづき、計三百五十三名の者が、刑場の露と消えたのである。
それは明治という時代になる三年前の出来事であった。

     * * *

 美しい気比の松原がひろがる海辺から少し南に歩くと、そこに松原神社という名の小さな社(松原町二丁目)がある。今は閑静な住宅街の一画になっているが、その敷地の一部こそ、かつて処刑場になったところである。 そこに足を踏み入れると、土壇場のあった場所に、周囲四メートルほどの土盛りされた立派な墳墓がつくられている。墓石が並ぶ墓域は一段と高くなっていて石段がついている。石段の左手に、刀を杖にして立つ等身大の武士の銅像は武田耕雲斎のありし日の姿である。松林の樹間から空を仰ぐと、黒い雲がせわしなく流れてゆく。今にも雨が降り出しそうな気配である。林の中を一陣の風が吹きわたる。
しばし瞑目し、あの時を想ってみる。
処刑場の周囲に巡らされた真新しい竹矢来の外にはたくさんの人だかりがあっただろう。冷えきった身体を震わせながらも、これから目の前で繰りひろげられようとする出来事を、この目で見ようと集まった幾つもの顔々。彼らには、遠い他国からようやくたどりついた男たちが、なにゆえに斬罪に処されようとしているのかが分からなかったにちがいない。そこにはただ憐憫の表情が表れているだけだった。 
やがて、腹の底をつくような異様な気合とともに、閃光が走ったかと思うと、鈍い音が空を切る。それは数え切れぬほど、幾度も幾度も、不気味に規則正しくつづいた。 
 石段を上り、墓石に刻まれた見えにくい人名をひとつずつ読みとってゆく。剣先をイメージさせる墓石に「斬死」と刻まれた鮮やかな文字。改めておびただしい数の人間の命が断たれたことを実感する。
それにしても、これほどまでに憎悪にみちた処断があったことが信じがたい。時代のなせるわざとはいえ、人間がなしたことがらにちがいない。
静かで平和な町でとつぜん引き起こされたこの出来事は、敦賀という地に深く刻印されて、こののちもひそやかな記憶となって残りつづけるのだろう。





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