風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

伊勢神宮-常世の浪の寄せる、うまし地-

2013-01-23 11:10:39 | 人文
 「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」
 これは江戸時代に唄われた「伊勢音頭」の一節である。かつてはこれほどの熱いまなざしでとらえられていたお伊勢さんであるが、今の時代でも、機会があれば一度は訪ねてみたいという思いを抱いている人が多いのではないか。
 そのお伊勢さんを訪ねることになった。  
 徒歩で伊勢神宮を訪れた時代、参拝は外宮からするのが一般的であった。地理的にみても外宮の方が手前にあるので、それが順当であった。現在でもそのように参拝するのが正式らしい。私もそれにならって外宮からお参りすることにした。外宮に行くには、近鉄山田線の伊勢市駅で下車する。
 いかにも寺社の門前を思わせる、みやげもの店が立ち並ぶ賑やかな表参道をまっすぐに進む。やがて、目の前にこんもりとした緑の森が見えてくる。
 外宮の参拝はまず火除橋をわたるところからはじまる。火除橋の名は、かつて、ここに火除地があったことにちなんでつけられた名であるという。
 外宮の近くまでひろがった町域から発生する火災を恐れて、火除地が設けられていたわけだ。今も広い空間にその片鱗がうかがえる。 
 いよいよ、濃い緑につつまれる神域に足を踏み入れるという時、心なしか少し威儀をただしたい気分になる。
 橋をわたり、左手に備えられている手水舎で手を清め、左の手のひらに水を受けて口をすすぐ。この儀式めいた行為もごく自然に済ませ、気持ちをととのえてから砂利道の左側をおごそかに進む。まずは第一鳥居をくぐる。外宮の神域は、見たところ、それほど広いとは思えない。少し行くと、すぐに第二鳥居が見えてくる。
 右手にかたまる建物は、祭礼の際に、神職が身を清めるためにこもる斎館である。左手奥にはいくつかの池が見え隠れする。  
 第二鳥居をくぐる。しだいに神域らしい気配が濃くなる。鳥居の右手に見える建物は神楽殿。正式な祈祷を依頼するさいに、お神楽の舞が演じられるところである。
 そして、その隣が九丈殿と五丈殿。いずれの建物も簡素で、殿と呼ばれるほどの威厳は感じられない。聞けば、この建物は、雨天用のお祓い所であるというから、仮屋のような印象があるのだろう。
 それを通り過ぎると、参道のつきるあたりに正宮が現れる。それは意外の感があるほどにすぐ現れた。
 伊勢神宮の場合、内宮も外宮も、一般の参拝者は、御垣内の外垣南御門と呼ばれる門の前でお参りすることになる。 
 外宮の御垣内は四重の玉垣に囲われた正殿が中央奥に建ち、その前方左右に宝殿が建つという配置である。
 じっさいは拝礼の門から眺め通しても、幾重にも重なる門にこばまれて、正殿の全貌は確かめられない。わずかに、先端を垂直に切った千木をつけた萱の屋根が奥の方に見えるばかりだ。
 この外宮の祭神は、豊受大御神という。この大神は、内宮に祀られる天照大御神に神饌をたてまつる神としてこの地に鎮座する。神が食事をするというのも、いかにも人間的である。
 外垣南御門の正面に立ち、二拝をし、柏手を二つたたき、もう一度拝礼する。
 拝礼を終えて、ふと見ると、正殿の建つ敷地の隣に、ぽっかり、ひろい空き地がひろがっているではないか。  
 そこは古殿地と呼ばれる、つぎの式年遷宮の時に、新たな社殿が建てられる場所であるという。式年遷宮というのは二十年ごとにおこなわれる社殿再建の儀式である。
 社殿を再建し、そこにあらためて神をむかえるその儀式は、永遠に神の再生を願うという意味があるとされる。それが二十年ごとにおこなわれるというわけだ。
 だが、この式年遷宮には、じつはもっと別の現実的理由があるとも聞いた。それは社殿造営の技術を永遠につたえるためだというのである。
 人間のライフサイクルを考える時、二十年という歳月が技術伝達にちょうどふさわしいとされた時代があった。式年遷宮はその伝統をひきついだものだというのだ。
 古殿地には粉を吹いたような小石が敷きつめられ、その中央に小さな小屋が所在なげに建っている。
 それは心の御柱覆屋と呼ばれる小屋で、その名のように、そこには社殿の中心に埋められる聖なる檜の御柱が収納されているという。いわば、そこは、宮のなかで最も神聖な場所、神が再生する奥所ともいえる場所なのである。 
      * * *
 外宮から内宮まではかなりの距離がある。徒歩でお伊勢参りをした時代、人々は、その五キロほどある御幸通りと呼ばれる街道をたどって内宮への参拝に向かったわけだ。
 五キロという距離が長いのか短いのか、その小旅行に配慮したのかどうか、この街道の途中に古市という歓楽の町がひかえていた。そこは、お伊勢参りの定番コースとして、参拝者の誰もがなんらかの形で立ち寄る場所であった。
 神聖であるべき神宮の参拝の道中に用意されていた歓楽街。聖と俗との隣あわせ。そのとりあわせがおもしろいが、お伊勢参りの内実とは、そうしたものであったのだ。
 『東海道中膝栗毛』のなかの弥次喜多も両宮参拝の前に古市で遊んでしまっているところからみると、こういう手合いがかなりいたのだろう。
 参拝の前に遊びほうけて、肝心なことは適当にお茶を濁すといったケースがかなりあったのではないか。
 こうして、伊勢神宮へのお蔭参りでは、おびただしい数の人々が御幸通りを行き来したのである。
 それらの人々が衆をなして、精進落としと称して歓楽の町を訪れ、なにがしかの金を落としていったとなれば、俗の世界はますます繁盛することになる。
 その町の賑わいは、今では想像すべくもないが、内宮に近いところにある五十鈴川に沿ったおはらい町に、かつての町並みが再現されている。そして、そこを訪れる人に往時の片鱗をかいま見させてくれる。
 おはらい町はなんともゆったりした気分にさせてくれる界隈である。通りにそって古風なつくりの切妻屋根の家並みが軒をならべ、意匠をこらした看板が目を楽しませてくれる。 どの家も店舗になっていて、そこでは伊勢名物のあんころ餅を売っていたり、土地のみやげ物を並べたりしている。なかに和菓子や海産物を商う専門店もまじる。 
 車の行き来しない通りをのんびりと、くつろいで歩いているだけで、幸せな気分になるのはどうしたわけだろう。
 ところで、幾度かブームを巻き起こしたお伊勢参り。じつは、その陰には仕掛け人がい たのだ。御師(おし)とその代行をつとめる先達という仲介人がそれである。 
 御師は神職にある人であるが、旅籠業もかねるお伊勢参りの案内人であった。昔は伊勢参りは団体でするというのが相場だった。その団体は伊勢講という講をつくり、毎年お伊勢参りのツアーを組んだのである。それを斡旋したのが御師であった。
 御師は講中から参拝費用を徴収した。これには宿泊費や神楽、幣の奉納代といったものも含まれた。 
 この御師の活動がはじまったのは室町時代頃からだといわれる。彼らは関所の通行特権を与えられて全国をかけまわった。それが功を奏して、江戸時代の終わりまで、お伊勢参りの人気はつきることなくつづいたのである。一方、受け入れる側の一般庶民にとって、お伊勢参りは、日常生活を離脱するまたとない機会であった。
 お伊勢さんにお参りすることで、なにがしかの願いごとがかなえられ、なおかつ、日頃の憤懣を発散できるとなれば、お伊勢参りに熱い思いが託されるのは当然であった。 
 さすがに現代では、そうした熱い思いはなくなったが、今日もおはらい町には、観光客が引きも切らずにバスで押し寄せ、みやげ物を買いあさり、食欲を満たして帰ってゆく。      * * *
 内宮の参拝はまず宇治橋をわたることからはじまる。いかにも雰囲気のある擬宝珠をおいた檜づくりの橋を、心を鎮めながらわたる。橋の中央に立って、周囲を眺めわたすと、深い照葉樹林の森のむこうにこんもりと盛り上がる神路山、島路山が望める。
 そして、足下には五十鈴川(宮川)の清流が浅瀬をなして流れているのが目にとまる。 こうした舞台設定を前にして、橋をわたるものはだれもが、これより神域に入るのだという思いをあらためて強くするのである。川は異世界との境であり、橋は彼岸と此岸をかけわたす通路として理解されるのだ。  
 橋の両端に立つ、直線的な鳥居の立ち姿が、周囲の風景に緊張感を与えている。注意してみると、橋は真新しいのに鳥居は見るからに古びている。 
 じつは、鳥居には式年遷宮で役割を終えた正殿の棟持柱が使われているという。建て替えられた時には、すでに二十年という歳月が流れているわけだ。
 森の深さからみても、内宮の神域はじつに広いことがわかる。外宮の比ではない。
 内宮と外宮という呼び名は、地理的な関係からそう呼ばれるようになったものであるにもかかわらず、内宮が主で、外宮が従であるというイメージがあるのは、その神域の規模の大きさにもあるように思える。
 さらに言えば、伊勢の地に最初に祀られたのは内宮であり、外宮に祀られる神は、内宮の天照大御神に食事を供する神さまとして、のちに遷宮してきた経緯からしても、なにやら主従関係を匂わせるものがある。
 橋の上に立って、しばし目の前にひろがる風景を見わたしながら、私は四季おりおりの、朝と昼と夕べの、時の移りによってもたらされるであろう景色の変化を想像してみた。
 橋をわたりおえるとすぐに玉砂利の敷かれた参道になる。玉砂利の上を歩くのはなかなかの難儀だ。じつに歩きにくいのである。
 そのために参道を歩む人は、つい足元に気を向けることになる。それが結果として、心の集中をもたらす効果をつくりだす。
 参拝客は拝殿に早く行き着きたいと願う。その焦る気持ちをじらすように玉砂利は果てしなくつづき、さらに森の奥深く分け入ってゆく。
 火除橋をわたり、一の鳥居をくぐる。参道が大きく左に折れるところに御手洗場がある。五十鈴川におりる石段があり、そこで手を清める。
 自然の川が御手洗場になっているのも珍しい。これは心の汚れは海に流すという考えからのもので、五十鈴川はやがて二見浦のある伊勢湾に注ぐ。 
 左に折れた参道をさらに進む。二の鳥居をくぐり、左手に神楽殿、右手奥に風日祈宮を見てから、いよいよ本殿にいたる。
 この参道沿いに林立する巨木の杉は、神杉と呼ばれる、いずれも樹齢六、七百年をへた老杉だという。
 品格のある風姿を直立させ、そこを歩む者に神域にいるという実在感をずっしりと与えてくれる。杉林をわたってくる一陣の風に、心が洗い清められるような気分になる。 
 ようやくのことで外玉垣南御門の前に立つ。鳥居をくぐり、石段を一歩一歩踏みしめる。参拝地点の外玉垣南御門前は人であふれていた。
 拝礼をしながら、外玉垣南御門の風にゆれる、帳(とばり)のむこう側にひろがる知られざる神域の世界を想ってみた。すると、ふいに妙な神秘感にとらわれたのである。  
 ふと、「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と詠った西行のことが思い出された。
       * * *
 ところで、一般には見ることができない内宮と外宮であるが、それぞれのつくりはどのようになっているのだろうか。
 まず、両宮に共通する点として----。
 その建物は唯一神明造りと呼ぶ、掘っ立て柱に萱を葺いた、切妻の屋根をもつ、檜の素木造りの建物であるということ。そして屋根には破風がのびて、千木を立て、棟の上には鰹魚木を置いている。
 これから想像するに、それは、ちょうど高床の穀倉造りに近いものといえる。
 それはブル-ノ・タウトをして、「この風土、この日本の土壌から生い立ったもの----いわば稲田のなかの農家の結晶であり、この国とその土壌との力を納めた聖櫃」と言わしめた構造物になっていることがわかる。 
 「唯一」というのは、ここ伊勢神宮にしか見られない造りであることを強調したものだろう。 
 つぎに内宮と外宮のつくりのちがいである。第一に社殿の配置が異なっていることがあげられる。全体として、空間構成の面で外宮の方が奥行感があるようだ。
 つぎに、千木の先端の切り方、鰹魚木の数がちがっている。
 とくに、千木の先端の切り方が異なるのは興味あるところである。
内宮の千木が水平に切られた内削になっているのに対して、外宮のそれは垂直に切られた外削になっている。
 外削の方が雨水の浸透による腐食を防ぐには合理的という見解もある。だが、そうであれば、両宮とも外削であってよいものなのに、そうなってはいない。
 すると、何かをシンボリックに表したものだということになる。たとえば、日本人が古来もっていたという、垂直的な宇宙観と水平的な宇宙観を表現しているというように。  
 別の説では、内宮の祭神が女神の天照大御神であることから千木が内削になっているのだという。とすれば、千木が外削である外宮の祭神、豊受大御神は男神だ、ということになる。だが豊受大御神は女神なのだ。 
 前述のように、豊受大御神は雄略帝の頃に、天照大御神に食事を供するために、わざわざ丹波の国から迎えられた神さまなのである。         
 ここで外宮のある度会(わたらい)の地には、もともと在地の守護神が祀られていた、という言い伝えがあることが思い出される。
 それは、豊受大御神が迎えられる以前に、すでにそこに祀られていた祭神があって、それは男神だったというものである。
 内宮の女神に対して、外宮の男神、千木の切り方が内宮の内削に対して、外宮の外削、また、鰹魚木の数も内宮が十本(偶数)であるのに対して、外宮が九本(奇数)と、あくまで内宮と外宮とは対の関係にあることがわかる。 
 それはまた、内宮と外宮は、たがいに補いあう関係にあるとも理解できる。
 伊勢神宮は、あくまで両宮を合わせて、ひとつの神宮として成り立っているというわけである。
 したがって、神宮参拝も両宮を合わせることで、まっとうしたことになる。
 伊勢神宮の遷宮の経緯については、『日本書紀』に、垂仁天皇二六年、垂仁帝の皇女である倭姫命が、「この神風の伊勢の国は常世の浪の重波のよする国なり。傍国のうまし国なり、この国におらんとおもう」と宣った天照大御神の神託にしたがって、この地に定めたとされる。
 古来から伊勢の地は、海上の彼方に常世があるという海上他界信仰につながる地として、また食料の豊饒な地として特別の意味をもつ場所であったのである。