風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

坂田山心中

2009-07-31 11:34:48 | 歴史

 坂田山心中とよばれた、悲恋心中の代表格とも言える心中事件が昭和の初めの暗い時代に起こった。
この事件が世間を賑わせたのには幾つかの理由があったが、なぜかこの男女の心中事件は、暗い時代を生きる人々にセンチメンタルな感動を呼び起こした。
 このあと、似たような心中事件が、同じ現場で流行り風のように繰り返され、一世を風靡したのである。
その事件とは次のようなものであった。
 昭和七年(1932)5月9日の昼下がりのことである。東海道本線大磯駅の裏山、通称坂田山とよばれる雑木林で、若い男女の心中死体が発見された。
 男は慶応大学の制服制帽、女は洋髪で、和服姿の丸顔の美人だった。心中死体の枕頭に一鉢の草花がそえられていた。また、付近に写真現像用の昇汞水の空き瓶がころがっていたのが発見された。二人は、それを飲んで死んだらしいことをうかがわせた。
 男の洋服のポケットから遺書が発見された。それによって、男は五郎といい、女は八重子という名前であることは知れたが、それ以上の詳しいことは不明であった。
 さっそく、各新聞社がこの心中事件を報じた。「慶大制服の青年心中 令嬢の女と大磯駅裏で」(東京朝日新聞)
 この社会面の隅に掲載された心中事件記事を読んだ男女の親たちが、すぐさま地元の大磯署に名乗り出た。それでようやく身許が判明したのである。
 男は調所五郎、二十四歳、慶大の理財科(今の経済)三年在学中。女は湯山八重子、二十一歳、東京のミッション・スクール頌栄高等女学校出身。男の父親は男爵調所定。五郎はその長男であった。女の実家は静岡県駿東郡の財産家であり、父親は湯山昭作。彼女はその令嬢であった。
 双方とも家柄の良い家の子弟であることで、この心中事件は、まず清らかなイメージを世間にあたえることになった。
 そもそも二人のなりそめは、東京の芝三光町にある高蘭女学校内の教会堂でのことだった。 
 二人は熱心なクリスチャンで、三光町に住まいのあった五郎と、高蘭女学校の寄宿舎にいた八重子は、日曜日のある日、ここで知り合ったのである。知り合ってからすでに三年という月日が流れていた。
 が、八重子は卒業とともに、静岡の実家にひきもどされていた。従って、二人の交際は、恋しい手紙のやりとりという形で終始していた。八重子は毎日のように五郎に恋文をしたためていたという。
 そのうち、年頃の八重子にいくつもの縁談が持ち込まれるようになる。当然のことながら、彼女はいろいろな理由をつけては、それらを断りつづけていた。が、ついにそれもかなわない状況に追いやられる。
 というのも八重子の家族は五郎との結婚には反対であった。五郎がまだ学生であること、それゆえに社会的地位が定まっていない、というのが反対の理由であった。五郎以外の相手とはやく結婚させれば、五郎との関係も切れるだろうと家族は考えたのである。 
一方、八重子は旧習にしばられての結婚を断じて拒否するタイプの近代女性であった。信仰の影響もあったのだろう。不本意な結婚を強いられるなら死んだ方がましだと思いつめていた。
その頃、八重子は肺炎をわずらっていたという。そのことで、彼女はいっそう結婚そのものに消極的になっていたのかも知れない。 
 女は恋しい男に心の内を明かす。男はそれに同情する。それならばいっそ二人して、という気持ちになったことは充分に推察できる。 
 大磯駅で降り立った二人が、坂田山(当時は八郎山といった)に登って行く姿を土地の人が見かけたのは、5月8日の夕暮れ時であった。その夜に二人が予定の計画を実行に移したことは、翌日に死体が発見されたことで想像できる。
 発見された遺書は次のような書き出しで始まっていた。
 「もし私が明六日夜になっても帰らなかったらこの世のものでないと思って下さい。数々のご恩の万分の一もお返し出来なかった自分を残念に思っています。御相談申し上げなかったのは八重子さんに私を卑怯者と思われたくなかったからです」
 遺書の日付は5月5日夜となっていた。心中行はそれから三日遅れとなったが、覚悟の心中であることをうかがわせた。奇しくも5月8日という日が五郎の母の命日であったのは、偶然のことであったのだろうか。
 〃つもる思いは遺書に
  手向けの花は枕辺に
互いに抱き抱かれて
浮世に残る夢もなし〃
 これは、二人の死後作られ、ヒット曲になった歌の一節(作詞 大木惇夫 作曲 近藤政二郎)である。
 二人はかつて訪れた場所に再びやってきた。それも死に場所を求めて。すべては懐かしい。その思い出を共有し、思い出のなかにひたっていると、この世に対するあらゆる未練が消えうせる。今のこの瞬間の時の流れを停止させることで、二人の幸せを絶対化したい。
 静まりかえった坂田山の雑木林。おぼろ月が二人の影をゆらめかせる。
 互いの思いを果たした後、女は死後の寝乱れを恐れて、錦紗の袷の着物の裾を紐でしっかりと結ぶ。男はおもむろに、写真現像用の昇汞水の入った瓶を女にわたす。女はそれを静かに口に運ぶ。女の死を見とどけてから、男もまた一気に昇汞水をあおる。
 二人は互いに抱き合うようにして死んでいたという。枕辺に、素焼きの小鉢に紫色の香水草の花をそえて。
* * *
 この時以来、心中現場である坂田山は、あたかも聖地のようにあがめられた。
記録によれば、この事件後の三年間、坂田山の麓の病院にかつぎ込まれた瀕死の生命を救われた者が、なんと六百人におよんだという。すさまじいまでの後追い行為の連続である。ひとつの心中事件がひとつの場所に特別の意味を付与し、そこが聖地化された好例といえよう。
ところで、死にまつわる場所が聖地化される例は、なにも心中現場だけではない。が、こと心中事件に限っていえば、その心中が美しいものであって初めて心中事件の現場は聖地化されるのである。
 坂田山心中は、そうした意味で、世の人々の心に美しくも悲しい出来事と映じたのである。当時のマスコミも、この事件を、そろって美しい悲恋物語に仕立てた。(天国に結ぶ恋-坂田山心中)と命名して書き立てた。
 当初、新聞はこの事件を「大磯駅裏心中」と呼んでいた。ところが、この事件に世間の熱いまなざしが注がれるのを受けて、いつの間にか「坂田山心中」と改題した。「坂田山」といえば、誰もが連想する、ひとつの意味ある固有名詞に仕立てあげていた。「坂田山」にまつわるイメージは、ますます神聖なものになっていった。
さらにポリドールレコードが、この事件を題材にした歌謡曲『相模灘エレジー』(のちに『天国に結ぶ恋』に改題)を発表。それを追いかけるように松竹映画『天国に結ぶ恋』が上映される。映画は心中現場の坂田山でロケを決行するという念のいれようであった。 歌も映画も、当時の世人、特に妙齢の女性たちに一大センセーショナルを巻き起こした。その結果が、前述したような、おびただしい数の後追い行為(自殺あるいは心中)となったのである。
 一方、事件後、さまざまな噂が取り沙汰された。その最たるものは、女が処女であったかどうかという下世話な噂であった。
 だが、すでに世間はこの事件を美しく飾り立てている。その現場は、今や名所になっている。
 あくまでも、この心中事件は美しく、清くなければならなかった。新聞はそうした世間の意を体して「床しくも処女であった」とわざわざ報道した。流行した歌の文句も「ふたりの恋は清かった。神様だけがご存じよ」となっている。
 クリスチャンであった男女の生々しい心中現場は、こうしてしばらくのあいだ神聖化されることになった。
 そもそも五郎と八重子が、大磯を選んだ理由は、かつて、ここが二人の楽しい思い出の場所であったためである。そこは二人がよく連れ立って散歩したところであり、八重子が女学校の頃に遊びに来た場所であった。
 人が自分の最後の場所として選ぶところ--すなわち己の生命をゆだねたいと願う場所は、その人なりの特別の意味が付されたところなのである。それは死ぬ者が残す最後のメッセージといえる。
 ところで、二人が死に場所とした坂田山とは、一体どんな場所なのだろうか。
 東海道本線の電車が大磯駅に近づくと急に山が迫ってくる。木々の緑の濃い、いかにも湘南の陽光が降り注ぐ山といった印象だ。それが坂田山である。
 標高110メートルの小山のわりには高い山に思えるのは、急勾配でせり上がる山容のせいかも知れない。それに雑木のうっそうとした感じも高さを印象づけている。
 ここを訪れる前に想像していたのとはだいぶちがう山の景観に意外性を感じた。実は、もっと草地の多い展望のきく山だと思っていたのである。多分、心中事件があった頃の景観も今見るようなものであったのだろう。
 ちがっているといえば、今や山腹のあちこちに住宅やら別荘が建っているということだろうか。人の住まいがこんなにところにまで侵食している状態にあらためて驚かされるほどである。 
 駅の東側にある歩道橋をわたり、閑静な住宅街の間に細く切り開かれた坂道をのぼる。道は九十九折りのように曲がり曲がりしながら、急速に勾配を増してゆく。ようやく登りつめたと思われるところで、急に視野が開ける。そこは高田公園とよばれる芝の緑が鮮やかな公園で、ちょうど坂田山の山頂付近に位置する。
その公園は、戦中戦後を当地に住んだ随筆家高田保を記念してつくられた公園である。公園の北端に故人の墓碑がひっそりと立っている。
 高田保が亡くなったのが昭和27年2月20日であるから、その公園ができたのは、もちろん坂田山心中後のことである。
 ついでながら、氏の随筆『ぶらりひょうたん』は、かつて多くのファンに親しまれた作品で知られている。 
 さて、公園の中央に立ち、坂田山心中の現場はどの辺であったのだろうか、とやや野次馬的好奇心がわきあがる。
 大磯図書館所蔵の『大磯歴史物語』(池田彦三郎著)によると「高田保の墓碑のある裏手の林の中---大きなふた股の松の木の根方が心中の現場」となっている。
今、その墓碑の裏手の林は、うっそうとした雑木林だ。そこは昼なお小暗い感じで、人がその中を歩き回ることは下草も生い茂り、ほとんど困難という状態である。
67年前はどんなぐあいだったのだろうか。想像もつかない。もう少し、人が歩ける余地があったのではないかと思われるのだが。 細い山道に分け入って雑木林の中を覗き見ても、大きなふた股の松の木を識別することができない。ふたたび公園にもどり、高田保の墓碑のある方向を望むと、雑木林から頭だけ姿を見せる松が見えた。あの根方が心中現場か、と推定してみるが、それを確かめるすべがない。
 現場を訪れる前、坂田山を草山のように想像したと記したが、心中現場というものは、そんな見晴らしのいい明るい場所であるはずがない、とあらためて納得したのである。
* * *
 大磯の海岸から町の方角を見やると、坂田山がちょうど町の背後に控えているのが分かる。町にとって、坂田山が景観上のアクセントになっている。緑濃い山が、ある種の雰囲気を醸し出している。この沿線でもこうした起伏に富んだ風景をもつ場所はほかにない。 
 大磯の町は、江戸期東海道の整備にともない、ここが品川から数えて八番目の宿駅に定められてからいっそう発展し、賑わったといわれる。歌川広重の『東海道五十三次』にも雨の降る大磯の宿場風景が描かれている。
 ところで、その絵に「虎の雨」の印が押してあるのに気づかれた方はいるだろうか。
 これは、曽我兄弟が、富士の狩場で父の仇工藤祐経を討ったその日が雨であったので、世人が、それはきっと宿願を達成したことを喜んだ〃虎の涙雨〃にちがいないと称して同情したという故事によったものだ。
 虎というのは、曽我兄弟のひとり十郎祐成の恋の相手虎御前のこと。二人の恋物語は『曽我兄弟』によって広く世間に知られている。鎌倉時代の大磯を代表する恋物語だ。坂田山の恋心中と同種の悲恋物語といえよう。 
 そんな伝説の伝わる大磯の町が、近代に入って新たなリゾート地として脚光を浴びる日がくる。
明治18年、この地に「日本最初の海水浴場」が開設されたためだ。初代軍医総監松本順の尽力によって、町の前面に広がる照ガ崎海岸が海水浴場第一号に指定されたのである。 
 これは、明治維新以来、宿駅としての役割を失い、活気を失っていた町の繁栄策として前途有望な話題であった。
 さらに、明治20年、東京-国府津間に東海道本線が開通。ちなみに、東京-大磯間は2時間20分を要した。これを機会に各界名士の大磯来遊者がふえる。さらに、この地の風光を慕って移り住む者も次第に数を増すようになる。
 明治31年の時刻表『汽車汽船旅行案内』は湘南大磯を次のように紹介している。
 「大磯には海水浴場あり。招仙閣、祷竜館、松林館等巨大なる旅館あり。貴顕紳士の別荘は高麗山麓に散在せり。鴫立沢又は曽我兄弟の旧跡あり」
 この頃、伊藤博文をはじめとする政財界名士の邸宅や別荘が百五十戸も建ち並んでいたという。
 明治41年、『日本新聞』が実施した避暑地百選全国投票では、大磯がその第一位に選ばれている。これを記念して駅前に「海内第一避暑地」の碑が建てられた。この碑は現在も駅前にひっそりと立っている。
 大磯の最盛期はちょうどこの頃までであったが、その後も長い間、大磯といえば、湘南の別荘地として、また格式のある海浜リゾート地として、一定のイメージを世間に与えていたところなのである。
 五郎と八重子の二人が、デート地として、大磯の地を選んだのも、そうした場所であったからであろう。美しく死ぬにふさわしい場所としての大磯。そこに二人はやって来る。そして、死に場所として定めたのが坂田山であった。
 生い茂る緑につつまれた盛り上がる地形は、従容として死ぬにふさわしい、身も心も休まる場所として二人の目には映ったのであろう。 若い恋人が聖なる地として選びとった場所を、その後、しばらくの間、世の人々も聖地として見なし、そのように了解したのである。


五稜郭興亡

2009-07-22 19:07:57 | 歴史
 幕末から明治維新のはざまに、榎本武揚をはじめとする旧幕臣が、最後の抵抗の砦とした五稜郭。その五稜郭の写真を初めて目にしたのは、確か高校の教科書の中であったような記憶がある。星形の、妙に近代的な風貌を備えた要塞、というのがその時の印象だった。 

 江戸時代の末期に築造されたとはいえ、あのように異風の要塞が造られていたことに、ある種の驚きと、不思議さを感じたものである。築造の目的と、なにゆえに函館という地に造られたのか、それが長い間、私の関心事であった。

 いつか訪れてみたいと、以前から心に描いていた五稜郭を、ある年の二月、ふいに訪ねることになった。雪が舞い散る、まさに冬のさなかである。

 函館に着いたその日は、前日来の雪で、町は白一色に包まれていた。さっそく、函館駅前から市電に乗り、凍りついたような町をぬけて五稜郭に向かう。

 五稜郭はすっかり雪のなかにあった。まずはその姿を俯瞰してみようと、隣接する五稜郭タワーに上ってみる。 

 ところが、案に相違して、上空から眺め見ようとした五稜郭は、舞い落ちる雪のため、すっかり霞んでしまい、その全貌を見通すことができなかった。目にしたものは、要塞の外郭をぐるりとかこむ、凍てついた濠ばかりであった。 

 それにしても、かつては、荒野の真ん中に、突如生まれた要塞であったというが、いま上空から眺めるそれは、古代古墳のように町並みにぐるりと囲まれて片身がせまい。

 要塞の敷地内には幾つかの構築物が立っていたはずである。それらが消えてしまっているためと、城郭がすっぽり雪の中に埋まってしまっているので、要塞全体がじつに立体感を欠いた、のっぺらぼうなものに見える。まさに廃墟というにふさわしい眺めである。

 実際、五稜郭を見るまでは、もっと起伏のある場所にあるものと想像していた。城郭というものは、そうしたものだという先入観がつくりだした幻像であったかも知れないが。ところが、意外なことに、それはじつに平坦な地に横たわっているのであった。しかも、私の予想に反して、ずいぶんと内陸部に位置している。

 海防の目的で構築された要塞にしては、海からだいぶ離れているな、というのが私の率直な実感であった。

ところで、当初、五稜郭を造るにあたっては、現在地よりも、さらに内陸部につくろうという案があったらしい。 

 五稜郭の設計者、竹田斐三郎は、現在の場所では、海から放たれる大砲の被弾距離から充分に安全な地とは言えないと反対したという。当時、すでに大砲の飛距離は四キロもあったのである。じっさい、函館戦争のおり、最新政府の新鋭艦ストンウォール号から放たれた砲弾が、この五稜郭に着弾しているのである。

 以前、五稜郭上空から写した航空写真を見たことがある。前方に函館山を望み、その左右に広い海がひろがっていた。それを見るかぎり、案外、五稜郭は海に近いことを知った。竹田が専門家の立場から、もっと内陸部に建設すべきであると主張したのも、理由があってのことだった。が、結果的に、五稜郭は現在ある地に造られたのである。

 そもそも五稜郭は、純粋に要塞用として造られたものではなかった。それは公的機能をもつ場所であることも要求された。

 公的機能をもつ拠点にするとなれば、あまり辺鄙なところではなく、人の出入りが容易な、地形的にも平らなところである必要がある。

 現在、五稜郭の置かれた場所は、北にやや傾斜のある地であるとはいえ、確かに平坦な地ではある。

     * * *

 五稜郭タワーをおり、今度は地上から五稜郭を観察することにする。

 降り積もる雪の中を、半月堡に架かる橋を渡り、さらに大手門に通じる橋を通って郭内に足を踏み入れてみた。 

 雪をかぶった赤松が濠に沿う土塁づたいに気品ある風情で並んでいる。雪に埋もれた要塞跡は、まさに歴史が凍りついたような感がする。

 郭内を歩きながら、五稜郭が五角形をしているのには、どんな意味があったのだろうかと、ふと考える。

 いわゆる将棋頭堡と呼ばれるせり出した五つの堡塁のひとつの先端に立ってみる。堡塁の突端から左右を見渡すと、両隣の堡塁が雪交じりの灰色の空の下でもよく見通せる。なるほど、ひとたび外部からの侵入があっても、どこからでも対応できるように仕組まれていたことが分かる。そこには、かつて大砲が備えられ、弾薬庫が置かれていたのである。 

 上空からはよく分からなかったが、要塞の周囲を取り巻くように土塁が組まれ、その土塁下の濠ふちにも盛り土がされている。土塁の高さ六メートルと資料には記されている。 また、濠の外側にも、ぐるりと巡るように長斜堤が築かれる計画があったという。

 これも計画なかばで中断したものだが、南西側に現在も残る矢尻のように三角状に張り出す半月堡。大手門を潜る前に足を踏み入れる出城風のその堡塁も、当初は、五稜の凹部にそれぞれ五カ所造られるはずであったという。 

 こうしてみると、五稜郭は未完成品であったことが分かる。完成の暁には、陣地攻防に備えて、二重、三重にも手の込んだ工夫がなされる予定であったのである。

 が、結局、それは果たされなかった。 

       * * *

 五稜郭の築造が始まった安政という年は、ペリーの再来日によって開国が決まり、幕府が日米和親条約の締結に踏み切った年である。同じ年、ロシア、英国とも和親条約が結ばれ、その結果、下田、長崎、箱館の開港が約束される。

 このことで、幕府は、一層海防の強化に迫られることになる。特に幕府は蝦夷地の防備を重視、五稜郭の築造もそうした流れのなかで発意されたものであった。

 この五稜郭が完成する一年前の文久三年(1863)には、すでに海防の目的で、今の函館ドック辺りに弁天台場が造られ、国産の大砲を備えた砲台が出現している。この台場は安政三年(1856)に着工、七年かかって完成したものだ。

 一方、五稜郭の工事は安政四年(1857)の春にはじめられるが、元治元年(1864)には予算不足のため中断する。計画の五分一段階での終了であった。

 そもそも、弁天台場と五稜郭の築造はセットで計画され、工事が行われたものだった。弁天台場に対して、五稜郭が奥の台場と呼ばれたのもそれを裏付けている。

 その弁天台場も五稜郭も設計、監督者は竹田斐三郎という人物であった。

 彼は伊予大洲の出身の洋式軍学者で、大坂にあった緒方洪庵の適塾に入門。その後、江戸に出て、佐久間象山の弟子になる。

 その彼が、ひよんなことで、当時箱館にあった箱館奉行支配の学問所・諸術調所の教授になった。そこで彼は蘭、英、露語をはじめ、航海術、測量術、築城術などを教えることになる。

 自由な気風にあふれた学問所にはたくさんの俊才が集まったという。

 生来、器用なところがあり、なんでもつくってしまうという異才を発揮していた竹田に、ある日、奉行所から特命が下った。それが溶鉱炉の建造であり、台場砲台、五稜郭の築造であった。

 実際、工事が始まってからの竹田の苦労は大変なものであったらしい。

 机上プランは、幾度か現場の状況によって変更を余儀なくされ、そのため予定外の出費がかさなることになった。

 五稜郭の工事は日に六千人もの労役人を使役して行われたといわれている。広く全国各地から人夫の募集がなされたが、それだけでは追いつかず、付近の農民までが労働に駆り出されることになった。

 このため大量の人が五稜郭周辺に人が集まり、にわかの町ができて賑わったという。安政六年には、先の条約に従って、箱館が貿易港として開港したこともあって、さらに人口が急増したのである。 

      * * *

 海防強化の目的で造られた五稜郭が、後年、榎本武揚ら幕府脱走軍の立て籠もる砦になったのは皮肉なことである。 

 ところで、その榎本脱走軍は、どのような経緯で五稜郭に拠ったのだろうか。

 慶応四年(1868)八月、幕府海軍副総裁、榎本武揚率いる八隻の軍艦、輸送船が、江戸湾を脱出した。そこには新政府に不満な旧幕府の武士たちが乗り込んでいた。

 この艦隊のなかに、八年前の万延元年、勝海舟、福沢諭吉らが遣米使節団に随行した際に乗船した咸臨丸がまじっていた。咸臨丸はその後、銚子沖で座礁してしまい、箱館には行けなかったのだが。 

 艦隊の船上にあったのは武士ばかりではなかった。町人や農民までもまじっていた。彼らはいまやフランス式歩兵大隊の兵士の一員であった。それに上野の戦争に敗れ、逃れてきた彰義隊士や土方歳三をはじめとする新撰組の残党もいた。  

 当時、その艦隊がいずこに向かうか誰も知らなかった。北へ進んだ艦隊は、仙台湾に現れたりしたが、間もなく、北海道の南、噴火湾内森町付近の鷲ノ木沖にその姿を現したのである。

 そこは箱館のはるか北方に位置する場所であった。直接、箱館に行かず、鷲ノ木に上陸したのは、外国船が出入りする箱館湾で一戦を交えた際の、周辺の迷惑を考えてのことだった、といわれている。

 すでに明治と改元された、同じ年の旧暦十月二十日(現在の十一月)のことである。 彼らは鷲ノ木に上陸するや、雪の舞う中を、二手にわかれ、一隊は本道の森-峠下の内陸コースを、他の一隊は森-川汲の間道をたどって、一路、箱館郊外にある五稜郭を目指したのである。

 彼らは以前から、箱館に五稜郭という要塞があり、そこを根城にすることが、戦略上有利であることを知っていた。

 そのことをいちばん知りぬいていたのは、総督の榎本本人であった。彼は、若かりし頃そこを訪ねたことがあった。わずかながら土地勘もあった。

 五稜郭に入城するにあたって、そこは無人の地であったのではなかった。すでに、新政府は、そこに知事府を置いていた。それを排除しての入城となった。 

 庁舎は平屋建ての入母屋造りで、屋根の中央に太鼓やぐらが乗っていた。その太鼓やぐらからは、起床、点呼、食事、就寝を告げるラッパの音が響きわたった。庁舎の広間は会議室として使われ、そこでは連日軍議が開かれた。

 五稜郭に地歩を固めてからの旧幕榎本軍は、そこを根城にして、ある時は、江差、松前方面へ進撃。また、ある時は、海陸両方面から攻勢をかけるという巧みな作戦でしだいに軍事的勝利を収めていく。

 こうして、籠城というよりも、五稜郭を出陣基地として、彼らは周辺に勢力を拡大していった。

 そして、その年の十二月十五日、晴れて蝦夷全島平定祝賀会なるものが開かれる。これは事実上の、蝦夷政府の宣言であった。

 新政府が、彼ら旧幕脱走兵に追っ手を差し向けるには、多少の時間が必要だった。

 新政府が、幕府脱走軍追討の行動を開始したのは、翌年の明治二年三月。追討軍はアメリカから買い入れた新鋭軍艦「甲鉄」を先頭に箱館を目指したのである。

 政府軍艦隊はやがて青森に集結、そこから津軽海峡を越えて、渡島半島の西部、乙部に上陸する。四月九日のことだ。

 政府軍は上陸するや、ただちに内陸部に侵入した。そこは、さしもの脱走軍も防備を固めていない場所であった。

 官軍の艦隊は乙部に一部の軍勢を上陸させた後、その足で南下。江差を砲撃したあと、松前、木古内、矢不来と進み、じわじわと箱館に迫り、脱走軍を追い込んでいった。

 そして、五月十一日、ついに五稜郭総攻撃の火ぶたが切って落とされる。

 政府軍はまず、軍艦による艦砲射撃を開始。その後、箱館山に三門の大砲を引き上げ、陸から砲撃を仕掛けた。

 大砲の狙いは正確であった。地面に張りつくように造られた要塞にではあったが、庁舎の屋根に取り付けられた太鼓やぐらが目標になっているらしかった。

 この攻撃により、弁天台砲台は陥落、五稜郭も甚大な被害をこうむった。前衛基地である千代ケ岱砦は白兵戦のうえ多数の戦死者を出し崩れ去った。

 この間、新撰組の副長であった土方歳三(34歳)が、官軍に占拠された箱館市内を奪い返すために出撃し、一本木の関門付近で戦死している。

 一方、箱館湾で敵を迎え撃つべく待機していた旧幕軍の生き残り艦隊の回天、蟠竜、千代田形もことごとく官軍の手に落ちていった。 が、この戦闘のなかで幾度か出された降伏勧告にもかかわらず、五稜郭は抵抗しつづけたのである。

 次第に籠城軍は補給路を断たれ、戦闘力を失っていった。逃亡者もあとを断たなかった。そうしたなか、五月一七日、本営内では最後の軍議が開かれた。結論は、涙をのんで降伏するというものであった。結果はすでに見えていたのである。

 その夜、官軍から差し入れられた酒樽が開かれ、苦い酒を口にしながら、士官、兵士たちは最後の夜を過ごした。   

 明治二年五月十八日朝、郭内の広場に、改めて全員が集められた。榎本はそこで「五稜郭は降伏する」むねの挨拶をした。

 榎本はその後、幹部三人を連れ、郭内を出た。正式に降伏の申し出をするためであった。官軍は彼らを丁重に扱い、そののちいずこにか連行していった。そして、あとに残された六百人近くの士官や兵士たちは、郭内を清掃し、武器を一カ所に集めてから、全員要塞を出た。彼らはその後、青森まで護送され、そこで全員が釈放された。

 ここに明治維新の動乱は終結をみたのである。それとともに、榎本が夢見たエゾ共和国の建設も潰え去るのである。

      * * *

 その後の五稜郭について語ろう。

 明治五年、榎本軍が本営として使っていた庁舎が取り壊される。これは廃城令に基づいての措置であった。そして、その一部は、解体された後、しばらく函館市の役所の建物として使われていたという。

 現在、郭内に残る当時のものとしては寒冷地に強いということで植えられた赤松の林と古井戸と糧秣庫がある。

 糧秣庫は、明治の後年、兵舎として使われた後、無人の建物として残り、あたりは雑草が生い繁る、まさに廃墟の状態であったという。

 それもいまは廃墟のなかから五稜郭公園としてよみがえり、緑が目に映える季節になると、市民の格好の憩いの場所になる。

 年移り、人替わり、五稜郭の過去の記憶が遠のくなかで、そこに残る歴史の痕跡をたどれば、ありし日のできごとが改めて彷彿としてくるのである。






吉展ちゃん誘拐殺人事件-破綻した出稼ぎ人の行跡-

2009-07-09 00:15:25 | 歴史
営利誘拐という犯罪は明治、大正の時代には起きなかった犯罪であった。この種の犯罪は明らかに都市化という現象のなかで起こる犯罪の典型といえた。
 昭和二十一年の八月の敗戦まぎわのどさくさのさなかに起きた住友家の令嬢誘拐事件、昭和三十年七月のコメディアン、トニー谷の長男誘拐事件、同三五年五月の東京銀座天地堂カバン店の社長令息誘拐事件と、戦後の一時期、はやりのように誘拐事件が起きた。
 吉展ちゃん誘拐事件も、これら一連の誘拐事件のひとつと位置づけられる事件であった。当時、世間では、またも起きた誘拐事件と受けとめ、憂慮したのである。
 この誘拐事件が今までのものとはちがっていたのは誘拐された子供が下町のごくふつうの家庭の子弟であることで、私などにも、ひどく身辺に感じられた誘拐事件であった。
                * * *
 行方不明になっている子供の捜索要請が下谷警察署から警視庁捜査一課に出されたのは、昭和三八年四月一日、午後二時三十分のことである。
 前日から行方不明になっている四歳の幼児の名は村越吉展ちゃん(4歳)といった。吉展ちゃんは夕食前のいっときを公園で遊んでくると言って家を出たまま行方不明になっていた。
 その公園は、村越家のすぐ西側にある台東区立入谷南公園といい、先の戦争で空襲にあい、焦土と化したこの地区にできた空き地が公園になったものである。
 一帯は零細の製造業や卸業者が集まる典型的な下町の住宅密集地で、公園はそうした密集地につくられたオアシス的な空間であった。 
 村越家もそうした住宅街の一角(台東区松ケ谷三丁目)にあった。工務店を営み、吉展ちゃんの両親、その親夫婦、吉展ちゃんの妹からなる、ごくふつうの家庭であった。
 当初、吉展ちゃんは迷子として捜索された。が、この警察の方針にはじめから疑問をもっていたのは吉展ちゃんの父親であった。父親はこれは誘拐事件であると確信していた。名前や住所を言える息子が迷子になるとはとうてい思えなかったのである。 
 それを裏付けるかのように、吉展ちゃんといっしょに、水鉄砲で遊んでいた隣家の子供の証言が出てきた。知らないおじさんが吉展ちゃんに声をかけていたというのだ。 
 警察の捜査が思うように進まないなか、早くも村越家に犯人と思われる男から身代金五十万円を要求する脅迫電話がかかってきた。その声は押し殺したような中年の声で、強い東北訛りがあった。
 声の主は、五十万円を国鉄新橋駅西口前にある場外馬券売り場にもってくるように指示した。が、日時の指定がなかった。
 この電話のあと、いくつかの電話が入っている。捜査に協力するような内容のものもあったが、明らかにいたずら電話もあった。そうしたなか、例の男から再び電話があった。
 身代金を奪う目的の誘拐はかならずカネを渡す場所が特定されるものである。犯人はそれを明らかにしない限りカネを奪うことができないからである。 
 ところが、電話の主は、指定の場所を容易に明確にしないのである。再三、家族が催促するにもかかわらず、犯人は逡巡してなかなかそれを明示しなかった。  
 場所の選定の適不適が、営利誘拐が成功するかどうかの最重要ポイントだということを知っているからなのだろう。犯人はカネを持って来る場所を考えあぐんでいる様子であった。 
 それから数日後の四月五日、下谷北署の二階に正式に特別捜査本部が設けられることになる。吉展ちゃん失踪後五日目のことである。 
 それに狙いを定めるかのように、その日の午後十時過ぎに犯人と思われる男から、今度は地下鉄日比谷線入谷駅にいるので、カネを新聞紙にくるんで持って来るよう指示があった。さらに男は、子供を確かに誘拐したことを証明するために、駅の入口に子供の靴下の片方を置いたとも告げた。子供が身につけている衣類の詳細を知っていることからみて、幾度か電話をかけてきている、東北訛りのその男が犯人であることはほぼ間違いなかった。
 捜査陣がこの電話の対応について検討しているさなか、追いかけるように電話が再び鳴った。その日の深夜のことである。さきほど予告した入谷駅はやめにするというのである。また連絡する、と言っただけで電話は切れた。 
 六回目の電話は六日の早朝であった。東京に霧がたちこめる朝だった。これからすぐに上野駅正面にある電話ボックスにカネを置けというのだ。カネが手に入ったら、一時間半後に子供をしかるべき場所で解放するとも言った。 
 にせの札束をかかえて母親が指定の電話ボックスに出向くと、そこには犯人からのメッセージは何もなかった。警戒心の強い犯人は、近くでこの様子をうかがっていたのだろう。警察の気配を感じて姿をあらわさなかったのである。
 カネを置くように指定した場所がこれで三回出たことになる。新橋を除けば、入谷駅、上野駅ともに、いずれも村越家に近い。そうなると、その辺の地理に詳しい者という犯人像が浮かぶ。
 尻尾をつかみそうでつかめない犯人に捜査陣はやきもきしていた。いたずら電話もそれを増長させた。
 そうしたなか犯人からの最後の電話がかかってきた。四月七日午前一時二五分のことである。 
 犯人が身代金を持ってくるように指示した場所は、村越家から西に直進した昭和通りのほとりにある品川自動車という会社の駐車場であった。そこは村越家から歩いて五分とかからない場所である。犯人は村越家の様子をうかがうように家の近くにあらわれたのである。捜査網が張られている場所にあえて接近する犯人の行動は大胆でもあった。が、これは危険を犯してまでカネを奪いたいという犯人のあせりを示すものでもあった。
 母親が指定の場所である駐車場に向かった。そこに駐車している車の荷台に、風呂敷包みに入れた札束を置くように、というのが犯人の指示であった。それを取り巻くように捜査官が見張ることになっていた。
 ところが、ここで大失態が生じたのである。カネは奪われ、犯人を取り逃がしたのだった。カネを置いた時刻と捜査陣が配置についた時間との間に生じた、わずか三分ほどの間隙にカネが奪われたのである。
 この失態に警察は箝口令を敷いたうえで、総勢百六十一人という大規模な捜査陣を組んで捜査に乗り出すことになった。これは警察の威信をかけての捜査体制であった。
 一方、入谷界隈を中心に吉展ちゃんの特徴を詳細した「お願い書」が配布された。が、下町人情の生きるこの地域であるにもかかわらず、目撃者はあらわれなかった。人の多く出る夕方の出来事であるのに不思議なことであった。明らかに死角を衝かれた犯行であった。        
                  * * * 
 四月一九日、捜査にゆきづまりを感じた警察は、ついに事件の公開捜査に踏み切ることになった。
 誘拐事件の公開捜査は、誘拐された人間の命の存続にかかわることにもなるので、あくまで慎重でなくてはならなかった。それをあえて踏み切ったのである。 
 その際、警察は、録音された犯人の声を放送局などの電波を通じて流したり、ソノシートを作成して関係箇所に配布したりした。捜査陣も百七十二名に増強された。
 その声を私もラジオで耳にしたことがある。ねばりつくような東北訛りの中年男の横柄な態度が見え隠れしていたような記憶がある。録音された声は、意外に鮮明だった。これならば、誰か心当たりの者がいるはずだ、と確信したものである。 
 やはりというべきか、その効果は間もなくあらわれたのである。まず、脅迫電話の声に似た男の飲み友達という人物から情報がもたらされた。ついで、男の仕事先の知人や実の弟という人からも通報があった。
 複数の情報をつなぎあわせた結果、男の名は小原保という人物であることが判明した。その男には、事件のあと、怪しい影がつきまとっていた。事件後、急にカネ回りがよくなったのもそのひとつである。しかも小原には前科があった。
 男の名が明らかにされると、報道関係者もじっとしてはいなかった。そのうちのひとりが、この小原という男がよく行きつけている荒川区にある飲食店で、その人物のインタビューに成功したのである。これで男の声やなまりが完全に収録されることになった。
 五月二十一日、小原保はその飲食店にいるところを上野署員に逮捕され、留置された。逮捕理由は代金未払いという名の別件の横領罪であった。借金の片がついていなかった一件が罪に問われたのである。幾つもの警察に届いた情報を総合して、小原があやしいとにらんだ警察がとった別件逮捕であった。
 ところが、逮捕してからの小原は、本件の誘拐罪の追及になると犯行を否認しつづけた。証拠も出ない。そうこうするうちに、六月十日の拘置延長期限がきて、小原保は不起訴処分のまま釈放されることになった。 
 身代金をすばやく奪うという機敏な行動は、不自由な足では無理である、というのが不起訴の大きな理由のひとつであった。小原は小学校四年の時、骨髄炎を患い両足が不自由になっていた。また、現場近くの公園で足の悪い容疑者を目撃した人がいないというのも理由になった。 
 さらに三十歳という小原の年齢と、脅迫電話の四十歳以上らしい声の持ち主とが一致しないこともシロと判断する理由のひとつになった。
 警察は捜査をもういちど、振り出しにもどさざるを得なくなった。そして、調査保留中の人物の総点検をすることした。が、そこで再びあらわれ出たのが小原保であった。事件から二年が経過していた。
 警察は小原の関係者をあらためて洗い直すことにした。
 小原が再逮捕されたのは、師走に入った十二月五日のことである。罪名は窃盗容疑であった。 
 警視庁に身柄を移された小原は、再び厳しい取り調べに晒された。調べの中心は小原が犯行直後持っていたというカネの出所であった。だが、この時も、小原はカネの出所についてのらりくらりとはぐらかしては言い逃れた。 
 小原が窃盗罪で前橋刑務所に送られたのは、それからしばらくしてからのことだった。が、翌年の五月一七日には、ふたたび吉展ちゃん誘拐容疑の取り調べのために東京拘置所に移されることになる。警察はこの時、捜査陣の一新を計っていた。新しく事件を担当することになったのは、〃落としの八兵衛〃の異名をとる平塚八兵衛部長刑事であった。彼は帝銀事件でも辣腕をふるった刑事として定評があった。
 東京拘置所に移された小原は、十日間という期限つきで任意の取り調べを受けた。六月二十三日からはじまった取り調べは、執拗につづけられ、さしもの小原も憔悴の態であったという。
 そして、期限切れの七月二日の翌日の夕刻、平塚刑事の鋭い詰問に窮して、ついに小原は誘拐殺人を自白したのであった。
 小原の自供によって、吉展ちゃんの遺体が、南千住にある円通寺の境内に埋められているということも判明した。
                     * * *
 この事件が起きた昭和三十年代後半は、ちょうど日本の経済が高度成長下にある時期であった。戦後の食うや食わずの生活からようやく脱して、庶民の生活にも豊かさの明かりが灯りはじめた時期であった。
 一方で、日本経済の活況は、農村からの出稼ぎ労働者を大量につくり出すことにもなった。この事件の主役、小原保もまたそういう出稼ぎ人のひとりであった。
 福島県石川郡石川町の山村に生まれた小原は、十一人兄弟の十番めの子供として育っている。その小原が東京にはじめて出てきたのは昭和三五年のこと。職業訓練所で得た技術を利用して、上野の時計店に就職している。 
 上京者として東京の片隅で働く小原の生活は決して楽ではなかった。そこで手をつけたのが時計のブローカーだった。が、それも思うようにゆかず、結局借金だけをかかえることになった。追いうちをかけるように、時計店をクビになる。雇い主に隠れてやっていたブローカー業が露見しての解雇であった。 
 小原が入谷南公園で水鉄砲で遊んでいた村越吉展ちゃんを誘拐するのは、いよいよ借金で首が回らなくなった昭和三八年の三月三十一日のことである。
 東北からの出稼ぎ人として、故郷との絆を断ち切られ、なおかつ、東京の下町に吹きだまった、ひとりの孤独な男の行跡が見えてくるようである。