風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

山の民の反乱・秩父事件

2008-11-23 11:42:48 | 歴史
秩父は山深い地である。いまでこそ、その深い山をぬって、舗装された山道が通じているが、その出来事が起きた時代には、どれほどか辺鄙な山峽であったことか想像される。 
地図を広げて見ると、秩父という地が荒川によって引き裂かれ、東西に分断されている盆地状の地域であることが分かる。その荒川は、山梨、埼玉、長野三県の分水嶺にあたる甲武信岳に源を発して東に流れ、さらに北流して、この盆地を貫いている。
 地元では、荒川を挟んで東側を東谷、西側を西谷(にしやつ)と呼ぶ。なかでも、西谷と呼ばれる地は、西方向に奥行きが深く、そこには大小の河川が山峽をぬうように流れて、荒川に注いでいる。
 集落は、それら河川のつくる沢に沿って点々と連なっている。それらは山道をぬい、峠を越え、よもやこのようなところにと思われる山の急斜面や、谷の底にうずくまるように、突然、その姿を現すことがある。
 集落はどれも家数が少ない。それは十戸、二十戸の規模である。家々の前に広がる、わずかな空間に耕地がつくられ、互いの耕地を結びつける私道が行き交っている。せこ道と呼ばれるこの私道が、唯一、村人たちの交流の回路になっている。
 秩父は東西南北、山に囲まれていると言っていい。それがこの地を外界からへだてることになったと同時に、秩父という独特の風土を形づくったと言える。
       * * *
 その出来事の真相を明らかにするためには、明治十七年という遠い過去にさかのぼらなければならない。 
 当時、日本全国にはデフレの波が押し寄せていた。時の政府が明治一四年以来おこなっていた緊縮政策による結果である。政府が断行していた不換紙幣の整理と軍備拡張のための増税は、金融閉塞という名の金づまりをきたし、国民を苦しめていた。
 養蚕による生糸の生産地として繁栄してきた秩父も例外ではなかった。
 この頃の秩父の農民の主業は養蚕で、農耕山林の仕事はむしろ副業であった。いわば、彼らは小商品生産者的農民であったといえる。 
ところが、その生産物である生糸の大暴落で、彼らは一様に高利貸からの借金がかさみ、ある者は一家逃散、ある者は自らの命を断つという仕方で、借金地獄から逃れようとする者が続出した。事態は悪化の一途をたどっていた。身代限りという名の生活破産が蔓延した。それは、昔からの生活基盤である共同体の崩壊を予感させた。
 こうしたなか、高利貸たちだけが豊かさを享受していた。彼らは狡猾に農民に対した。 
借金の累積に苦しむ農民には苛酷に、一方で役所や警察にはあらかじめ手を打つことで抱き込み、不当な借金の実態を隠蔽した。当然のことながら農民の生活は逼迫していった。 
が、農民たちも耐え忍んでばかりいたのではなかった。山村共同体の崩壊を目の前にして、危機感は募り、彼らは自らを守るために組織づくりをはじめた。困民党の成立である。 
やがてその組織は、急速にひろがっていった。組織づくりは山峽を縫い、耕地を駆け巡り、集落から集落へ隠密裡に何カ月にもわたって積み重ねられていった。
 組織づくりの活動は容易ではなかった。困窮の極限にあってもなお現状に甘んじようとする農民を説得し、組織化するのは、まさに石に穴をうがつ努力に等しかった。
 が、ついに、彼らの努力が成果を結ぶ時がくる。山林集会と呼ばれる農民たちの集まりが、警察の目を逃れ、深い山林の中で幾度も行われるようになる。
 そうこうしている間にも、農民たちの生活はますます困窮化していった。今まで進めてきた金貸しとの話し合いによる交渉ではなにも解決しないことを、彼らは次第に悟っていった。
 状況が切迫するなかで、一般農民がリーダーたちを突き上げていく。もはや直接行動に出るしかないというのが彼ら一般農民の考えであった。山は燃えていた。
         * * *
 ついに、明治一七年十一月一日が決起の日と定められた。そして、その日がやってくる。 
晴れ渡った秋空が広がるその日の昼過ぎから夕刻にかけて、どの山峽の集落からも続々と農民たちが下吉田村の椋神社目指して動きはじめた。椋神社は阿熊渓谷を東にみる森につつまれた高台にある。
 その数およそ三千名。いずれの農民も白襷、白鉢巻姿で、各々刀や火繩銃、竹槍を手にしていた。椋神社は秩父神社とともに秩父盆地を代表する神社である。
 黒々とした杉の木立にまざって、見事に紅葉した大きな銀杏の木々が立ち並ぶ境内には秋の気配が濃く漂っていた。
 神社のまわりに広がる田の畦道につくられた稲架には、取り込みの遅れた黄金色した稲の束が並べられていた。あるいは、迫り来る冬にそなえて麦まきのさなかであった。 
 そんな矢先であった。武装した農民たちが下吉田村にある椋神社に参集したのである。 
日が落ちると共に、武装農民の黒い塊りが境内にあふれた。十四夜の月が煌々と中天に輝やく夜の神社。今、その神社の拝殿前にひとりの黒い男の影が浮かびあがっている。
 それは総理にかつぎ上げられた田代栄助の小太りのずんぐりとした黒い影である。彼は大宮郷に住む信望の厚い博徒の貸元であった。 
まず、田代が困民軍の役割を発表。つづいて、参謀長の菊池貫平が高らかに軍律五カ条を読みあげた。菊池は秩父の峠を越えて、はるばる信州から馳せ参じた代言人をなりわいとする男である。 
 午後八時、鬨の声と共に、甲乙二隊に分かれた軍団は、竹ぼらを吹き鳴らし、それぞれが小鹿野を目指して出発した。
 部隊は、鉄砲隊、竹槍隊、帯剣隊とからなる二列の長い縦隊をなして進んで行った。その規模といい、規律のとれたさまといい、それは百姓一揆とはいえない、まさしくひとつの意志をもった農民の軍団であった。 
 甲大隊の隊長は新井周三郎といった。彼は小学校の若き教師である。甲隊千五百名ほどの農民は吉田川をさかのぼり、巣掛峠を越えて小鹿野の町を西から急襲した。
 一方、乙大隊はこれまた教員の隊長飯塚森蔵の指揮のもと、椋神社をそのまま南に下り、下小鹿野に出、東から小鹿野町に入った。小鹿野の町を東西から挟撃する作戦であった。 
小鹿野の町は街道筋に細長く延びる古い町で、町を背に低い山並みが連なっている。その山影が黒々と夜空を画し、町を一層暗くしていた。
 当時、小鹿野町は大宮郷に次いで大きな町であった。商家も多く、西秩父の農村を後背地に控えて、高利貸が集まっていた。
 困民軍が小鹿野を襲ったのは、そこに彼らが仇敵とする高利貸がいたからである。怒涛の勢いで町に入った農民軍は高利貸の家を打ち壊し、火を放った。が、そこには規律というものがあった。
 農民軍団は、その夜、町の北はずれにある木立に包まれた諏訪神社(現小鹿神社)に参集し、近在の農家に炊き出しを命じて露営した。 
 町は不気味に静まりかえった夜を迎えた。 翌二日早暁、困民軍は隊列を組みながら黒い塊りとなって諏訪神社を出立。隊伍の先頭には「新政厚徳」の大旗がひるがえっていた。 
目指すは郡都大宮郷である。鉄砲隊を先頭に、三千を越す農民軍は、長い隊列を組んで町の東方面に通じる街道を進む。進むうちに数が増えてゆく。
 やがて軍団は小鹿野原と呼ばれる桑畠の広がる地に出る。その畠道をぬい、やがて赤平川を渡る。そこからは、ややゆるい登りとなり、それを登りつめると小鹿坂峠に出る。
 時に午前十一時。峠からは、目の前に武甲山の無骨な山容が立ちはだかるのが望めた。眼下には秋の陽を溶かして、荒川がのどかに流れているのが見え隠れする。
 その対岸には、黒い塊りとなった大宮郷の家並みが南北に細長く望める。農民たちの胸の内には、万感の思いがあふれていた。
 それは、今ようやく、自分たちの苦しみが何がしか解き放たれるのだ、という思いであった。新しい世界をこれから自分たちでつくってゆくのだ、という希望に膨らんだ思いでもあった。
 峠を少し降りたところに秩父札所二十三番の音楽寺がある。黒い軍団はそこにも群がっていた。
 一瞬、皆が厳粛な気分に満たされている、その時であった。音楽寺の鐘が力をこめて打ち鳴らされた。
 それはあらかじめ申し合わせておいた大宮郷へ突入するための合図であった。鐘の音は高らかに、響きのある音色を、澄みわたった大気のなかに溶けこませながら流れてゆく。 
期せずして、勝鬨の声があがる。誰の胸の内にもはち切れる怒りがこみ上げてきていた。 歓声と共に、農民軍は、音楽寺から荒川に下るつづら折りの狭い山道をいっせいに駆け降りて行く。
 秋色濃い荒川の河川敷きが目の前に広がる。誰もが一気に川を渡るつもりでいた。荒川の水嵩が、人が歩いて渡れるくらいになっていることを、彼らは先刻承知していたのである。 
この時、彼ら農民軍の数は、駆け出しと呼ばれる強制参加の呼びかけの結果、五千という規模に膨らんでいた。この蜂起にあたって、駆け出しという伝統的な手法が使われたことには意味があった。それは共同体を守り抜くための、いわば暗黙の共同体規制であったのである。
 われ先にと川を渡って行く農民軍の塊りは、こうして郡都大宮郷になだれ込んで行ったのである。
     * * *
 農民軍が大宮郷に入った時、郡の権力機関はすでに事の成り行きを察知して姿をくらましてしまっていた。
 この事態は農民軍の予期せぬことであった。警察をはじめとする権力側の抵抗に遭うであろうことをみな予測していたのである。
 が、実際はそうならなかった。農民たちの気持ちには少し調子抜けの感があったにちがいない。
 それでも、彼らは事前の打ち合わせどおりに、郡役所、警察署、裁判所、監獄、そして高利貸を次々と急襲していった。総指揮をとったのは副総理の加藤織平であった。
 猟銃が放たれるのを合図に、攻撃目標への乱入が始まる。書類が引き裂かれ、投棄され、その一部に火がつけられる。冷えきった空気に包まれた、決して広いとは言えない市中の街道筋には、至るところに紙切れが散乱し、そのさまは、あたかも吹雪が舞うようであったという。
 壊された高利貸七軒、同じく火を放たれたもの三軒。いずれも貸金証書が破棄されたことは言うまでもない。
 一方、豪家を対象に、軍用金の調達が行われた。その際、総理田代栄助名義の革命本部発行の受領書が出されている。また、刀剣の借用や炊き出しの要請も行われた。
 今や大宮の町はパニック状態であった。商家のほとんどが鎧戸を閉めてしまっていたため、町は暗さが一層きわだった。その中を怒号と歓声がどよめき、農民軍の黒い塊りがうごめいていた。
 疾風のように通り過ぎた農民軍の破壊行為が一段落すると、町は奇妙に静まりかえった。農民軍が、うっそうたる樹木に包まれた秩父神社の境内に撤退したからだ。すでに東の空がしらみはじめる頃であった。
 その後、軍団は郡役所を革命本部と定め、分営を神社近くの小学校とし、そこに屯集したのである。
 明けて十一月三日。その日は天朝節の日であった。一夜去って困民軍は、ここで急速に、その目標を失うことになる。昨夜来の騒ぎがまるで嘘のように、軍団全体の動きが鈍くなっていた。
 その頃、憲兵隊と警察の一団が群馬県側から西谷の奥にある城峰山に進出し、早晩、大宮郷に向かうだろうという情報が困民軍の本営にもたらされた。
 軍団は、それを迎え撃つために総勢を三隊に分けることに決定。甲隊は西からの襲撃に備え荒川の竹の鼻渡しを、乙隊は北からの攻撃に対して大野原を、そして、丙隊は大宮郷にとどまることになった。
 その頃、しきりに虚報が飛び交っていた。それら虚報に躍らされて、軍団は統率を乱しはじめていた。当初の決定に反して、甲隊は小鹿野から下吉田方面へ、乙隊は大野原からさらに北上して皆野へ進む。 
こうした動きのなかで、激しい戦闘も行われている。ひとつは、甲隊の別動隊五〇〇名が、城峰山のふもとにある矢納村で、群馬方面からやってきた警官隊と衝突、警察側に大きな損害を与えた。
 さらに、皆野に進んだ乙隊は、憲兵隊と荒川の親鼻の渡し付近で戦闘をくりひろげ、優勢に戦いを進めた。憲兵隊はこの時、最新式の村田銃を使用している。
 四日に入り、警察、憲兵隊、東京鎮台一中隊の守備態勢は一段と強化された。秩父に至るすべての街道が封鎖されたのである。
 大宮郷にとどまっていた丙隊のほとんどが皆野にいる乙隊に合流した今、大宮郷はもぬけの殻になっていた。町内では青年層が赤鉢巻きで武装し、困民軍を迎え撃つために自衛隊が組織されていた。しばしの無政の郷は、はかなく消え去ったのである。
 時を同じくして、大宮郷に警察と軍隊が迫っていた。荒川の両岸を大宮郷をめざした各一個小隊の東京憲兵隊は、皆野を通り、大宮郷に入った。十一月五日のことである。
 すでにこの時、皆野に布陣していた困民軍の本営は解体し、田代栄助らの幹部は、いずこともなく姿をくらましていたのである。
 この本隊の解体のあと、秩父郡に隣接する児玉郡の金屋に進出した大野苗吉に率いられた一隊があった。彼らは東京鎮台兵との激しい戦いのあと壊滅した。
 一方、信州から参加した菊池貫平に率いられ、信州へ転戦した一隊があった。彼らは神流川沿いの群馬県側の山中谷をぬけ、佐久の東馬流まで転戦し、そこで力尽き壊滅した。今そこには、「秩父暴動戦死者之墓」と記された立派な碑が建てられている。  
 警察は、十一月五日、早くも事件参加者の逮捕を開始している。大宮郷、小鹿野、熊谷、八幡山に暴徒糾問所が設けられ取り調べがはじまった。
 その結果、埼玉県内の逮捕者三三八六名という数にのぼった。内訳は重罪二九六名、軽罪四四八名、罰金二千六四二名というものであった。重罪中には、死刑七名を含む、行方知れずの者もいたのである。
      * * *
 事件は終息し、秩父の山峽に、一見、もとの静かさが戻ったかのようであった。
 が、事件後、半年たった明治一八年六月二日付けの「東京日々新聞」は、秩父の現状を以下のようになまなましく伝えていたのである。
 「大小の別なく、人家は皆食物に窮し、特に中等以下の人民の惨状は実に目も当てられず・・・。大抵右の貧民は小麦のフスマ或は葛の根を以て常食とし、死馬死犬のある時は悉く秣場(まぐさば)に持ち往きて皮を剥ぎ、其肉を食ふを最上とす」 
生活の困窮の果てに蜂起した秩父の農民の意思は、強大な権力の前に空しく潰えたのであるが、事件後、彼らの窮状は、さらに苛烈をきわめ、農民たちの頭上に重くのしかかってきていたのである。
 それでもなお、蜂起に参加した秩父の農民たちは、幾重にも連なる山々の峰を日々見つめながら生活するしか手だてはなかったのである。そこで生をうけ、育った者にとって、秩父は決して捨て去ることのできない場所であった。


栃本の里

2008-11-17 19:28:45 | 歴史
山里の原風景といったものがあるとすれば、そのひとつに秩父山塊の奥に位置する栃本をあげることができそうである。

栃本は、中山道と甲州路を結ぶ脇街道--旧秩父甲州往還のほとりにある。現在の地番でいうと、秩父郡大滝村大字大滝字栃本となる。 

そこは白泰山から東に重々と連なる山稜の南斜面にあり、村の南側は深く切れ込んだ荒川がV字谷をなしている。かつてそこは、宿場もあり、関所のある場所として重要な役割を果たしてきたところであった。最盛期、栃本の賑わいはどれほどのものだったのだろうか。旅人が行きかう街道は、つねに活気に満ちあふれていたのだろう。それが、今は、山深く分け入った奥所にある、ひっそりと息づく山村に変わり果てている。

満々とした秩父湖の水面を左手に眺めながら、さらに行くこと数キロ、前方の街道沿いに、肩を寄せ合うように建ち並ぶ低い家並みが見えくる。栃本の集落である。

今でこそ、屋根はトタンで葺かれ、そこらにある民家とさほど変わらぬ造りになっているが、かつては、栗の柾目板を葺いた屋根であった。それでも、内部に入ると昔のままの造りの家もあるという。歴史的には、これらの民家は、秩父甲州往還の宿場の旅籠として使われてきたものであった。それが、今の世の要請に答えて、山里の民宿としてよみがえっている。

それにしても、初めてこの地に足を踏み入れた時の印象は鮮明であった。尾根側から谷に向かって、急激に崩れ落ちるような地形。それを目にした時、私は軽いめまいのようなものに襲われたものである。

その体験は、ちょうど、傾きながら滑空する飛行機の窓から外界を眺めた時と似ていた。視線がぐんぐんと斜面を転がり落ち、左手の荒川の谷底に吸い込まれてゆくのであった。 やはりこの地は山深いのである。こんな辺鄙な場所で生活するには、いろいろと不便がともなうことだろうし、苦労もあることだろう。今は村営のバスが山ふもとの三峰口から出ているとはいえ、不便さは一向に解決していないのである。

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旧秩父甲州往還は、その名が示すように、中山道の熊谷宿から、寄居、秩父、大滝村とたどり、雁坂峠を越えて甲州へと通じる街道であった。 とりわけ、秩父の山中に入ってからの、栃本~雁坂峠間の四里四丁の険阻な道は難所とされ、旅人は大いに難儀したという。 この街道、じつは栃本を通り過ぎたところで、二手に分かれる。左すると、前記の雁坂峠越えの甲州路であり、右すると、十文字峠を越えて信州側に抜けることができた。

いずれの道をめざす旅人も、とりあえず栃本で旅装を解き、そこで一泊したあと、甲州あるいは信州に旅立ったのである。

そもそもこの街道が開発されたのは、戦国の世の武田信玄の時代である。信玄は、このルートを甲州と武蔵を結ぶ最短距離の道として着目し、軍用道として街道の一層の整備に力を注いだ。以来、秩父甲州往還は、武州、上州、甲斐、駿河を結ぶ重要路になったのである。

この往還道は、江戸時代になってからも、文物の交流ルートとしてだけではなく、三峰詣、善行寺詣、身延山詣、秩父札所めぐりなどの庶民の巡礼道として栄えた。

さらに、明治になってからは、生糸が交易の中心になったこともあり、繭を扱う商人の行き来がさかんになった。秩父でとれた繭は、山梨県側の川浦に運ばれ、そこから、塩山に送られたという。そして、帰りは、馬の背に米が積まれたのである。

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ところで、この栃本に関所が設けられたのはいつ頃のことなのだろうか。記録によれば、竹田信玄が勢力を張っていた天文年間から永禄年間の頃であるとされている。永禄12年には、信玄が小田原北条を攻めるためにこの街道を使って秩父に侵入している。 

時代は下って、江戸幕府が開かれたのちの慶長19年になって、関東代官頭の伊奈氏がこの関所を整備。それ以来、関所は、幕藩体制の防備の拠点という重要な役割をになうことになる。

幕府がここに、代々世襲の関守を常駐させ、つねに厳重な警備を怠らなかったというのも、そうした役割に重きをおいたためであった。栃本の関所が、中山道の松井田の関、東海道の箱根の関とともに、関東三関のひとつに数えあげられたのも、こうした位置づけがあったからこそである。実際、この関所の関守として、代々この職務を世襲したのは大村氏といった。大村氏は明治二年にここが廃止になるまで、十代、二百五十年という長い間にわたって世襲している。

当時の関所のあらましは、東西に関門を置き、街道の両側に木柵と板矢来を配するといったものものしいもので、関所は大村氏の家宅もかねていたのである。

現在見る建物は、天保15年(文政6年焼失後再建)の建築で、外観は木造平屋建て、切妻造り、瓦葺き、間口約13メートル、奥行9メートルという規模で、一見するとふつうの民家風の造りである。が、内部をのぞくと、東妻側に、番士が座る十畳の上段の間の張り出しがあり、西寄りには、板敷き玄関、それにつづく十畳の玄関の間がしつらえてあり、この建物が関守屋敷であることを改めて知らされる。

関所には三道具、十手、捕縄が常備されていたといわれ、通行手形をもたない違法な旅人はすぐに捕らえられたのである。 

この関所の往来が許可されたのは、明け六つから暮れ六つの間であったといい、江戸初期の寛永二十年の記録によると、ここを一日百人をこえる通行人が行き来したという。実は、関所の置かれた大滝村の重要性は、そこが交通の要衝であったということばかりの理由ではなかった。

江戸幕府は、この地域の原生林から採れる材木に目をつけていた。原生林は御林山と呼ばれ、当時、この一帯は〃東国第一の御宝山〃と称されていたところであった。その広さは、実に東西二十里、南北四里にも及んだといい、大血川の上流地域から中津川の南西部にひろがる地域である。

幕府がここに関所を設けた本当の狙いは、この地域からの原木の盗伐を監視するのが目的であったからだと言われている。

ところで、奥秩父の原生林と呼ばれる、この地の森林相は、どんな樹木からなっているのだろうか。よく知られているものを数えあげただけでも、ブナ、ミズナラ、カバノキ、シデ、カエデ、シラビソなどその種類は多い。こうした豊富な樹木を、幕府は建築材として伐採し、その一方で、山の一部は、地元の村民に伐採権として授けられた。それは百姓稼ぎと呼ばれたもので、地元の村人たちは、この山から伐れた材木を、一定の目的に限ってなら使える権利を認められていたのである。伐採された木材は、筏師の手によって、荒川の激流を下り、江戸の町に運ばれた。

明治になって御用林は官林となるが、明治12年の取り調べ書によると、官林は七万二七八七町歩、村人の稼山が四万三六七二町歩余と記されている。意外に、稼山の持ち分が多かったことが知れる。

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それにしても、栃本の景観はそこを訪れる人に、自然の苛酷さを改めて感じさせる迫力をもっている。斜面にへばりつくように建つ民家のたたずまいといい、急峻な斜面を利用してつくられている田畑といい、こうした地形に足を踏みしめて生きなければならない、村人の日々の生活の計り知れない困難さを思う。

とはいえ、元禄3年(1690)の記録によれば、すでに村内の人口は千八百余りに達していたという。当時は、農作物といえば、田は一枚もなく、麦や粟、稗、豆類、そば、芋などがわずかに採れるだけで、あとは、幕府から与えられた御林山の一部(稼山)を村人が共同使用して、そこからの林産物や山の幸で生計を立てるといった状態であった。

そういえば、この地には、土地の人が〃さかさっぽり〃と呼ぶ、独特の耕地農法がある。傾斜の強い斜面に畑地をつくらざるを得なかった農民たちが考え出した耕法で、それは畑地を耕すのに、斜面の上から下に向かって鍬を入れてゆくという方法なのである。 

常識的には、こうした地形では、下から上に移動しなければ、身体の安定がつくれないものである。それを、逆に、上から下に移動しながら、耕作するというのである。逆さ掘りと呼ばれるゆえんである。実際、下から上に移動しながら、土を掘り返してみると、土が下方に転がり落ちて、作業にならない。それでなくとも、石ころのまざりあった、いかにも地味の悪そうな耕地である。

そこで、身体を斜面下方に向け、インガと呼ばれる八尺ほどもある柄の長い鍬を使って、土を掘り起こすという耕法を考え出したわけだ。身体の安定感を欠いたこの作業は、さぞかし、重労働であるにちがいない。第一、農作業に時間がかかる。 

そういえば、街道脇に、一本の形のいいトチの古木を見つけた。それは、若葉を陽に輝かせながら存在感ある風貌で立っていた。あたかも栃本の名の由来を語る生き証人のように、その大木はどっしりと立ち尽くしていた。まさに栃本は秩父最奥の耕地なのである。




新吉原総霊塔

2008-11-14 19:55:46 | 歴史
三ノ輪の浄閑寺といえば、またの名を、投げ込み寺で知られる寺である。投げ込み寺の由来は、遊里吉原に身を沈め、そこで不幸にも命を落とした身寄りのない遊女たち二万五千人余りを投げ込み同然の状態でその寺に埋葬したことによる。
日比谷線三ノ輪駅を降り、商店街を東に少し入ると、下町には珍しく、そこだけ濃い緑に包まれた一角がある。
 山門をくぐり、秋の日が長い影を落とす狭い境内に踏み込むと、ふいに、あたりの物音が絶え、不思議なくらいの静寂に包まれる。 投げ込み寺と知って訪れるせいか、寺に漂う雰囲気がなにやらいわくあり気である。
 浄閑寺のある地は、かつて吉原への遊客が足繁く通った日本堤の入口にあたる場所でもあった。
 日本堤と呼ばれたのは、当時、そこに音無川という小流があり、流れに沿って土堤が連なっていたためだ。吉原への遊客はその土堤を通い、あるいは、その流れに船を浮かべて吉原にやって来たのである。
 音無川はその一部を山谷堀とも呼んだ。現在も暗渠となって残り、隅田川に注いでいる。         
流れに沿って、地方橋だとか、今戸橋などの懐かしい名がそのまま残されている。  
  * * *
 かつての遊里吉原と浄閑寺が日本堤で結ばれていた因縁から、浄閑寺が、いつの頃から吉原の遊女たちの投げ込み寺となったのかは定かではない。
 が、この寺が浄土宗であったことが、ひとつの機縁であったともいえる。というのも、浄土宗は、念仏を唱えれば衆生みな救われるという教えで、当時庶民の間に大変広まった宗派であったからだ。
 浄閑寺は文字通りそれを実践していた寺であった。この寺の門をひとたびくぐれば、有縁無縁の者すべて救われる、というのがこの寺の宗旨でもあった。落命した身寄りのない遊女たちの埋葬地として、この寺が選ばれたのもごく自然のなりゆきであったかも知れない。
 その浄閑寺が創建されたのは明暦元年(1655)のこと。二年後の明暦三年正月一八日に、俗に振袖火事と呼ばれた江戸大火が起こる。そして、吉原遊郭が日本橋から浅草田圃の一角に移されたのが、その年の八月。
 以来、名前も新吉原と呼ばれるようになって江戸名所のひとつとして繁栄する。が、その繁栄は薄幸の遊女たちの身を切る犠牲の上に咲いた徒花とも言えた。
 一方、吉原の遊女たちにとって浄閑寺は、特別の意味をもつ寺となったのである。
 そもそも、江戸という町に吉原のような幕府公認の遊郭がつくられたのは、江戸の男女の人口構成が極端にバランスを欠いていたところに理由がある。
 江戸は開府以来、出稼ぎの町であった。地方から上京する働き手のほとんどは男であった。それに幕府の参勤交代制度が敷かれたこともあって、国許に妻女を残して単身赴任している武士が沢山いた。
 幕府は、こうした江戸の町の実態を憂慮して、犯罪防止のために、一定の場所に公認の郭町を造り、治安、風紀を保つことを目論んだのである。
かくして、新吉原開業から昭和三十三年四月の廃業までの三百年もの間、吉原は公認の遊郭として栄え、さまざまな文化と風俗を提供することになった。
 そして、そこに身を沈め、不幸にして命を落とした女たちが浄閑寺に葬られつづけたのである。
 もちろん、遊女のすべてが、この寺に葬むられたわけではない。ほかにもこの種の寺が吉原近辺にはあったし、多くは楼主の菩提寺に埋葬された。
 浄閑寺には、引き取り手がなかったり、身寄りのない者が埋葬されたのである。
 そのありさまが今に伝えられている。
 骸になった遊女は、大引け過ぎ、今の午前二時過ぎになると、青楼の裏口から、そっと担ぎ出された。骸は薦に包み、戸板に乗せられ、それを楼の若い衆が土手沿いに運んでいった。
浄閑寺には今もこれら遊女たちの顛末を伝える過去帳が残されているという。
 そこに記載されているのは、法名と没年、どこの妓楼の者であったか、の文字だけである。もちろん、これでは本姓も、どこの生まれの者かも、年齢さえ分からないままだ。 江戸時代、遊女は身を売ると同時に戸籍簿からもその存在を抹消されていたわけだ。     
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 永井荷風は人も知る遊里を徘徊し、遊里小説を著した作家である。荷風はその縁もあって、遊女に因んだ浄閑寺を幾度か訪れている。荷風が初めてここを訪れた時の様子が、『夜の女界』という小品の中に記されている。明治三十一、二年頃の記録だ。
 「哀れな娼婦が白骨の行衛を知らうと思ふ人あらば、哀れな娼婦が悲しき運命の最後を弔はんと欲する人あらば、乞ふ、吉原の花散る大門を出て、五十軒を過ぎ、衣紋坂を上り、土手八丁、其の堤を左へと辿り辿って行き給へよ」と、まず浄閑寺に誘っている。
 そして、浄閑寺に至る土堤八丁からの眺めを、「堤の両側すこぶる美しき田園の光景を、行く人の眼の前に広げるであらう。右手は見渡す限りの水田を隔てて、小塚原や千住の青楼が、高く低く屋根を並べて居る。此の一団の人家を越えては、所々に樹や竹藪の茂りが青々と望まれ、そして其の又、彼方には、隅田の上流を行く白い帆影が、幽かに其れとなく認められる。若し天気が通る様であったなら、無論紫の筑波山さへもが雲から見出されるのである。目を転ずる堤の左側、其処には、大分畠を埋めた新開の町に立てられた借家が居並んで居る。樹の茂りの間には高い屋根のお寺なども折々見られるであらう。上野から日暮里、道灌山へ及ぶ一帯の丘を蔽ふ森の茂り、如何にも心地よく眺められる。此の美しい景色の間を行く中に、軈屠獣場の門前に掛って血腥き風に鼻を蔽う事があるけれど、小時の中に行き過ぎれば、堤の上は、古風な並木街道になって了ふ」と描写している。
 現在と比較すると、土堤の左右の景観は隔世の感がある。土堤の右手、日本堤から千住の方向は、いまだ一面の水田風景が開けていた。墨田川の流れがゆったりと望まれた様子も知れる。一方、左手、竜泉、根岸の方面は、畑地の中に貸家らしき建物が点在する郊外地の風情であったことが分かる。
やがて歩くほどに、前方右手に高く築き上げられた汽車道が見えてくる。それは現在の常磐線の線路で、浄閑寺はその汽車道の下にあった。
「堤の右側の裾に沿うて、流れて居る溝の様な小流れ、其の上に、一ツの古雅な形をなした石橋が架けられてある。流れは寺の小笹の茂り多き垣を取巻いて、後ろの汽車道の方へと見えなくなって居る。如何にも寂びた有様を愛でながら、橋を渡り、黒い寺門に達して、仰ぎ見ると、浄閑寺と云ふ寺である事を知る」
 もちろん、現在はその小流はない。周囲は人家が密集し、寺の敷地だけが大谷石の石塀に守られ、かろうじて緑に包まれている。ただ古びた寺門は荷風が訪れた時のまま今も健在である。
「門を這入ると、例の花売る小屋がある。余り広からぬ本堂の左手から、其の裏手へ掛けて、此処が墓地、石塔や、卒塔婆が累々として並んで居る。叢の様になって居る垣の近く、又は石塔の間の其処此処には、かなりに年経た、瘤多き榎木が、幾株も立ち茂って、ふる風の来る度に物悲しい声をして、其の枝を顫はして居る。先、見当たり次第の石碑の前に屈んで、すでに能くは見分からぬ、其の彫付けた文字を見ると、柳生院花容童女之墓と云ふ様な仏名が読まれる、又は、□□楼代々の墓とか、或は男と女の名が二ツ並べて彫ってあるのも身当てられる。然し、何の石塔も二尺、三尺と計る程、高いものは無い、何れも、小さな汚いものばかりで、久しく香花を手向けられた事もないと思はれる。・・・何たる、淋しい、物恐ろしい有様なるよ。来る人は忽ち陰惨の気に打たれて、已に冷たい穴の中には這入った様な心持がする。昨日まで、緑の黒髪を黄金に飾り、雪なす肌を錦の襠裲にまとはせた、花とも蝶とも見るべき遊女の骨は、実に、此の陰気な淋しい処に横たはって居るのであった。見よ。二本ほど、大きな榎木を後にして、此処に、巍然と高く石垣を築き上げた、その上に、一個の石柱がある。新吉原無縁墓此の六字が彫り付けられてあるばかり。其の周囲には幾何の雑草の生へて居るのも見た。安政大地震の時に大供養をした太い卒塔婆が猶、腐れずに立って居るのも見た」
荷風が訪れた当時は、寺は大改修の直前であったらしい。そのためもあって、荷風も記しているように、寺の荒廃がかなり進んでいたことがうかがえる。
 また、その頃はまだ土葬であったために、墓地内は凸凹が激しく、それが一層陰惨の風を高めていたともいえる。
 そして、その墓群の中に、ひときわ高くそそり立つ遊女たちの無縁墓があった。現在は新吉原總霊塔という文字が刻まれているが、これは昭和四年に改修されたものだ。
 石塔は、蓮の形をした台座の上に乗り、それを支えるように昔のままに石垣が築かれている。
 その石垣には「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の花又花酔の句が刻まれている。
 石垣の横に小さな窓のついた扉があった。その窓から墓の内部を覗くと、氷室のような墓室に骨壷が累々と並べられている。
 思わず見てはならないものを見てしまった思いと同時に、卒然と哀れさが胸に迫ってきたのである。
 荷風はそれから四十年後、再びここを訪れている。その頃吉原を題材にした小説を書こうとしていたからである。 
「掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ鉄道線路下の道路に出るに、大谷石の塀を囲らしたる寺即これなり。門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗の色の残りたるに、三十余年むかしの記憶は忽ち呼返されたり。土手を下り小流に沿ひて歩みしむかしこの寺の門は赤く塗られたるなり。・・・今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近隣のさまは変りたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」(『断腸亭日乗』昭和12/6/12日より)
荷風も記しているように、本堂と庫裡は震災にも遭わず、その後の戦災にも無事で、ついこの間まで寛保二年(1742)以来の建物(本堂は昭和五十九年に残念ながら一部焼失する)の姿かたちを保っていた。
 が、それもさすがの老朽化には勝てなかったと見え、現在は取り壊され、新しいコンクリート造りの堂宇が建てられている。
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ところで、『断腸亭日乗』に著し、そう願った荷風の墓は、結局この浄閑寺には建てられなかった(墓は雑司ケ谷の永井家代々の墓地にある)。代わりに、浄閑寺の娼妓たちの霊を祀った総霊塔の前に、荷風散人の文学碑が立っている。
 その碑面には、「今の世のわかき人々われにな問ひそ今の世と、また来る時代の芸術を」で始まる『偏奇館吟草』の一部「震災」から抜粋した詩文が刻まれている。
 そして、その碑の左隅に、赤御影石でできた荷風の筆塚がひっそりとそえられている。それは荷風氏のせめてもの願いにそった事蹟であるかも知れない。