風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

金閣寺炎上-望郷と厭世のはざまで-

2012-03-19 19:30:44 | 歴史

 日本海に臨む一寒村から、夢と希望をいだいて都会に出て来たひとりの男が、やがて、それらをことごとく失い、破滅してゆく。
 ここにその典型とも思われるひとつの事件の記録が残る。
 昭和二五年七月二日の深夜三時少し前、京都北山にある鹿苑寺金閣が、何者かの手によって放火され焼失した。五百年以上もの歴史をへた国宝級の建築物が、一瞬にして灰と化したのである。
七月三日の『朝日新聞』は伝える。
「二日午前二時五十分ごろ京都市上京区衣笠金閣寺町臨済宗相国寺派別格地鹿苑寺(通称金閣)庭園内の国宝建造物、金閣から出火、全市の消防署から消防自動車十台が出動したが、コケラぶき、クスノキ造り南北五間半、東西七間の三層楼はすでに火炎につつまれて手のつけようがなく、初期足利時代の代表的建築と知られた国宝の三層楼は内部の古美術とともに、一時間後に全焼、境内にある夕桂亭など三十余りの他の建物は類焼をまぬがれた」と。
 世間は驚き、その犯人像に関心が集まった。ところが、警察が火元を調べていると、寺僧のひとりが行方不明になっていることが判明した。男の名は承賢、本名を林養賢と言った。 
 林の部屋を調べると布団、蚊帳、机、本箱、衣類を入れた柳行李などがなくなっている。焼失した金閣を調べていた警察は、やがて、これらの燃え殻を現場から発見。そうなると、行方不明の寺僧がますます怪しいということになり、ただちに逮捕状が出されることになった。
警察の捜索は京都市中はおろか付近の山にもおよんだ。すると一時間ほどのちの午前四時頃、寺からすぐの左大文字山と呼ばれる山中の林の中で、カルモチンを服用し、左胸から血を流し、意識が朦朧とした状態でうずくまる男を発見。男は明らかに自殺を図ったらしかったが、死にきれないでいたらしい。
 警察は男を保護し、すぐさま西陣署に連行した。ただちに取り調べをはじめると、男はあっさりと金閣寺に放火したのは自分であることを認めた。
 捕らえてみれば、放火犯はなんと金閣寺に務める承賢という寺僧であったことが知れて、またまた世間を驚かせた。何ゆえに彼は金閣寺に火をつけたのか。
 逮捕されてのち、犯人の寺僧は放火の動機について、世間を騒がせたかったからとも、社会に復讐したいためだったとも言った。男は終始興奮状態であり、薬物中毒の兆候もあった。そのため警察では、もう少し時間をかけて取り調べをすることにした。
 のちに男は「金閣があまりにも美しかったので嫉妬した」とも語っている。人間に対してではなく、一個の建築物に嫉妬するとはどういうことか、この発言の内容が不可解で、これまた世間の話題になった。
* * *
承賢こと林養賢は、京都府舞鶴市から北へ行った大浦半島の突端、成生岬と呼ばれる岬に近い寒村、戸数二十二戸ほどの成生集落の禅寺で生まれた。
 日本海の荒波が押し寄せる海岸地方は、特に冬場は厳しく、変わりやすい天候が何日もつづくといったところである。その岬に出るには、尾根伝いの杣道を辿るしかない辺鄙な地であった。
 養賢の父はその地にある西徳寺という寺の住職であり、名を道源と言った。道源がこの寺の住職になったのは大正十三年ことである。 
 生来、病弱であった父の道源は、長い修行生活に耐えられなかったために、途中でそれを切り上げざるを得なかった。その結果、この辺鄙な場所にある末寺に赴任させられたのであった。
 赴任してみたものの、道源の生活は、寝たり起きたりの病人のような毎日であったという。そんな状態で、翌年、道源は妻を迎えている。人を介して妻となった女の名は志満子と言い、二つ年下の二四歳だった。
意を決して、手荷物ひとつでこの地にやって来た志満子ではあるが、新しい生活に踏み出してみれば、夫は病身で、その看病の明け暮れであった。これでは何のために一緒になったのか分からないといった状態がつづいた。それでも妻は知り人のいない村の人たちと何とかうまくやってゆこうと努力したのであった。そんな五年が過ぎてから養賢が生まれたのである。昭和四年三月一九日のことだ。
誕生後、養賢は成生の慣習に従って、村人のどこの子供とも同じように育てられたというが、どう                したわけか三歳になる頃から吃りはじめるのである。
 そんなこともあって、養賢は幼い頃からいつも家に籠もる鬱性の少年になった。しかも、養賢は、父に似て生れつき身体が弱かった。 
 子供は残酷である。そうしたハンディを背負う子供をからかい、いじめるのが常であった。そんな暗い毎日を繰り返すうちに養賢はしだいに何かをつねに夢想するような少年になっていった。
 部屋のなかで過ごす毎日であったこともあって、父は子の養賢に小さい時から経文を読むことを教えた。いずれ息子を僧侶にしようという考えがあってのことであろう。
 そのため、かなり早い時期から、養賢は父の名代で葬式に出たりして経を読むようになるのである。しかも、経を読む時は不思議と吃らなかったという。
 もうひとつ養賢がひとりで楽しんだものに尺八があった。同じように、父の道源が教えたのだろう。この尺八は、のちのちも彼の心を慰めたらしく、留置所や刑務所に収監されている時も唯一の楽しみにしていたふしがある。
 こんな幼少期を過ごしたあと、養賢は、父の故郷でもある舞鶴市東郊の安岡という地にある叔父の家に預けられる。そこから中学に通うためであった。昭和一六年五月のことだ。
* * *
父の道源が息子を金閣寺の徒弟にしようと意思したのはいつ頃であったのだろうか。父は金閣寺の前の住職とは懇友で、京都相国寺僧堂で修行していた頃、互いに釜の飯を同じにした仲であった。そんな因縁もあって、金閣寺にはそれなりの親近感を抱いていたらしい。 
 が、現住職とは一面識もなかった。にもかかわらず、若狭の一寒村の寺の住職は、わが子を修行のために金閣寺に入れることを強く望んだ。そして、格のちがい過ぎる金閣寺の住職に、そのことを手紙で懇願したのである。 
 その願いはとうてい適えられるようなものではなかった。が、意外にもその願いが実現することになるのである。父と母の感激はたとえようもなかったにちがいない。
ところが、それが実現する前に、父道源は、長い間患っていた不治の病の結核が悪化し、昭和一七年十二月二十日にこの世を去ってしまう。
養賢が金閣寺に行くことに決まったのは、それからしばらくたった、昭和一八年三月のことである。養賢は母と連れだって、緊張したなかにも、晴れ晴れした気持ちを抱いて京都を訪れ、金閣寺に姿を現したのである。
 その日、金閣寺住職慈海ははじめて林養賢母子に会った。いろいろと世間話を交じわしたあと、慈海は、今は戦時でもあるし、得度式を済ませたあとは、中学校を卒業するまで安岡に戻り、今までどおり学校に通うことをすすめた。 
 そして、四月十日、得度式がおこなわれる。その日を期して、林養賢は僧名を天山承賢と名乗ることになるのである。そして、得度を済ませると、慈海がすすめたように、養賢は再び安岡の中学校に通うことになる。
ところが、どうしたわけか、中学を卒業する前の昭和一九年四月二日に、養賢はとつぜん金閣寺に入寺することになる。
 この間の事情について、詳らかなことは分からない。が、金閣寺住職との取り決めであった、中学卒業までは故郷で勉強すること、という約束事が反故にされたことだけは間違いがない。
 当時、金閣寺には徒弟として寄宿している者がみな故郷に帰ってしまったり、軍隊に入隊してしまっていたため、人手不足であったことも幸いしたのかも知れない。
 養賢はこうして、市中の臨済宗系の中学校に通いながら、修行生活をはじめることになった。
 その頃、徒弟として寺で起伏していたのは養賢と、預かり弟子の、教員をしていた二四歳の青年しかいなかった。あとは賄い婦と秘書のような仕事をしていた年配者だけであった。
 ほかに執事がいたが通いであった。通いの者は執事以外にも何人かいたが、戦争さなかのことであり、金閣寺といえども人手不足だったことがうかがえる。 
 昭和一六年の十二月八日にはじまった太平洋戦争は、この頃、日本にとって極めて不利な状況で推移していた。一九年六月になるとアメリカ軍はサイパン島を陥落させ、日本の上空にはB29が飛来するようになっていた。各地の都市が破壊されてゆくなかで、京都の町がいつ空襲でやられるかが心配された。古い歴史と文化財に恵まれた古都が、爆撃の対象外にされているという保証はなかった。当然のことながら、金閣寺を訪れる観光客の姿もめっきり少なくなっていた。暗澹とした戦争下にあって、人の訪れなくなった、いつ空襲で焼きつくされるかも知れない金閣寺がひとり妙に輝いていた。
そうしたなか、養賢の寺での日々の生活は規則正しく果たされていった。朝七時には寺を出て学校に向かった。授業が終わって帰ると、午後の勤めが待っていた。就寝の時間まで養賢は作務衣を身にまとって忙しく動き回る毎日を過ごした。
 だが、その頃はもはやのんびり学校に通えるような状況にはなかった。学生も勤労動員で駆り出される時代になっていた。養賢が通う学校の生徒たちも、近くの工場に勤労動員されることになった。
 そうした状況下の昭和二十年五月、養賢は突然、故郷の成生に帰っている。敗戦間近い頃である。
 これには理由があった。養賢の身体に異変が起きていたのである。勤労動員での労働でも微熱が出たりして、休む日が多かったという。父の病気が彼にも罹っていたのだ。故郷で養生するので、一時、帰省したいという理由を住職に述べている。
   * * *
昭和二十年八月一五日戦争は終わった。敗戦の報を聞いた時、養賢はひどく喜んだという。故郷の成生で過ごしていた養賢は、身体の具合が少し落ち着きをみせたこともあって、再び、金閣寺に戻っている。昭和二十一年四月のことだ。
 寺の生活に戻ってから一年後の四月、養賢は大谷大学に入学している。本人の強い希望を認めて住職が許可したことであった。金閣寺の徒弟僧がにわかに増えたのもこの頃である。
 養賢は大学に通いながら、後輩の徒弟僧の面倒を見るという、忙しくも充実した毎日を送っている。
戦争が終わり、少しずつ社会が落ち着いてくると、金閣寺を訪れる参観客の数も、以前のように増えてきていた。当然のことながら、寺の収入も増していった。それにともなって、寺の秩序もしだいに戦争前の状態に戻り、徒弟僧たちの課業が厳しく要求されるようになるのであった。  
 それと関わりがあったのだろうか。この頃養賢の大学での成績が急速に悪化している。三年次になるとクラスのなかでも最下位に落ちてしまう。成績ばかりではなかった。欠席が目立つようになった。この変化は重大である。養賢の心のなかに、何かの変化が起きていたのである。
 さらに、この心境の変化と前後して、母が成生の禅寺にいられなくなったという事態を養賢は知ることになる。母が成生を去ったのは昭和二四年十月だったが、養賢はそれを翌年になってから聞いている。
四年の新年度に入ってから、養賢は再び大学に通うようになった。住職に成績の悪化を注意され、それで気を取り直して迎えた新学期であった。が、それも五月頃までで、その後は再び休学しはじめる。
 六月になると、遊郭に登楼する金を工面するために、古物商通いをはじめたりした。金をつくり、それで登楼するという、この一連の行為は、養賢の心が急速に崩壊してゆく兆候でもあった。
この頃、養賢はすでに金閣寺を焼くための準備をはじめている。金閣寺の内部に入れるように鍵をぬいておいたり、自殺するためのカルモチン百錠を購入したりしている。
* * *
昭和二五年七月二日の深夜、午前三時少し前のことである。突然、鏡湖池のほとりに建つ金閣が紅蓮の炎をあげた。この夜はしとしとと小雨が降っていたが、火の勢いは強く、風を巻き起こしながら三層の舎利殿を包みこんでいった。
備え付けられていたはずの火災報知機は作動しなかった。故障していたのである。住職をはじめこの寺に起伏していた者たちがとび起きた時には、すでに金閣は大きな火柱をつくりながら、燃え尽きようとしていた。
逮捕されたあとの林養賢の供述が残る。
逮捕直後の第一回の取り調べの際の供述では、放火の動機について、「無意味にやりました」と述べたうえで、悪いことをしたとは思っていない、と語っている。
これが第三回の供述では、その動機について「美に対する嫉妬の考えから焼いたが、真の気持ちは表現しにくい」と変化している。 また、放火した責任は負うが、悪いことをしたとは思っていない、と第一回の供述と同じような気持ちも吐露している。
世間はこの反抗的とも思える放火僧の態度を非難した。新聞もそのような姿勢で記事を書き立てた。国宝を焼いた大罪ということもあってか、犯行から十日後の七月十三日にははやばやと起訴されている。
起訴状は「かねてより自己嫌悪の念にとらわれていたに加え、社会に対して反感の念を抱いて」と、放火の動機を断定している。
ところで、この起訴状は林養賢が供述書のなかで「美に対する嫉妬から火をつけたが、真の気持ちは表現しにくい」と述べている、その不可解とも思える心のあやについては触れていない。
取調官とのやりとりのなかで養賢は、金閣寺が観光収入で支えられている観光寺院であるために、そこが本来の修行の場所ではなくなり、住職を含めてみなが堕落していたことを非難している。そして、それに反省を促すために放火したとも述べている。
 さらに、自分が住職からしだいに疎んじられ、果ては京都の格式ある寺で出世する望みを失っていった心の幻滅についても語っている。挫折感は深かったのであろう。
 そのために、いっそのこと寺を焼いてしまえば、こうした失意や禍根を断てると短絡したのだろう。養賢のこの心の変化は、大学三年の成績が悪化してゆく時期と軌を同じにしている。
 判決は昭和二五年十二月二八日に出ている。林養賢は国宝保存違反容疑で懲役七年という刑を下されるのである。判決文は、犯行の動機について「昭和二四年頃から住職の態度が冷淡となり、且つ他の徒弟に対する態度に比し偏頗であると感じ、住職並に周囲から擯斥せられているように思い、不満と反抗の念を抱くと共に、勉学を怠ったため、他の徒弟にも劣り、住職の後継者となる望みの薄くなったことを悟り、自己の将来に絶望した」結果だと分析している。犯行の動機の真相に近い内容だろう。
 受刑中の林の様子が伝えられている。
 収監されてからの林は、模範囚として刑に服するが、ここでも人間関係に失敗している。吃音のうえに肺結核に冒された人間は、しだいに周囲から疎まれて心身ともに破壊していった。精神に異常をきたすようになるのである。 
 この間、林は、住職に幾度か懴悔の手紙を出している。手紙は自分のやった行為についてひきりに詫びているのが目立つのだが、なかで望郷の思いを募らせて「故郷西徳寺に眠れる曾て私の葬りし精霊の遺族の誰方かに一思ひにこの心臓をえぐり取られ安養の仏のふるさと成生岬の逆巻、怒涛の慈海に還源したいです。この思いに時に駆られます」と書きつけていることに注目する。
 養賢にとって、やはり最後に行き着くところは生まれ育った成生であったことがうかがえる。故郷とは母のいる場所であった。それが心を慰ませてくれる。
 逮捕されたあと、母が故郷から駆けつけたにもかかわらず、母との面会を拒んだ養賢ではあったが(その直後、母志満子は山陰本線の保津峡駅付近で列車から投身自殺している)、それはいっときの強がりであった。
 のちにたびたび母のことを語り、彼の心のなかにあった美しい故郷を思い出しているのである。
 放火事件の一週間ほど前、養賢が故郷成生にひそかに戻っていた、という目撃者の話が伝えられている。となると、それは金閣に放火しようと決めたのちの行動であるから、養賢が故郷に別れを告げに来たと理解できる。 
 立身出世の希望が断たれたのちの絶望感は、そのまま形をかえて、幻郷にまで高まった故郷を想う望郷感へと昇華していった。そして、その望郷感が強まるほどに、養賢にとって厭世的気分が色濃くなっていったのである。故郷はなによりもまして心を癒してくれる場所として映ったのである。
    * * *
養賢のその後のことを書かなければならないだろう。
 昭和三十年十月二九日、林養賢は刑期を満了する。それはちょうど金閣寺が新たに再建され、落慶法要が盛大に行われてから十一日目のことであった。だが、その時、林の身体はもはや元に回復するような状態でなかった。 病はさらに悪化し、四カ月後の昭和三十一年三月七日、午前十一時十分、宇治の病院で、ついにこの世を去ることになる。二六歳のはかない人生であった。
 墓は、父の眠る故郷の成生にではなく、少年期に過ごした安岡の地にある共同墓地に、母の墓と並んで建てられた。死後、母のもとに戻った養賢の魂魄は、けっきょくは鎮められたのであろうか。








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