風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

霊山ー 幻の山岳寺院の跡を求めて

2012-07-23 17:17:40 | 歴史
 かつて山中に堂塔伽藍が建ち並び、たくさんの信者が訪れたことがあったという霊山。そんな秘められた事実を知れば知るほど、私は霊山への興味をそそられた。
* * *
 霊山は福島市の東方、相馬市に通じる国道115号線沿いにある。福島市からの交通機関としては福島交通のバスがあるものの、そのバス便も日に数本行きかう程度で、霊山はお世辞にも便利がよいとはいえないところに位置する。
 バスは福島市の町中をぬけると、すぐにひろい田園地帯を走る。刈田の中に点在する人家、その周囲にたわわに実る柿の木が見え隠れしている。
 そうした深まりゆく秋の風景を満喫しているうちに、バスは、やがて、阿武隈川の支流である広瀬川に沿う街道を走るようになる。
 山気の濃くなった風景の中を、ある時は右に、また、ある時は左にと曲がりくねりながら、ひたすら東をめざしてゆく。
 小一時間ほどたっただろうか、前方に蛾蛾たる山並みを見るようになったところでバスを降りた。
 山にはそれぞれ雰囲気というものがある。乾いた山、湿った山、それに、樹相に関係するのだろう。色の濃い山、薄い山とさまざまな顔をもっている。
 今、私が目の前にする霊山は、先入観もあるかも知れないが、樹相の濃い、湿った、霊気に満ちた山を感じさせる。これから分け入るにふさわしい雰囲気に満ちあふれている。おのずと期待がふくらむ。
 澄みわたった秋の大気を大きく胸に吸いこんでからさっそく山道を歩きはじめる。紅葉の見頃であるにもかかわらず、平日であるためか、人影が少ないことにほっとする。 
 山はおおむね初めがきつい登りになることが多い。したがって、最初の取り付きで結構体力を消耗することになる。が、今、登ろうとする霊山にはそれがない。ゆるやかな勾配の登り道を行くほどに、しだいに山中の気配が濃くなるという具合なのである。
かつて、京都の鞍馬山を訪ねたことがある。山門をくぐり、緑濃い寺の境内に足を踏み入れた時に感じたあの時の厳粛な気分が、今、よみがえってくる。ここ霊山も同じような雰囲気がただよう山である。 
 ふいに、人声がわきあがる。見ると、白装束姿の集団がはるか前方を登ってゆく。
 子供の黄色い声がする。母親らしき女性もいる。賑やかにお喋りしながら登っている。ちいさな白装束姿がかわいらしい。
近づいて聞いてみると、ここからそれほど遠くない、ある寺の講中の集まりだという。法螺貝を手にする、身体のがっちりした、野太い声の先導者が、寺の住職らしい。歩きながら、あるいは、時折、立ち止まっては、この山の霊験あらたかなことを、いかにも僧職についている者らしい口調で講釈している。
白装束のグループにつき従うように登るほどに、やがて、断崖絶壁が見えてきた。断崖上はせまい台地になっているのだが、それが見るからに危なげに迫り出している。
 そこは天狗の相撲場とよばれる、霊山の全容を眺め渡すにふさわしい場所だった。
天狗の相撲場の由来について住職が説明をはじめる。
 「天狗が相撲を取るにしては、ずいぶんとせまい場所だなあ」と男の子のひとりがつぶやく。「だいいち危ないじゃあないの」と女の子が言う。そう言いながら、恐る恐る深い谷を眺めおろしている。
 高所恐怖症気味の私はこうした場所はおおむね敬遠である。身体が吸い込まれてゆくような脅迫感にとらわれるからだ。
 修験の山では、しばしばこうした場所は、肝を鍛える場所として使われるものだが、霊山ではこれからもこうした蛾々たる様相を呈する景観をしばしば目することになる。
 高い山でないにもかかわらず、懐が深い。あらわに剥き出した岩肌。怪異な岩峰の林立。 しかも、山域が変化に富んでいる。予期しない時に突然目の前にあらわれる奇観に驚かされることたびたびだった。その意外性には思わずあっと声を上げてしまうことがあった。 
 かつて、そこに物見の砦があったとされる甲岩とよばれる場所に立った時も、なだれ落ちるような断崖を目の前にして、私は思わず息を呑んだものだ。 
 この山が修験の山として栄えたのもこうした自然の特性の故なのだろう、と納得できるものがあった。
     * * *
 じつは、修験の山としての霊山には、もうひとつ別の顔がある。それは、この地に城塞があった、という話である。
 伝えられる古文書によれば、建武四年(1337)一月、陸奥の国司であった北畠顕家が、多賀城陥落ののち、義良親王(後醍醐天皇のあとを継いだ、のちの後村上天皇)を奉じて入山、この地に城塞を築いたという。
時代は南北朝の時代である。
 南北朝時代の動乱の様相を著した軍記物語『太平記』にも、その時の様子がつぎのように記されている。
「顕家卿ニ付随フ郎従、皆落失テ勢微々ニ成シカバ、わずかに伊達郡霊山ノ城一ヲ守テ、有モ無ガ如ニテゾヲハシケル」 
 北朝側の足利勢の攻撃にあい、多賀城を落ちのびた顕家一行は、ようやくのことでここ霊山にたどり着いたのであった。そして、顕家はこの地に城塞を築き、仮の国司(政庁)を置いたというのである。 
 北畠顕家は、あの『神皇正統記』を記した南朝の廷臣、北畠親房の子である。父親房とともに、南朝方の柱石となって南朝をささえたことで知られている人物である。この時、顕家、弱冠二十歳。
 霊山に居をかまえた顕家は、ここで上洛の機をうかがった。そして数カ月後、その機をとらえ、京に向かって旅立った。顕家が去ったあとも、城塞は残り、以後、城が陥落するまでの十年間というもの、この地はひとときも平穏な時というものがなかったらしい。戦いに明け暮れる日々であったのである。
現在、山頂近くに、かつての城塞跡を示す碑が立っていて、そこに往時の城塞を復元した俯瞰図が掲げられてある。
 それによれば、山中に築かれた城塞とはいえ、その規模はなかなかのものであったことをうかがい知ることができる。
 城塞は東西に約四百五十メートル、南北に約一キロという、地形を利用した細長い敷地からなり、それを囲むように高さ約一・五メートルの土塁が築かれていた。そして、本丸にあたる詰めの城と呼ばれる中核部分が巨大な岩盤からなる山上のわずかな平地に堅固につくられてあった。 
 さらに、その城塞を守備する物見が、東西南北の蛾々たる岩上に置かれていた。それは、なだれ落ちるような急峻な断崖の岩上に今も痕跡を残している。
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北畠顕家が、多賀城国府陥落のあと、この地に立て籠もったのは、ここで足利方の軍勢と一大決戦を構えるためであった。城塞はそのような意図のもとに構築されたのである。
 戦いは、顕家がここに急ごしらえの城塞を築いたあとすぐにあった。
 迫り来る足利軍を前にして、顕家指揮する南朝軍は果敢に戦った。戦いは一進一退、回を重ねるごとに、しだいに戦闘は激しくなっていった。ある時は霊山をおりての戦いになった。
そうこうすううちに、顕家の耳に、援軍来るの朗報が届くのである。
 この時の様子を、『太平記』は、「顕家卿時ヲ得タリト悦テ、回文ヲ以テ便宜ノ輩ヲ催サルルニ、結城上野入道々忠ヲ始トシテ、伊達、信夫、南部、下山六千余騎加ル。国司則其勢ヲ併テ三万余騎、白川ノ関ヘ打越給ニ、奥州五十四郡ノ勢共、多分ハセ付テ、程ナク十万余騎に成リケリ」
十万余騎という援軍の規模は、いささか誇大に記されているとはいうものの、顕家にとって、それは起死回生の一大チャンスだった。
 こののち、勢いを得た顕家軍は、霊山を脱して、後醍醐帝の御意にしたがって、念願の足利氏討伐のための上洛を果たすことになる。建武四年八月のことだった。霊山に居を構えてから、わずか半年ほどのちのことである。 
 ところで、顕家が去ったあとの霊山城は、その後どうなったのだろうか。
 城は、それからも南朝方の一拠点として、かろうじて城塞としての役割を果たしたという。が、度重なる足利軍との戦闘なかで、しだいに衰退し、ついに、貞和三年(1347)七月、落城。灰燼に帰したのだった。
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 それにしても、顕家がこの地を城塞構築にふさわしい場所と決めたのには、何か根拠があったのだろうか。
城塞を築くに適当な場所はほかにもあったはずである。ただ地の利がよい、という理由で選定されたとは思えない。
 実は、霊山には、平安の時代につくられた寺院建築の大伽藍が存在していたのである。寺勢は衰えていたとはいえ、山上伽藍は健在だった。それをリニューアルしたのが霊山城だった。つまり、まったくのさら地につくられた城塞ではなかったわけだ。
敵の影を背後に感じながら、顕家は、時間のないなかで、急ごしらえの砦をつくらねばならならなかった。そこで頭に浮かんだ場所のひとつに霊山があった。
山中にある寺院群がかっこうの防衛の拠点になると思えたのは当然のことだった。
その寺院群の規模とははつぎのようなものだった。
 山頂部分に本坊。ほかに、寺域に薬師堂、阿弥陀堂、大日堂、勢至堂のほか、三重塔、仁王門、鐘楼、護摩堂などの堂宇が建ち並んでいた。また、北方に山王社を祀り、さらに周辺に寺屋敷、東寺屋敷を配していた。大伽藍は霊山の山域全体にわたっていたのである。 
 記録によれば、最盛時には山麓に三千六百僧坊を擁するほどの一大道場をなしていたという。寺領も伊達、宇多、刈田の三郡におよぶほどの広大なものだった。寺院の大伽藍がつくられたのは、出土した遺跡などから推定して十世紀頃のことであったらしい。
 しかも、今に残る『霊山寺縁起』によれば、開山は貞観元年(859)で、僧円仁(慈覚大師)によって開かれたと記録されているので、大伽藍がつくられる以前に、すでにささやかな堂宇(霊山寺)が建てられていたことになる。
 ちなみに、円仁(794~864)は、比叡山を開いた最澄の弟子である。円仁は下野、今の栃木県生まれであるから、この地については少なからず土地勘があったといえよう。 最澄が延暦寺を建立したのが延暦七年(788)だから、霊山が開山したのは、それから七十一年後のことになる。
 円仁については、最澄没後の比叡山延暦寺の山内抗争に嫌気がさして、比叡山をおり、その後、三年余りの間、信州、関東、奥州を転々とし、布教に力をつくしたとされる。
 この三年ほどの放浪の時期に霊山の開山もあったのだろう。以後、関東、奥州に天台密教の基盤が固まったという。密教は山岳信仰と結びついて、以後、修験道をひろめることになった。
 私は、北畠顕家が霊山を選んださらなる理由は、そこが天台宗寺院であったからだと推定している。
 顕家は、天子、王朝を守ることを説いた天台宗の「鎮護国家」という言葉にあやかろうとした。霊山をよりどころにしたのはそれがあったからではないか。 
 今でこそ、容易に立ち入れる山ではあるが、かつてそこは、塵界遠く離れた、奇岩怪石の連なる、要害の地であった。そうした場所こそ、密教の修行をつむにふさわしい地だった。 
 その昔、あの比叡山が「一山大衆三千」といわれた時代がある。その数に勝るとも劣らない宗徒を霊山はかかえていたことになる。奥州の山岳仏教の拠点として、平泉とならぶ仏教文化の中心として栄えた時代があったのである。 
 それにしても 不思議な気分になる。そうした建造物が何ひとつ現存しない山中をたどるというのは。
山頂部分にあったという本坊跡は今はだた広い広場になっていて、潅木の繁みのなかに礎石がわずかに残るばかりである。
頭上に煌々と月が輝き、下界は闇の世界がひろがる。物音ひとつない夜。その夜の底に黒い堂塔がうずくまるようにかたまっている。ふと、そんな世界を幻視してみる。
ふいに私は、山頂からさらに奥にあるという、閼伽清水が湧出する奥域に分け入っみたくなった。そこはかつて、霊山寺奥之院があったとされる場所である。
 建物は存在しないとしても、清らかな水が悠久の時をへだててわき出すさまがぜひ見たかった。
 雑木の林のなかを歩くほどに、しだいに繁みは深くなり、道はとぎれるほど細くなった。そして、ついにめざす閼伽清水をその奥に見つけだすことができた。
 もはや幻と化しているだろう、と思われた清水が、冷たい音を立ててそこにわき出していたのである。












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