風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

吉展ちゃん誘拐殺人事件-破綻した出稼ぎ人の行跡-

2009-07-09 00:15:25 | 歴史
営利誘拐という犯罪は明治、大正の時代には起きなかった犯罪であった。この種の犯罪は明らかに都市化という現象のなかで起こる犯罪の典型といえた。
 昭和二十一年の八月の敗戦まぎわのどさくさのさなかに起きた住友家の令嬢誘拐事件、昭和三十年七月のコメディアン、トニー谷の長男誘拐事件、同三五年五月の東京銀座天地堂カバン店の社長令息誘拐事件と、戦後の一時期、はやりのように誘拐事件が起きた。
 吉展ちゃん誘拐事件も、これら一連の誘拐事件のひとつと位置づけられる事件であった。当時、世間では、またも起きた誘拐事件と受けとめ、憂慮したのである。
 この誘拐事件が今までのものとはちがっていたのは誘拐された子供が下町のごくふつうの家庭の子弟であることで、私などにも、ひどく身辺に感じられた誘拐事件であった。
                * * *
 行方不明になっている子供の捜索要請が下谷警察署から警視庁捜査一課に出されたのは、昭和三八年四月一日、午後二時三十分のことである。
 前日から行方不明になっている四歳の幼児の名は村越吉展ちゃん(4歳)といった。吉展ちゃんは夕食前のいっときを公園で遊んでくると言って家を出たまま行方不明になっていた。
 その公園は、村越家のすぐ西側にある台東区立入谷南公園といい、先の戦争で空襲にあい、焦土と化したこの地区にできた空き地が公園になったものである。
 一帯は零細の製造業や卸業者が集まる典型的な下町の住宅密集地で、公園はそうした密集地につくられたオアシス的な空間であった。 
 村越家もそうした住宅街の一角(台東区松ケ谷三丁目)にあった。工務店を営み、吉展ちゃんの両親、その親夫婦、吉展ちゃんの妹からなる、ごくふつうの家庭であった。
 当初、吉展ちゃんは迷子として捜索された。が、この警察の方針にはじめから疑問をもっていたのは吉展ちゃんの父親であった。父親はこれは誘拐事件であると確信していた。名前や住所を言える息子が迷子になるとはとうてい思えなかったのである。 
 それを裏付けるかのように、吉展ちゃんといっしょに、水鉄砲で遊んでいた隣家の子供の証言が出てきた。知らないおじさんが吉展ちゃんに声をかけていたというのだ。 
 警察の捜査が思うように進まないなか、早くも村越家に犯人と思われる男から身代金五十万円を要求する脅迫電話がかかってきた。その声は押し殺したような中年の声で、強い東北訛りがあった。
 声の主は、五十万円を国鉄新橋駅西口前にある場外馬券売り場にもってくるように指示した。が、日時の指定がなかった。
 この電話のあと、いくつかの電話が入っている。捜査に協力するような内容のものもあったが、明らかにいたずら電話もあった。そうしたなか、例の男から再び電話があった。
 身代金を奪う目的の誘拐はかならずカネを渡す場所が特定されるものである。犯人はそれを明らかにしない限りカネを奪うことができないからである。 
 ところが、電話の主は、指定の場所を容易に明確にしないのである。再三、家族が催促するにもかかわらず、犯人は逡巡してなかなかそれを明示しなかった。  
 場所の選定の適不適が、営利誘拐が成功するかどうかの最重要ポイントだということを知っているからなのだろう。犯人はカネを持って来る場所を考えあぐんでいる様子であった。 
 それから数日後の四月五日、下谷北署の二階に正式に特別捜査本部が設けられることになる。吉展ちゃん失踪後五日目のことである。 
 それに狙いを定めるかのように、その日の午後十時過ぎに犯人と思われる男から、今度は地下鉄日比谷線入谷駅にいるので、カネを新聞紙にくるんで持って来るよう指示があった。さらに男は、子供を確かに誘拐したことを証明するために、駅の入口に子供の靴下の片方を置いたとも告げた。子供が身につけている衣類の詳細を知っていることからみて、幾度か電話をかけてきている、東北訛りのその男が犯人であることはほぼ間違いなかった。
 捜査陣がこの電話の対応について検討しているさなか、追いかけるように電話が再び鳴った。その日の深夜のことである。さきほど予告した入谷駅はやめにするというのである。また連絡する、と言っただけで電話は切れた。 
 六回目の電話は六日の早朝であった。東京に霧がたちこめる朝だった。これからすぐに上野駅正面にある電話ボックスにカネを置けというのだ。カネが手に入ったら、一時間半後に子供をしかるべき場所で解放するとも言った。 
 にせの札束をかかえて母親が指定の電話ボックスに出向くと、そこには犯人からのメッセージは何もなかった。警戒心の強い犯人は、近くでこの様子をうかがっていたのだろう。警察の気配を感じて姿をあらわさなかったのである。
 カネを置くように指定した場所がこれで三回出たことになる。新橋を除けば、入谷駅、上野駅ともに、いずれも村越家に近い。そうなると、その辺の地理に詳しい者という犯人像が浮かぶ。
 尻尾をつかみそうでつかめない犯人に捜査陣はやきもきしていた。いたずら電話もそれを増長させた。
 そうしたなか犯人からの最後の電話がかかってきた。四月七日午前一時二五分のことである。 
 犯人が身代金を持ってくるように指示した場所は、村越家から西に直進した昭和通りのほとりにある品川自動車という会社の駐車場であった。そこは村越家から歩いて五分とかからない場所である。犯人は村越家の様子をうかがうように家の近くにあらわれたのである。捜査網が張られている場所にあえて接近する犯人の行動は大胆でもあった。が、これは危険を犯してまでカネを奪いたいという犯人のあせりを示すものでもあった。
 母親が指定の場所である駐車場に向かった。そこに駐車している車の荷台に、風呂敷包みに入れた札束を置くように、というのが犯人の指示であった。それを取り巻くように捜査官が見張ることになっていた。
 ところが、ここで大失態が生じたのである。カネは奪われ、犯人を取り逃がしたのだった。カネを置いた時刻と捜査陣が配置についた時間との間に生じた、わずか三分ほどの間隙にカネが奪われたのである。
 この失態に警察は箝口令を敷いたうえで、総勢百六十一人という大規模な捜査陣を組んで捜査に乗り出すことになった。これは警察の威信をかけての捜査体制であった。
 一方、入谷界隈を中心に吉展ちゃんの特徴を詳細した「お願い書」が配布された。が、下町人情の生きるこの地域であるにもかかわらず、目撃者はあらわれなかった。人の多く出る夕方の出来事であるのに不思議なことであった。明らかに死角を衝かれた犯行であった。        
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 四月一九日、捜査にゆきづまりを感じた警察は、ついに事件の公開捜査に踏み切ることになった。
 誘拐事件の公開捜査は、誘拐された人間の命の存続にかかわることにもなるので、あくまで慎重でなくてはならなかった。それをあえて踏み切ったのである。 
 その際、警察は、録音された犯人の声を放送局などの電波を通じて流したり、ソノシートを作成して関係箇所に配布したりした。捜査陣も百七十二名に増強された。
 その声を私もラジオで耳にしたことがある。ねばりつくような東北訛りの中年男の横柄な態度が見え隠れしていたような記憶がある。録音された声は、意外に鮮明だった。これならば、誰か心当たりの者がいるはずだ、と確信したものである。 
 やはりというべきか、その効果は間もなくあらわれたのである。まず、脅迫電話の声に似た男の飲み友達という人物から情報がもたらされた。ついで、男の仕事先の知人や実の弟という人からも通報があった。
 複数の情報をつなぎあわせた結果、男の名は小原保という人物であることが判明した。その男には、事件のあと、怪しい影がつきまとっていた。事件後、急にカネ回りがよくなったのもそのひとつである。しかも小原には前科があった。
 男の名が明らかにされると、報道関係者もじっとしてはいなかった。そのうちのひとりが、この小原という男がよく行きつけている荒川区にある飲食店で、その人物のインタビューに成功したのである。これで男の声やなまりが完全に収録されることになった。
 五月二十一日、小原保はその飲食店にいるところを上野署員に逮捕され、留置された。逮捕理由は代金未払いという名の別件の横領罪であった。借金の片がついていなかった一件が罪に問われたのである。幾つもの警察に届いた情報を総合して、小原があやしいとにらんだ警察がとった別件逮捕であった。
 ところが、逮捕してからの小原は、本件の誘拐罪の追及になると犯行を否認しつづけた。証拠も出ない。そうこうするうちに、六月十日の拘置延長期限がきて、小原保は不起訴処分のまま釈放されることになった。 
 身代金をすばやく奪うという機敏な行動は、不自由な足では無理である、というのが不起訴の大きな理由のひとつであった。小原は小学校四年の時、骨髄炎を患い両足が不自由になっていた。また、現場近くの公園で足の悪い容疑者を目撃した人がいないというのも理由になった。 
 さらに三十歳という小原の年齢と、脅迫電話の四十歳以上らしい声の持ち主とが一致しないこともシロと判断する理由のひとつになった。
 警察は捜査をもういちど、振り出しにもどさざるを得なくなった。そして、調査保留中の人物の総点検をすることした。が、そこで再びあらわれ出たのが小原保であった。事件から二年が経過していた。
 警察は小原の関係者をあらためて洗い直すことにした。
 小原が再逮捕されたのは、師走に入った十二月五日のことである。罪名は窃盗容疑であった。 
 警視庁に身柄を移された小原は、再び厳しい取り調べに晒された。調べの中心は小原が犯行直後持っていたというカネの出所であった。だが、この時も、小原はカネの出所についてのらりくらりとはぐらかしては言い逃れた。 
 小原が窃盗罪で前橋刑務所に送られたのは、それからしばらくしてからのことだった。が、翌年の五月一七日には、ふたたび吉展ちゃん誘拐容疑の取り調べのために東京拘置所に移されることになる。警察はこの時、捜査陣の一新を計っていた。新しく事件を担当することになったのは、〃落としの八兵衛〃の異名をとる平塚八兵衛部長刑事であった。彼は帝銀事件でも辣腕をふるった刑事として定評があった。
 東京拘置所に移された小原は、十日間という期限つきで任意の取り調べを受けた。六月二十三日からはじまった取り調べは、執拗につづけられ、さしもの小原も憔悴の態であったという。
 そして、期限切れの七月二日の翌日の夕刻、平塚刑事の鋭い詰問に窮して、ついに小原は誘拐殺人を自白したのであった。
 小原の自供によって、吉展ちゃんの遺体が、南千住にある円通寺の境内に埋められているということも判明した。
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 この事件が起きた昭和三十年代後半は、ちょうど日本の経済が高度成長下にある時期であった。戦後の食うや食わずの生活からようやく脱して、庶民の生活にも豊かさの明かりが灯りはじめた時期であった。
 一方で、日本経済の活況は、農村からの出稼ぎ労働者を大量につくり出すことにもなった。この事件の主役、小原保もまたそういう出稼ぎ人のひとりであった。
 福島県石川郡石川町の山村に生まれた小原は、十一人兄弟の十番めの子供として育っている。その小原が東京にはじめて出てきたのは昭和三五年のこと。職業訓練所で得た技術を利用して、上野の時計店に就職している。 
 上京者として東京の片隅で働く小原の生活は決して楽ではなかった。そこで手をつけたのが時計のブローカーだった。が、それも思うようにゆかず、結局借金だけをかかえることになった。追いうちをかけるように、時計店をクビになる。雇い主に隠れてやっていたブローカー業が露見しての解雇であった。 
 小原が入谷南公園で水鉄砲で遊んでいた村越吉展ちゃんを誘拐するのは、いよいよ借金で首が回らなくなった昭和三八年の三月三十一日のことである。
 東北からの出稼ぎ人として、故郷との絆を断ち切られ、なおかつ、東京の下町に吹きだまった、ひとりの孤独な男の行跡が見えてくるようである。  



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