風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

会津流転

2013-02-05 10:54:27 | 旅行
歴史的雰囲気の漂う町というものがある。長い年月をへることによって歴史の香りが色濃く出ている町。そんな町のひとつに会津若松がある。

 会津若松という町は盆地の中にある。町は鶴ガ城を囲むように広がっている。城は昔も今も、町のシンボルだ。その城は、昭和四十年、コンクリート造りの城として復元したものである。かつての城は、あの戊辰戦争のさなか、灰燼に帰して、その後、取り壊されてしまったのだ。

 この町の歴史を語ろうとする時、やはり、幕末の一時期に起きた会津戦争について語らなければならないだろう。  

 それは会津藩士五千人が、時の藩主松平容保を擁して、城に立て籠もり、薩長の官軍に対抗して戦った戦争である。

 この戦いの結果、会津という土地は怨念の逆巻く地になった。今も町の歴史の奥底に分け入れば、そこに満ち満ちている怨嗟の声にゆきつくことだろう。 

 わたしが会津若松を訪れたのは、ちょうど秋祭りがとりおこなわれているさなかであった。そのためもあってか、市内は時が逆戻りしたように古色につつまれていた。

 武者行列が町のせまい街路を練り歩き、天守閣がそびえる広い中庭では、居合抜きの競技会がおこなわれていた。町は、なにやらあの籠城戦の時の雰囲気を彷彿させるあわただしさに満ちていた。

      * * *

 会津戦争は慶応四年八月二十三日を皮切りにはじまった。兵員三万とも四万ともいわれる官軍が、怒涛の勢いで城下に突入したのである。以来、九月二十二日の落城にいたる一カ月ほどのあいだ、壮烈な籠城戦が繰り広げられることになった。

 この戦いの最中、数え切れぬほどの悲劇が生起した。戦いはつねに悲劇をともなうものである。しかも、それら悲劇のひとつひとつには拭いがたい残酷さが付着している。負けた側が引き受けねばならない悲惨というべきか。幾つもの悲劇が今でも土地の人々に語り継がれている。

 そのひとつに城代家老西郷頼母の家族の自刃がある。旧城下の大手筋にあたる甲賀通り沿い、ちょうど城の北出丸の追手門を目の前にする通りの東側に西郷邸はあった。

 甲賀通りは、幅一八メートルほどの広さの通りである。ちなみに、市内の道路は、南北の通りを「通」と言い、東西の通りを「丁」と呼びならされている。

 出来事の顛末は次のようなものであった。 

 官軍が市内に迫った八月二十三日のことである。土佐藩を主体とする突撃隊は、鶴ガ城の北出丸に向けて突進していた。一隊は城の前面に建つ広壮な邸宅に足を踏み入れようとしていた。屋敷の内部は妙に静まりかえっている。突撃隊は屋敷の中の廊下を突き進んでいく。すると奥の間に突き当たった。

 隊長の土佐藩士中島信行は、その襖を勢いよく開け放った。中島は、その瞬間、あっと息を呑んだ。死装束をまとった幾人もの女たちが血の海の中で悶絶していたのである。

 女たちは、城代家老西郷頼母の妻女をはじめ、その娘たち四人と西郷家一門の家族、総員二十一人の老幼男女であった。

 この出来事は、惨劇からまぬがれた頼母の長子吉十郎が、のちに登城し、父にそれとなく話したことで会津側にも明るみになった。 

 じつは頼母は、こうなることを先刻承知していたのである。登城前、頼母は自分の家族を集め、西郷家の身の処し方について言い残しておいた。そして、一人ひとりに辞世を作らせ、みずからその添削に手を染めた。

 そして、敵が押し寄せた時には、みずからの命を断つようにと、妻女らに諄々と説いておいたのである。その結果の自刃であった。

 頼母が家族にそうすることを強いた確かな理由があった。

 西郷頼母は恭順派、非戦論者として知られていた。藩主松平容堂の京都守護職就任に反対し、そのために家老職を解かれ、以来、五年間藩政とのかかわりを断っていた人物であった。ところが、慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いの敗北が会津に伝えられるや、藩国存亡の秋来る、ということで頼母は再度登用されることになった。

 彼はその時もなお恭順を説いたが、事態はもはや恭順論が受け入れられる状況ではなかった。そして、止むなく会津軍の白河口総督として出陣することとなった。

 大勢に抗しつつ、それに押し流されて行かざるを得なかった無念さはいかばかりであったであろうか。とはいえ、今や体制の外にいつづけることは、自分の気持ちが許さなかった。当時の封建道徳としては当然の考えであったろう。 

 すでに決死の覚悟であった。彼は自らの家族にも生き死についてのありようを悟らせていた。この姿勢は、敵味方双方に対して、武士としての気概を示そうとするものだった。それは軟弱と非難されてきた我が身に対する最後の矜持の証明といえた。

 矜持をつらぬいて自刃したこの西郷頼母家と同じような悲劇は、会津戦争のさなかに、ほかにも数々あった。

 寄合組中隊頭井上丘隅の家は甲賀口の本五ノ丁の角にあった。井上は敵が家のすぐそばまで押し寄せてきたことを知り、妻と子を介錯して自刃、「もろともに死なむ命も親と子のただ一筋のまことなりけり」という辞世を残している。本四ノ丁角に住まう寄合組中隊頭木村兵庫は、八人の家族を刺し殺したあと、自身も自刃した。

 同じく寄合組中隊頭の西郷刑部の妻は留守家族五人とともに自害している。小隊頭永井左京は戦いで負傷した身体を家で横たえている時、敵の来襲にあい、家族七人とともに自刃している。

 このほかにも、野中此右衛門とその家族の死、高木豊次郎家の死、有賀惣左衛門の妻子の死などがあげられる。さらに、悲劇は下士の家族にも及んでいる。

 これら一連の悲劇は、八月二十三日、薩摩、長州、土佐藩などの連合軍三千の兵が市内に突入したその日にすべて起きたことであった。一方、矜持をたずさえて最後まで命を賭して戦った者たちもいた。

 会津戦争最大の激戦と言われた甲賀口の防戦で討ち死にした田中土佐と神保内蔵助は、ともに家老職にある身分だった。

 甲賀町通り沿いは上級の武家屋敷が集まる地区であったが、そこが官軍の侵入通路になり、主戦場になったのである。 

 女たちも戦った。会津娘子軍の名で知られる婦女薙刀隊の隊長格であった中野竹子の討ち死にもそのひとつである。

 竹子の率いる薙刀隊は、若松郊外の柳橋(市の西北)という地で敵とわたりあったが、この時、竹子は敵の弾にあたって戦死した。この薙刀隊員の服装は、髪は斬髮、白羽二重を着込み、鉢巻きをするといった男勝りのいで立ちで話題になった。

 家老職にありながら城の外にあって、野戦の総指揮にあたった佐川官兵衛の、何物かにとりつかれたような戦いも、会津の矜持を示すひとつの形だった。

 そして、会津藩の矜持の代表者として責任を取らされた人物が、家老職のひとり管野権兵衛、その人であった。管野は、藩主になりかわり、この戦いの最高責任者としてのちに切腹させられている。

 *  *  *      
 同じ朝敵になった藩の中で、会津藩ほど薩長側から憎悪の標的とされた藩はなかった。それはいかなる理由からであったのか。

 思うにそれは、会津人の狷介ともいえる性格にあったのではないか。それが相手に遺恨の残る結果を招いてしまった、ということではないのか。融通の利かない狷介な性格はともすれば相手の気持ちをおもんばかることのない態度となって現れる。

 権力に裏うちされた狷介は怖い。正義の名において、相手に容赦のない規範の順守を求める。それは往々にし、曖昧なもの、不明瞭なこと、欠けたもの一切を許さない、完膚なきまでの恭順を相手に要求する。その結果、当然、相手に遺恨が残る。 

 日本の政治的対立がピークに達した時、会津藩が京都守護職を引き受けたことが会津の悲劇であった。

 西郷頼母は、藩の役割の悲劇的結末を予感して、藩主容保に諌止した。だが容保は聞く耳をもたなかった。自らの大義名分を押し立てた。容保にもある種のかたくなさを感じる。容保という人は、実は大垣藩から入った養子藩主である。会津に住んで、会津気質を身に帯びたのだろうか。

 その結果、当時の政治の中心地でとった行動が、会津人気質をいやがうえにも鮮明に敵側である倒幕派に印象づけることになった。会津憎しの怨嗟の声が渦巻いたのも故なしとしない。

 風土性というものがある。

 山に囲まれた盆地である会津地方は、その自然環境からして、外部と隔絶するきらいがあった。そのうえ自然条件が厳しい。冬の季節が半年近くもつづくという土地柄である。自然環境の閉鎖性は人の気質をかたくなにする。ひらたくいえば頑固者が多い。人心が停滞し、新しいものを採り入れるという性向より、古いものを守り抜こうという姿勢が強くなる。その一典型が会津に生きている。 

 会津というと、〃伝統〃というイメージが浮かぶのも、古いものを綿々と育て上げる風土性が、会津の特徴として今も生きているからであろう。 

 自然条件の厳しさは一方、そこに住む人を辛抱強く、かつ粘り強くする。この性向が、会津気質の芯をかたちづくっている。

 明治維新になってから苛酷な運命にさらされた会津の人々の心を支えたものも、皮肉なことに、この性向である。

 新政府の追い打ちをかけるような施策によって、維新後、会津藩は解体される。そして東北の一寒村に移封されることになる。

 そこは南部藩領から削りとった陸奥三郡およそ三万石の土地であった。斗南藩と呼ばれるその所領に、藩士とその家族一万七千人が移住した。 

 明治の世になり、陸軍大将に昇進した会津出身の柴五郎はその遺書の中で、少年時の思い出を次のように回想している。

 「今はただ、感覚なき指先に念力をこめて黙々と終日縄なうばかりなり。今日も明日もまた来る日も、指先に怨念をこめて黙々と縄なうばかりなりき」

 ひたすらの忍従は、たたかれ打ちひしがれても生きぬこうとする強靭な心をつくりだし、やがて、それは怨念という名の情念と化する。             

 ここに、その情念を新たな新国家建設に向けて積極的に放出した人物がいる。

 そのひとりに旧会津藩家老山川浩がいる。彼は籠城戦当時、遊撃隊長として、城の外にあって、薩長軍に対し巧妙な戦いを展開した。降伏後、最北の地、斗南藩に移住させられた時、権大参事(藩知事)の要職にあって、藩の実質的な指導者となった人物である。

 斗南藩の経営は困難を極めた。自然はあまりにも苛酷であった。新天地に移り住んだ旧会津藩士を待ち構えていたのものは飢餓地獄そのものであった。不毛ともいえる荒野は、尋常な手段では人間に服従するような相手ではなかった。

 そして、ついに新国土建設は、苛酷な自然を前にして、虚しく潰えてしまう。

 この斗南藩経営の失敗のあと、山川は東京に出る。薩長政府への怨みをもう少しちがった形で果たそうとしたのである。それは体制内に入って、いずれの日にか汚名を雪ごうという考えであった。

 薩長政府に真正面から対決する姿勢ではなく、むしろ、体制内で自己の立場を確立し、藩の汚名を返上しようというリアリストとしての見識である。

 山川はこうして官途の道を選ぶ。その企てに手を差しのべたのは、旧敵土佐の谷千城であった。谷の推挙により、山川はまず陸軍省八等出仕を申しつけられる。そして、のちに陸軍裁判大主理に任官することになる。明治六年七月のことである。

 その後、山川は異例の出世をはたし、明治十年の西南戦争のおりには、陸軍中佐として参謀職を勤め大いなる功績を残す。

 その結果、山川が果たそうとした、自己の立場を確立し、そのうえで一定の自己主張をし、自らの存在を認めさせる、という願いがかなうことになるのである。

 この山川浩のほかにも、会津出身で、のちに世に出て名をなした人々が数多くいる。

 まず、山川浩の弟の健二郎。彼はのちに東京帝国大学の総長になっている。また、この山川兄弟の末妹である咲子(のちの捨松)は、津田梅子らと初の女子留学生として渡米し、のちに陸軍卿大山巌と結婚している。

 兄弟で名をなした人に、ほかに、山本覚馬、八重子兄妹がいる。覚馬は新島譲とともに同志社大学の創立に貢献した人物であり、八重子(平成25年、NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公)は、その新島譲の妻になった人である。彼女自身もその後、幾つもの社会福祉事業に貢献している。

 このほかに、『ある明治人の記録』に登場する、のちに陸軍大将になった柴五郎、明治大正期に外交官として活躍した林権助、明治学院の創立者のひとり井深梶之助、クリスチャンとして明治の教育界で活躍した若松賎子などの名を見いだすことができる。

     * * *

 ひと言で生き方の違いということでは片づけられない会津人のこの堅忍の姿勢は、やはり風土性のようなものを考えなければ理解できないと思う。

 猪苗代湖を前に、磐梯山を背後に控えた会津という地は、日本の古典的な田舎風景が広がる場所である。それは昔ながらの、貧しさのひとつの典型を示す土地柄でもあった。

 貧しさが張りついたような苛酷な風土、時の流れが回遊しているような社会、そうしたものに包み込まれて生きる人間は、忍従という言葉を生き方の基本にすえるしかないのである。 

 さらに、そこに長い厳しい冬の季節が加われば、何人と言えども、そこでは、どのように生き、自然の苛酷さにどう耐えなければならないかを習得するはずだ。

 かつての日本の田舎は多かれ少なかれ、そうした地の風を備えていたのである。忍従はそうした地に生きる日本人の共通する性向のひとつの形でもあった。

 会津というと、わたしは猪苗代湖畔の貧しい家に生まれ育った野口英雄を思い浮かべる。貧しい家に生まれたにもかかわらず、やがて、忍従と勤勉を積みかさねて、ついに立身出世していった野口英雄の行跡は、ひとり会津人のみならず、日本人すべてが理想とする姿であった。

 それゆえに、教科書にも取り上げられ、幾世代にわたって、日本人の鏡でありつづけた人物であった。

 貧しさゆえに忍従を強いられるということはある。かつてはほとんどの日本人がそうであった。少なくとも、そうした状況のなかで生きていた日本人にとって、野口英雄的生き方は模範とするに足る生き方であった。

 会津人が規範とした生き方が、そのまま、日本人の生き方として通用していた時代があったのである。