アメリカ!編みんぐ_AMING

アメリカ/ 魅了された編み物生活

英語で編み物、その1

2006-05-12 14:54:33 | Weblog

         
8年前、デンバーでみつけた野呂の毛糸でひざ掛けを編み、8年後残り毛糸でスカーフを編む

私の編み物歴は結構長い。結婚して長男を妊娠したときになぜか、突然としてベビーのものを編みたくなった。祖母や母に小さい時からいろんなものを編んでもらって
育ったので、そのときまで自分で編みたいと思ったことはなく、何でも作ってもらえると思って育ったのである。だから、祖母や、母が一生懸命編んでる側で傍観者として見てはいたものの、自分で編むなどという興味を一度も持ったことがなかった私が、急に執りつかれたように編み物を始めたのだから、遠くに離れていた母や、祖母にするとびっくり仰天ものだったにちがいない。そもそも、結婚さえびっくり仰天ものだったのに、毎日のように、<今日の晩御飯、どうしたらいいの?カレーはどうやってつくるの?>と長距離電話でレスピを聞くくらいだから、あとからの母の話では、祖母があんなに何にもできない子が急に結婚するんだからねえ!せめて結婚の半年前くらい、料理や、編み物、洋裁くらい修行しとけばよかったものにねえ!とこぼしていたそうだ。

なんやかんや、電話で聞いてもらちがあかないので、京都の左京区にある、編み物の先生のところへ通いだした。鈎針は簡単だったけど、棒針は初めてで、<これはコンティネンタルといって、貴女みたいにやったことがない人には覚えるととても速く編めて、効率的な編み方なんだけど、一度アメリカ式を習ったひとにはなかなか、切り替えられないのよ。ちょっと指が動きにくいけど、やってみる?>といって、コンティネンタル式、つまりヨーロピアンスタイルの編み方をならった。それ以来、私はヨーロピアンスタイルなのだが、アメリカでもこの編み方ができる人はすくなく、今まで私以外に会ったことがない。今から思うと、その当時私の先生のデザイン的な面は退屈で、あんまり好きではなかったが、編み物の基本はとてもしっかりと教えてくれたと思っている。特に、ボディサイズを実寸でゲージをとって割り出し、グラフ用紙に書き込み、どこに増やし目、減らし目が必要かそれによって、編み物の大事な、減らし目、増し目のやり方を習った。一時、子育てに忙しくなって遠のいたりしたが、また編み物を始めたりとの繰り返しだった。


アメリカではじめたわけは、10年前、アルコール中毒の主人の家庭内暴力から逃げ、一時デンバー市のシェルターというところに助けてもらっていたのだが、そこである組織のレセプショニスト<つまり受け付け>の仕事を紹介された。<ある組織>なんていうと何か非合法組織みたいなこわ~~い憶測をしそうだが、ちゃんとしたグループでアジア人の移民女性を助ける組織である。違った文化からアメリカに移住してきていろんな問題を抱えている女性に精神的なカウンセリングのサービスや合法的権利の手助けや法律的情報の提供などをする組織でデンバー市からも助成金をもらっていた。市警察や裁判所とも密接で連携して家庭内暴力からアジア人女性を保護しなおかつ自立して生活できるようなサポートもしていて、心理セラピスト、リーガルアシスタント、精神科医、看護婦なども含め総勢30名くらいのスタッフが働いていた。

アメリカで労働許可をとり就職して初めての給料日に<その当時たかだか12万円ぽっちだったが、、、>チェリークリークという高級ショッピング街にある毛糸屋さんを電話帳で見つけた。オフィスから運転して15分ほどのところにあり、昼食休みに急いで走ってアメリカではじめての毛糸を手にした時の興奮をいまだに鮮烈に思い出す。なんとそのときに手にしたのが皮肉にも日本の野呂栄作のクレヨンというシリーズの毛糸だったのだ。私のオフィスはデンバーシティーパークのすぐ側のYORK ST.にある古いビクトリアン調の100年以上もたつ歴史的建築物でオークの床がきしむ建物だったし、当然暖房なども時代遅れで高い吹き抜けの天井へ暖かい空気が逃げていき1階の入り口に座っている私の足元はいつも氷のように寒いので、ひざ掛けを野呂の毛糸で編み始めた。


受付は寒く入り口のドアが開くたびに震え上がったが毎日編み続けているひざ掛けが段々大きくなり、形を整えるごとに私のひざを暖めてくれていった。カウンセラー達も最初は何を始めたのだという不振な目で見過ごしていったが、だんだん出来上がっていく私のひざ掛けに気がつき、<ななこ、編み物が上手なんだねえ!>とびっくりして声をかけるようになった。あるカウンセラーは編み物は楽しいのか?と聞くので、編み物をしていると自分の良い思い出が玉手箱から限りなく飛び出してきて編み物自身、が私の人生の絵本のように見えるというと、<なーるほど、じゃあとても良い心理療法になっているんだなあ?じゃあうちの患者さんたちにも勧めると良いかもしれないね?>というので<うん、それはとってもいいかもしれませんね?>と答えたものだ。実際、遠く離れた日本での生活、子供時代を過ごした博多のこと、大学時代を過ごした京都、結婚生活、4人の子育て時代、ビジネスを立ち上げて駆け回っていたころ、と怒涛のような人生だったけれどすべてを失ってゼロから出発したアメリカ生活でまた、編み物を再開できたことの奇縁さに驚きながらも、私の変化多い人生はいつも毛糸で繋がれていたような気もした。英語で編み物