M.T氏日記

アーケードに限らず、最近の出来事等色々

ストライカーズ1945-2のスコアをやり始めたきっかけについて 第4回

2004-12-24 01:04:48 | Weblog
「スコアラーとの出会い」

 2周ALLした後も、あの緊張感に病みつきとなり、ゲーセンでやりこんで、その後も何回かALLすることができました。
 このころになるとゲーメストのハイスコアのページが気になっていました。
 1945-2はどの機体も300万点以上のスコアがでていて、すごい人達がいるものだなと思いました。

 そこで地元から一番近い仙台のハイスコア集計店にいってみました。
 1945-2をやっている人がいましたが、金塊をとるのが非常に上手で、一見してスコアを目指している人であることがわかりました。

 そして1周目の6面ボスで体当たりをしてパワーダウンする雑魚稼ぎをしていて、非常に衝撃を受けました。

 1945-2では敵に体当たりするとパワーダウンすることは知っていましたが、まさかそのことを利用して稼ぐとは思ってもみませんでした。
 どの機体でやっていたかは忘れてしまいましたが、とても印象に残りました。

 それから、東京に出かけたとき新大久保の集計店ケンタゴンに行ってみました。
 こちらでも1945-2のスコアを目指している人がいました。
 今から思うとあれが中野龍三さんだったと思うのですが、当時はそんなことも知らず、震電で上手な方がいるなと後ろで離れたところから眺めていました。
 1面街面で173,600点をきっちりとっているのが印象に残りました。

 このときに中野さんと話でもしていれば、ハイスコアの世界への入りかたが、また違ったものになっていたかもしれません。

 ハイスコアの世界を知らなかったこのころは、こうした人達からゲームに集中して取り組んでいる姿勢のようなものが感じられ、近づき難かった気がします。

 それからは、1周目では金塊を少し意識してとったり、なるべく多くの敵を壊すようしたりにして稼ぎのまねごとなどを始めてみるようになりました。

 またこのころに、彩京のガンバード2が新しく入荷しました。こちらもまた1945-2以上に難しく、やりがいがありました。
 1周目からさらに難しくて、なかなか1周もできませんでした。

 しかし、残念なことに仕事の都合で、この場所から引越することになってしまいました。

 ガンバード2を1周できたころ、また別の地方の田舎に住むことになり、しばらくゲーセンから遠ざかってしまうことになりました。

 1945-2を気軽にできる環境ではなくなってしまいましたが、どうしてもまだこのゲームを続けたくて、ついに1945-2の基板を購入してしまいました。(コントロールBOXと業務用モニターも)
 買ってから、しばらくは家でゲームが遊べる環境を喜んでいましたが、ゲーセンでコインを入れてプレイする緊張感が忘れらなくて、しばしば遠くのゲーセンに車ででかけて、ゲームをするようになりました。

 名古屋や松本のゲーセンに月に何回か遊びにいくようになり、そこでスコアを目指している人と知り合うようになりました。
 このころは、ガンバード2の2周ALLを目指していて、このゲームもまた約半年かけてクリアできました。
 初めてクリアできたのが、今は亡きプレイシティキャロット松本で、今でもよく覚えています。

 ガンバード2をクリアできたあと、もう一度1945-2をやってみたくなり、家で練習したり、他の人からアドバイスをいただいたりしながら、疾風で290万点ぐらいまではなんとか出せるようになっていました。

 つづく

ストライカーズ1945-2のスコアをやり始めたきっかけについて 第3回

2004-12-18 01:43:44 | Weblog
 苦労がつづきましたが、何度か2-6(2周目6面)に突入できるようになりました。

 しかし大抵の場合、残機もなくボムも少ない状態で突入するため、ボスに到達する前にゲームオーバーとなってしまいました。
 2-6道中は、茶色の中型機がたくさんでてくるところ、道中終わりのダム砲台のところと難しい箇所がありなかなかパターン化できませんでした。
 ここまで辿りついてボムを4発、5発と持っている状況は、今の時点では考えにくいので、がんばって道中1ボムのパターンをなんとか作りました。

 たまにボスに到達できても、ボスが第1形態(潜水艦)と第2形態(ロボット)共に、とても避けにくい攻撃をしてくるので、非常に苦労しました。
 2-8でボムがどうしても1発必要なので、2-6ボスでボムを使いきるわけにはいきませんでした。

 しかし、2-6ボスの最終形態は雑魚がわらわらと湧いてきますし、ボスの攻撃もボムを突き抜けてきたりするので、何回も死んでよりよい方法を模索しました。
 「疾風」という機体はボムが無敵ではないので、ボムを撃ったにもかかわらず死亡するボム死にを何回も経験しました。

 このころは雑魚の周期調整などということも知らず、実際に1コインでつながっているときプレイでは、結局ボムごり押しになってしまいました。

 2-6ボスさえ越えればあとは1ボムでクリアできる自信も少しずつでてきました。

 その後、なんとか2-6ボスを倒すことができるようになりましたが、2-7に突入すると緊張のあまり死んでしまうということが、何回かありました。

 このころは、2-6までいったらとにかくコンティニューして、2周目の最後までやって、緊張しても動じないための経験値を積みました。

 2周目のラスボスも各形態をパターン化して、万全の準備をしました。

 それでも初めてラスボスに到達したときは、緊張のあまりあえなく死んでしまいました。

 しかし、この緊張感がゲームの楽しさでもあり、ますます病みつきになっていきました。

 ラスボスに2度目に到達したときは、最終形態破壊のあと1秒というところで死んでしまいました。やはり簡単にはクリアさせてもらえませんでした。

 そして、ゲームを始めてから約半年、ついに2周ALLできました。
 ちょうどその時、ゲーセンの店長が後ろで見ていて、拍手をしてくださいました。
 少し恥ずかしい気もしましたが、うれしかったです。

 点数は約260万点、残機0、残ボム1でした。このころ1周目は137万点前後だったと思います。

 今では、古いゲームや新しいゲームでもっと難しいゲームがあることを知っていますが、当時は難しいゲームをクリアできたということで、自分の中ではとても満足できました。

 つづく

ストライカーズ1945-2のスコアをやり始めたきっかけについて 第2回

2004-12-10 00:18:49 | Weblog
 その日からは、ゲーメストの攻略記事とにらめっこしながら、プレイをするという日々がつづきました。
 攻略記事を見たからといってすぐに同じことを実行できるわけでもなく、試行錯誤を繰り返しながら、自分なりのパターンを作っていくこととなりました。
 結果としてゲーメスト攻略と同じ動きになる場所や、まったく違う動きになる場所ができてきました。

 1週間ぐらいでは上達したのは実感できませんでしたが、1ヶ月もすると1ヶ月前よりは先に進めるようになっているのが実感できました。
 ゲームをはじめてから3ヶ月ごろには2周目ランダム面の決めボム箇所はだいたい固まってきました。ときどき2周目5面(2-5)に突入できるようになってきました。

 4ヶ月目には、ときどき2-6に到達できるようになりました。
 2-6はゲーメストの攻略でも難しいと書いてありましたが、到達してみるとやはり大きな壁となりました。

 このゲームは一度死ぬと、しばらくの間はゲームのランクが落ちて、弾が遅くなるのですが、2-6ぐらいになると死んだあとも、すぐに弾の速いランクに戻ってしまうので、より難しく感じました。
 コンティニューで練習するときは弾が遅いのですが、実際に1コインで到達したときは、多くの場合、最高ランク(1番弾が速いランク)になっているので、練習したことがうまく実行できませんでした。

 今まではコンティニューで練習したことを、いかに同じ様にプレイできるかという課題でしたが、2-6以降は1コインで到達したときに、練習したことをどれだけ応用していけるかという少し高度な課題となってきました。
 こうなると、1コインで到達できたときの1回1回のプレイを大切にして、いかに経験を積めるかが重要になりました。

 このころになるとなんとか2周ALLしたいと強く思うようになってきました。

 2-6がしばらくの間、壁になっていましたが、先の面をみてみたいと思い、コンティニューで2-7、2-8(最終面)をみてみました。

 あまりにも弾が速くて、パターンを作る基本的な動きもできませんでした。

 このままでは、2-6を突破できても、先には進めないと思い、2-7、2-8の基本的な動きを作るために、ゲーセンの店長にお願いして、1日の間だけ設定をEAZYにしてもらいました。

(このころにはゲーセンの店員さんとも仲良くなっていろいろとお話するようになっていました。)

 EAZY設定にしてもらうと、2-7でもコンティニューしたときは、かなり弾が遅くなってなんとか見えるようになりました。
 弾の遅い状況だと、1周目のパターンがだいたいそのまま使えることがわかりました。
 もう少しやってみると、2-7と2-8は弾が速いだけで、基本的な弾の撃ち方は、1周目と一緒だということがわかりました。
 このことがわかるとあっという間にパターンが出来上がり、2周目の速い弾にも対応できるパターンができました。

 2-7と2-8のパターンができると、2周ALLのためには、あとはいかに2-6を突破できるかというところまで到達できました。

 つづく

ストライカーズ1945-2のスコアをやり始めたきっかけについて 第1回

2004-12-02 01:57:22 | Weblog
私ことM.Tがストライカーズ1945-2のスコアアタックをやり始めたきっかけについてなどを書いていきたいと思います。

 私がゲーセンでゲームをするようになったのは社会人になってからなのでみなさんと比べるとかなり遅いデビューだと思います。

 まず10年以上前ですが学生時代には、たまに銭湯からの帰りにゲーセンに寄ってバツグンや雷龍2などを1日に1回か2回ほど遊ぶ一般的なシューティング好きでした。
 このころはスコアを狙ってゲームをするなどという考えは思いもつかず、バツグンはなんとか1コインクリアできたものの雷龍2にいたっては4面か5面までしかいけませんでした。

 その頃、学生の友人宅にセガサターンがありまして、そこにストライカーズ1945(初代)がありました。
 世界観とかタメ撃ちシステムとかが気に入って、何度も遊ばせてもらって、コンティニューでなんとか1周クリアできました。

 そのあとしばらくはゲームから遠ざかっていました。

 98年の春に、北海道へ旅行する機会があり、フェリーを使ったのですが、なぜかそのフェリーの娯楽室にストライカーズ1945-2という続編があったんです。
 そのときに初めてみましたのでびっくりしました。
 プレイはしなかったのですが、すごく印象に残るできごとでした。
(今思い返すとなぜフェリーの中に彩京シューの最新作があったのかすごい不思議なのですが?)

 その後、そんなことも忘れて、東北のとある田舎町で社会人になり仕事をしていました。

 98年の秋頃、なにげなくのぞいた近所ゲーセンで、あの1945-2がありました。
 これはやるしかないと思い、やってみたところやはり面白い。
 しばらくしたら仕事のあとにはほぼ毎日ゲーセンに通うようになっていました。

 とりあえず一番使いやすいと思った「疾風」という機体を選び、1周を目指してがんばってみましたが、後半面の弾が速くてなかなか進めませんでした。
 (この頃は彩京シューという言葉も知りませんでした)
 そのうち「疾風」という機体やボムとして出てくる幻の重爆撃機「富嶽」が気に入ってゲームの世界観なども楽しむようになっていました。

 その頃インターネットも楽しむようになっていたので、検索してみると1945-2の攻略をしているサイトもあり、参考になる攻略法が書いてありました。
 しばらくの間は家ではネットで研究、ゲーセンにて実践というのを交互に繰り返していました。
 ネットの攻略法のおかげもありまして、1ヶ月ほどで1周はできるようになりました。

 そうなると2周目もぼちぼち遊び始めていたのですが、1周目がうまくいっても2周目はとても難しく、まったく歯がたちませんでした。
 ただ、なんとか2周目もできるところまではやってみようという気になっていました。

 その時、プレイステーションに1945-2が移植されているということを知って、早速買ってきてテレビを縦にして遊んでみたのですが、一番肝心な2周目がコンティニューできないということを知って、絶望感を味わいました。

 といことで、2周目攻略も結局いつものゲーセンでやることになりました。

 社会人であったこともあり、2周目もコンティニューでかなり練習しました。
 しかし、2周目ともなると、ネット上の文章だけの情報ではなかなか理解できずに苦しんでいました。
 特に2周目街面は道中、ボスともに難しくうまくパターンが作れませんでした。

 いつもいっているゲーセンにはゲーム好きな店員さんがいて、カウンターにはゲーメストがたくさん積んでありました。
 その店員さんがゲーメストに1945-2の攻略が載っていることを教えてくれました。
 攻略記事の連載は終了していましたが、約半年にわたりかなり1945-2について詳しく解説されていました。
 特に2周目も写真付で説明されているので、今まで悩んでいた2周目街面などはかなりの手助けとなりました。

 つづく