・昭和44年6月13日(金)晴れ(マイケル、ブレインとの別れ、そして私の故郷を訪れた事のある人と出逢う)
7時に起きてシャワーを浴び、自炊の朝食を取った。今日、シドニーへ帰る日であった。ユースを出る際、マイケルとブレインに別れを告げた。
「昨日、Yoshiに会えて本当に良かったよ。無事、帰国出来る様祈っています。」とマイケル。
「パースで仕事を見付けた後、何処へ旅するの?」
「ヨーロッパへ行こうと思っています。」
「マイケル、良い仕事が見付かり、良いヨーロッパの旅が出来るよう祈っているよ。それでは元気で、グッドラック。」とマイケルと握手した。
「ブレイン、昨日君とキャンベラ観光が出来て楽しかったよ。有り難う。」と彼に手を差し伸べ、ガッチリ握手を交わした。
親しくしてくれた貨物駅の友・マイケル、そして気さくな旅人・ブレインとの別れは寂しいが、ユースを去らなければならなかった。
リュックを担ぎ、トボトボとユース前の坂道を下りて行った。ふっとユースを見上げると窓越しに「Yoshi、ヨーロッパの何処かのユースで再び会おう。」と言っているかの様に2人は、手を振って見送ってくれた。
「マイケル、ブレイン、縁があったら又、ヨーロッパのユースで会おう。」と心で叫び、私も手を振り返した。
旅とは人との出逢いであり又、寂しさを伴う別れでもあった。これが最後の旅、最後の旅人との別れになるのか、一筋の涙が頬を伝わった。『キャンベラに来て本当に良かった。』とつくづく思った。
ヒッチは郊外まで乗せて貰って直ぐに降ろされた。2台目も直ぐに降ろされた。キャンベラの郊外に湖があった。でもこの湖は浅い感じに見えた。それほど湖に水が少なかった。ここからの景色も素晴らしかった。
3台目で雄大な景色を見ながら一気にシドニー郊外に来てしまった。シドニーの郊外から市内のハイド・パークまで乗った4台目の車は、今まで過ってないほど一番珍しかった。ドライバーの名前は、Mr. Gino Bottazzo(ジノさん)と言って、イタリア系の人であった。
その彼が、「君は日本人か?」と尋ねたので、「日本人です。」と答えた。
すると「日本の何処に住んでいるの?」と聞くのであった。普通、「埼玉県」と言っても相手は分らないので、「東京」と言えば相手は分るし、話も続くので時々「私は東京に住んでいます。」と言っていた。
しかしこの時、埼玉県と言っても分らないであろうと思ったが、「I live in Saitama Prefecture」と言った。そうしたら彼は、「Where do you live in埼玉県(日本語でSaitama-Ken)」と言ったので、私はビックリした。こちらに来て初めて外人(本当は私が外人だが)がSaitama-kenの地名を知っていたのだ。
私は「F市です。」と言った。そうしたら彼は、「F駅前にYamamoto ryokan(山本旅館)があるだろう。」と言うのであった。彼の口から「山本旅館」の言葉を聞いて2度ビックリした。
確かにF駅前に山本旅館があり、私の実家から1回曲がって6~7分で駅まで行ける距離であった。山本旅館前、要するに駅前は幼い頃の遊び場であったし、卒業してから半年間は通勤駅でもあった。
そうした山本旅館の言葉が出て私は、「どうして山本旅館を知っているのですか?」とビックリしながら聞いた。
「私の友達が山本旅館に居て、マネージャーをしているのです。勿論日本人ですがね。昨年、彼を訪ねて山本旅館に1週間滞在したのです。」と言うのであった。それで駅前やFの事で花が咲き、郊外からハイドパークまで、あっと言う間に着いてしまった。
ハイドパークで降りる際に、私は「6月19日に帰国するので、山本旅館の友達であるマネージャーに貴方の事を宜しく言っておきますから。」と言った。彼は、「お願いします。」と言ってニコニコしながら車を走らせて行った。
それにしても外国に来て初めて埼玉県、しかも田舎のFを訪れた事のある人に出逢ったのは本当に奇遇で、初めての事であった。