YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

キャンベラへ最後のヒッチの旅 、そしてホテル付きのパブの話~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-15 08:30:57 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年(1969年)6月11日(水)曇り(キャンベラへ最後のヒッチの旅)
 私は6月9日に貨物駅(正式名はNSW州有鉄道ダーリング・ハーバー貨物駅『Daring Harbor Goods Station』)の仕事を辞めた。その夜から10日未明に掛けて凄い雷雨があった。稲光と共に響き渡る雷鳴に驚かされてしまった。冬(こちらでは6、7、8月が冬)でも、こんな雷雨があるのかと思うほどであった。 
 オーストラリア滞在も残り僅かになって来たので、この国の連邦の首都・キャンベラまで、最後のヒッチの旅へ出掛ける事にした。6時に起きて、シドニー郊外のBankstown(バンクスタウン)まで電車で行き、そこからヒッチを開始した。
リュックを背負っての旅は、大陸横断以来で『旅はやはり良いなぁ』としみじみと身体で感じた。でも若しかしたらこれが私の人生に於いて、最後のヒッチの旅になるかもしれない、と思うと何か寂しさを感じる旅でもあった。
『さぁー、ともかく元気に出掛けよう』と、気持を切り替えた。『CANBERRA』と大きめのダンボール紙に書いて持って来た。これは『私はキャンベラへ行きたいのです。どうか乗せて下さい。』と言う意味であった。車が来るとこれを示し、ドライバーに分る様にした。
 1台目は12マイル程、2台目は32マイル程、3台目は52マイル程、と次々お世話になりながらヒッチをして行った。
 4台目の車は乗って直ぐに車の排気筒が脱落し、エンストしてしまった。パイプを繋ぎ合わせてそれを固定し、修理が終り再出発する事が出来た。それにしてもオーストラリアの車はどうなっているのか、疑問であった。故障した車に乗ったのはこれで3回目であった。ヒッチを何回もして来たが、こんな事は初めてだ。この国の車の整備体制がしっかりと管理されていない事が原因なのであろう。
 4台目の車このおじさんは、「昨夜は飲みすぎた。頭が痛い。」と言いながらも、陽気なおじさんであった。こんな車に乗るとヒッチも楽しいものであった。ガムの森、広々とした牧場、ポプラ並木や低い山々を幾つも越えて、雄大な景色を見ながらのドライブは最高であった。
途中、おじさんは西部劇に出てくる様なパブに立ち寄った。このパブは隣がホテルで2つの店で一つの建物になっていた。パブの中には開拓当時の馬具類や〝野牛〟(オーストラリアに野牛がいたのか疑問)の角等が陳列されていた。建物も昔風に造ってあり、オーストラリアの開拓時代を少し垣間見た思いであった。おじさんは「飲み過ぎて頭が痛い」と言っていたが、迎え酒。私も彼と付き合って飲んだ。勿論、彼の奢りであった。オーストラリア人は車の運転中、或は、仕事の合間によくビールを飲んでいた。この国は交通事故を起こす程、車が走っていないし、飲酒運転と言う感覚、罪悪感が無く、大らかさがあった。
 それから更に我々はドライブを続け、いっきにキャンベラまで来た。シドニー~キャンベラ間は181マイル(290km)程であろう。おじさんの車に乗った距離は、大体61マイルであった。
 首都のキャンベラは美しく、静かな街であった。私が街を歩いても、人が歩いていないので、ユースへ行く道を尋ねるのも大変であった。
 ユース・ホステル宿泊の際、会員証の有効期間が去年で切れていた為、泊まるのに4ドル25セント(通常はこの半分程度)も払わなければならなかった。ユースの宿泊者は3人だけであった。その内の1人、カナダ人のBrayn(ブレイン)と知り合った。初めて逢ったブレインは、「貴方の名前を知っている」と聞いてビックリした。よく聞いてみると、彼は貨物駅の友達マイケルの友達で、マイケルから私の事を聞いていたと言うのであった。こんな所でこの様な巡り逢いも旅の面白さであった。彼はフレンドリーで、好感の持てる人であった。明日、2人で市内観光する事になった。
 このユースは、街から離れた山の中の高台にあって、ここからキャンベラの夜景がとてもきれいであった。

・ホテル付きのパブの話
 パブ(PUB)とは、Public Houseの略で要するに居酒屋の事です。こちらのパブは、その建物の隣か2階が必ずホテルになっていた。オーストラリアのパブはこの2件の店でワン・セットになっていた。
 オーストラリアでは少し前まで酒類を売って良いのは、ホテルだけになっていた。それで酒(ビール)を売る為に街角に、或は街道沿いにホテルを作り、酒を飲ます場所としてパブも作ったのであった。又、オーストラリアの法律では『パブでの飲酒時間は、午後6時まで』と定められていた。但しホテルの宿泊者には飲ませても違反にならなかった。従って6時以降の人は、ホテルの宿泊者ではなくてもホテルの宿泊者扱いで飲めるし、酒を出す方も宿泊者に出していると言ういい訳が出来た。その様な訳でパブとホテルは切っても切れない縁で、オーストラリアはホテル付きのパブがほとんどであった。
 オーストラリアのパブはイギリスのパブより気楽(ダーウィンで気軽に裸足で入ったら断られてしまった事があったが)に入れたし、ビール小ジョッキ一杯12セント(48円)で飲めるのは嬉しかった。