YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-20 08:45:35 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年6月18日(水)晴れ(博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ)
 昨日、家族や友達の為に何かちょっとした物でも良いからオーストラリアの記念となるお土産(カンガルーの毛皮、ブーメラン等)をジョージストリートのシドニー・ケイブ寄りに買いに行った。 
 そして今日、岡本と共にAustralian Museum(オーストライア博物館)へ行った。この博物館はハイド・パークの東側ウィリアムズ・ストリートに面して、いつも貨物駅とステーキハウスのレストランへの勤めの行き帰りに見ていたが、入ったのは今日が初めてであった。
 この博物館はオーストラリアの自然、古生物、動植物、鉱物、人種等に関する展示品があった。その中でポリネシア、メラネシア及びアボリジニの美術、彫刻、生活様式、道具、調度品等が印象深かった。特に、メラネシア諸島の酋長や祈祷師が被る仮面(中には人の頭蓋骨で出来た物もあった)は、美術的観点を通り越して、奇怪を感じた。彼等には銅や鉄器類の道具が無く、石や貝で作った物であった。彼等は歳月や時間的概念がないので、歴史がなかった。従って作った物の時代を特定で出来ないので年代は分らないが、かなり古い物と想像出来た。彼等の文化、美術には驚くべき物があり、そのバックボーンは、やはりセックスが対象になっていた。
 この後、我々はアートギャラリーへ行った。作品の絵画は300点程展示され、殆んどイギリス人の画家のものであった。ここを訪れて感じた事は、オーストラリアの美術・芸術と言う物がまだ、確立されていない感じであった。まだ歴史が浅いから仕方ないのでしょう。ヨーロッパの美術館、アートミュージアム(ギャラリー)の規模、作品等を比較して、このアートギャラリーは今一つ劣っていた。しかも今日は平日だからか、見学者は我々以外、誰も居なかった。 
 明日は、いよいよ出港の日だ。紳士淑女と食事をして、それなりに付き合わなければならないし、日本に帰国して頭がボサボサでは『だらしなく見られるに違いない』とそんな事を思い、カルカッタで床屋へ行って以来、久し振りに床屋へ行った。因みに外国にいるとそんな感じがしないのに、『日本を意識する』と頭の格好まで意識しなければならないのであるから、不思議であった。日本社会に生きている人達は、考え方、行動、髪型、服装等あらゆる面で一定化、又は画一化が重視されている様であった。それから外れた人は、異端者扱いされる傾向があるのも事実であった。
 床屋の後、最近スポーツ・ジムのオーナーのヴェラさんに会っていないので、別れの挨拶に行って見る事にした。しかし彼は事務所に居らず、会える事が出来なかった。仕方なく帰ろうと歩いていたら、途中の地下鉄のタンホー駅前で偶然彼とばったり出会った。
「ヴェラさん、明日私は船で帰国します。別れの挨拶の為、先程事務所の方へ行ったのですよ。」
「私は相変わらず忙しく、今日も用事で出掛け、今帰って来たのです。Yoshiに日本語を教えて貰おうと思っていましたが、仕事が忙しく習う事が出来ませんでした。どうも有り難う。」
「いつ日本に来るのですか。」
「9月の予定です。」
「私の住所を教えるから連絡して下さい。東京で会いましょう。」私はメモしておいた住所を彼に渡した。
「日本に着いたら連絡します。無事な帰国を願っています。さようなら。」
「東京で又、会いましょう。さようなら。」私は彼と握手して別れた。
 5月下旬、彼の家の新築パーティに呼ばれていたが、都合で行けなかった。オーストラリアのファミリーパーティに呼ばれた1度のチャンスを逃してしまい、本当に残念であった。
 シドニー最後の夜、私の部屋で日本人仲間4人と共にトランプをして過した。