YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

イタリア国境の町にやっと辿り着く

2021-11-22 09:37:48 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月22日(金)晴れ(イタリア国境の町にやっと辿り着く)
 又、日高と共にユースを去り、乗合舟に乗った。しかし鉄道のサンタ ルチア駅近くで下船しなければならないのに、駅を間違えて3駅乗り越し、50リラ又払って戻った。無駄なお金を費やしてしまった。
その乗り越した訳は、美しい大運河・カルナ グランテに見惚れてウッカリしていたのだ。それにしても美しいヴェネチアを1泊しただけで去るのは、残念な気持で一杯だ。金銭的余裕があればゆったりと、もう2~3泊程したかった。
 リベルタ橋を渡って本土に戻らなければならないので、ターミナルからバスに乗った。そうしたらリヨンのユースで逢い、翌日共にバスに乗って郊外へ出た、あのカナダ人男女2人が乗っていた。我々は周りの乗客がいるにも拘らず、大きな声で再会を喜び合った。聞けば、昨夜は同じユースに居たと言う。そして私や日高と同じく、ユーゴスラビアのベオグラードに向かうとの事であった。
橋を渡りTrieste(トリエステ)方面の街道で我々は下車した。そして日高やカナダ人男女と元気で旅をしようと、握手して別れた。日本人と別れる時の言葉は、「ごきげんよう。良い旅を(して下さい)」、又、外人の場合は、「Good luck(to you)」と言って別れるが、私の気持はいつも万感の思いであった。昨日、親しくヴェネチア観光したのに今朝、既にユースで鈴木やアーロンと別れ、そして今、再び彼等と別れた。
それにしても別れは、いつも寂しいと言うか、悲しいと言うか、チョッと言葉に言い表せない心境であった。いつ、又逢えるのか、保証の無い旅、そして永遠の別れになるのが常なのだ。その方が確立は高い。旅は、いつも一期一会なのだ。人との別れ、1人旅の寂しさ。今回の旅は、『旅とは、切ないもの』と言う事を私に教えてくれた。しかし、「旅は1人に限る」。矛盾している様だが、それが正論なのだ。
 イタリアの国境の町・トリエステまで180から200キロの道程だ。明日、社会主義国のユーゴスラビアへ入る予定だ。
シンガポールまでの旅は、まだ始まったばかりなのに長期間が過ぎた様な、長い間旅をしている気がしてならなかった。そして、何処まで行けば旅が尽きるのか。まるで『果てしない旅路』の中に入り込んでしまった、或はさすらいの旅の様な、そんな感じがしてならない今日この頃であった。
1台目の車は、500メートル程走ったら、道が違うので直ぐに降ろして貰った。2台目の車は、今日の予定の半分、100キロ位乗せて貰った。この男性ドライバーは英語が話せたので、色々な話が出来て楽しかった。どちらかと言えば、全くお互いに言葉が通じ合わず、無言で長時間ドライバーの脇に乗せて貰う場合、私としても苦痛である。でも少しでも言葉が通じ合えば、楽しいヒッチの旅になるのであった。
トリエステまで後80キロ位の所で降ろされた。ヒッチする場所は、知らない町の街角、郊外、畑の中、山の中、海岸、そして原野等、色々な場所で暫し立ちつくすのは、毎度の事であった。しかし、ここまで来ると少し状況が今までと違った。西ヨーロッパの国境付近と違って、隣の国はソ連圏の影響が強い国・ユーゴとなり、人や物の往来が極端に少なくなっていたのか、また車の往来が激変していた。
車がやっと来たとしてもヒッチ合図しても止まってくれず、3台目は中々ゲット出来なかった。何気なく空を見上げれば、浮雲がポッカリ浮かんで、あたかも自分の旅の様であった。
2時間以上経って夕方近く、やっとゲット出来た。今日の目的地・トリエステまで、あと約35キロ地点のMonfalcone(モンファルコネ)と言う小さな町までであった。そして郊外へ移動した。
時刻は既に午後6時半を過ぎ、辺りは暗くなって来た。暗くなって来ても泊まる所が決まってないと、何となく落ち着かなかったし、寂しい感じがした。この事は何日たっても慣れなかった。
 車が通らない郊外の暗い街道で、8時になっても車をゲット出来ず、困った状態であった。もう少しでユースがあるトリエステであるのだが。私は近くのモンファルコネの町まで引き返し、ホテルに泊まる事に決めた。既に静まり返った小さな寂しい町、通りには人っ子1人、歩いていなかった。この町にホテルがあるのか不安であったが、尋ねる事も出来なかった。
リックを背負い片手でバッグを持ち、静まり返った暗い街をトボトボ歩いていたら、トリエステ方面に行く車がこちらに向かって来た。そこまで行くのか如何か分らなかったが、祈る想いでヒッチ合図を送った。暗く見辛いのにも拘らず、運良く車は止まってくれた。聞いたら、トリエステまで行くとの事で乗せて貰う事にした。『地獄に仏』とは、この事か。本当にホッとした心境であった。
30~40分程でトリエステに到着した。ドライバーは、「今夜何処に泊まるの」と聞くので、「ユースに泊まります」と言った。ドライバーは、土地の方なのかユースの住所を示すと、その場所を知っていて、ユースまで連れて来てくれた。しかしユースは利用期間が過ぎ、閉まっていた。私はガッカリしてしまった。利用者の少ない冬季期間は、ユースによって閉めてしまう所もあるのだ。仕方ないので、ホテルに泊まる事にした。ドライバーの方に、「私をホテル・インホメーション・オフィスまで連れていって下さい」とお願いした。地図上で町の名の所が二重マルになっていたので宿泊施設のある、それなりの町であると判断した。ドライバーに私はそのオフィスまで連れて来て貰った。別れる時、最後まで親切にしてくれた彼に厚く礼を述べると共に、私が持っている日本の絵葉書1枚を感謝の気持として渡した。
 午後10時になっていたが、運良く案内所はオープンしていた。案内所内には、この町の色々保養施設、観光名所、ビーチ、娯楽施設等の案内用パンフレットが置いてあった。この町は、保養地で有名な所らしい。係の人に安いホテルをお願いしたら、ここから近い1,200リラのホテルに予約が出来た。
 部屋は狭い感じがしたが、真っ白なシーツと枕カバーは、清潔感があった。サヴォーナ(8月8日)のホテルで止まった時は、800リラの階段下の狭い部屋であった。この部屋はその時よりも広く、居心地も良かった。
 一時はどうなるのか不安であったが、今夜もベッドに寝られる事になった。お世話になった先程のドライバーに心の中で感謝した。それにしても、ヒッピー まがいの貧乏旅行者がホテルに泊まって、従業員はどう感じたであろうか。リックを背負い、髪の毛を3ヶ月間以上伸ばし放題のボサボサ、そしてジャンバーにジーパン スタイルでは、高級ホテルでないが入る時、どうも敷居が高い感じた。
 11時、ベッドに入った。おやすみなさい。



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