△ブーフローエ停車場(PFR)*当時と全く構内が狭くなった。
・昭和43年8月16日(金)晴れ(西ドイツの鉄道員と美味しいビール)
*参考=西ドイツの1マルクは90円(1Pfennigは90銭)
照井と折角再会したが、別れて旅をする事にした。何も彼と喧嘩別れ、或は気まずい思いをして別れるのでもなかった。照井はもう少し私と共に旅をしたかったようであったが、ただ、『お互いに1人旅の方が良いのでは』と私が判断したまでの事であった。理由は、「私には私の旅があり、照井には照井の旅がある」と言う、ただそれだけの事であった。彼はもう1日か2日、ここに滞在する予定だ。私はユースを去った。
別れ際に、「照井さん、元気で旅を続けて下さい。昨夜は取って置きのラーメン、本当にご馳走様でした」と私は礼を述べた。
「Yoshiさんも元気で。縁があったら、又何処かで逢いましょう」と彼。
それは偽りのない照井の、そして私の言葉であった。別れは辛く、そして寂しかった。折角2日前に彼と逢えたのに、別れて旅をしなければならないとは・・・。でも、これが旅であった。
8時59分、ブレゲンツ駅からMunich(ミュンヘン)行きの列車に乗った。1等車のコンパートメントに私1人が乗っていたら、途中の駅から30歳ぐらいの西ドイツ人1人が入って来た。彼は最初、貧乏くさいラフな格好をしている変な外人が1等車に乗っているので、変な疑いの目(不正乗車)で見ていた様な感じであった。
その彼が話し掛けて来たので、「私は1等車にも乗れる正当なユーレイルパスを持って、欧州列車の旅をしているのです」と言ったのだ。それは、「不正乗車はしていません」という意味を込めてであった。そして、「私は日本で運転士をしている鉄道員です」とも言った。
するとその彼は、「私も鉄道員で、Buchloe(ブーフローエ)駅で信号係をしているのです」と言って、私に対する疑いの目はなくなっていた。
我々は同業者・仲間意識よろしく、お互い片言の英語で話し合った。そして、我々は意気投合した。彼の給料は月1,500マルク(税引き後は1,200~1,300マルク)で日本円にすると135,000円、比較して私の退職時の給料は23,000円であった。お互いの給料額の事から日本の鉄道や新幹線の事、或は私の旅の事等について話し合った。
彼はこれから駅に出勤するとの事で、彼の下車駅ブーフローエで降りる際に、「立ち寄って行かないか」と職場見学よろしく、誘ってくれた。彼の勤務や職場に迷惑を掛けては申し訳ないと言う気持ちがあって、私は有り難く断った。我々は固い握手をし、そして彼は下車して行った。
ブーフローエ駅は、本線が交差する主要な駅であった。構内は長く、広く、何本も線路があった。その構内の中央付近に信号所としては大きな建物があった。『彼は、あそこで働いているのかな』と思いつつ、列車はその信号所前を通過して行った。一瞬、『立ち寄れば良かったかな』と思った。
ソ連のシベリア鉄道以来、鉄道員と車中で再び出逢った。退職して来たとは言え、鉄道員意識が薄れている訳ではないので、同じ鉄道員に出逢えたのは、嬉しい事であった。
それからミュンヘンへの途中駅で日本では勿論、外国でも初めて、私は蒸気機関車が牽引する〝混合列車〟(客車と貨車が連結されている列車)を見た。アウトバン(ドイツの高速道路)と自動車が発達しているドイツで、一昔前の混合列車がまだ健在とは、驚きであった。私が勤めていた会社の線区でも昔、その様な混合列車が走っていたが、我々の時代には既になかった。
12時09分、列車は3時間の旅を終え、ミュンヘン駅に到着した。駅を出てから私は、駅近くの公園のベンチに腰掛けて、タバコを吹かしながら休んでいると、色んな人に話し掛けられた。「0.4マルクとタバコ1本交換してくれ」と浮浪者風の男に頼まれ又、私の隣に座っていたイギリス青年には、「イギリスは月50ポンド(1ポンド約1,000円)程しか稼げないので、ノーグッドだ」と聞かされた。でも暫らくして日本女性(?)がフンでもスンでもなく、私の前を通り過ぎて行った。こんな時、同じ邦人としてチョッと寂しい感じがした。
日中の太陽の下は暑かったが、日陰はそうでもなく、日本と違って蒸し暑さがなかった。暫らくの間、私は今後の事についてそのベンチに座りながら考えた。
その結論として、今夜ミュンヘンを発ってAmsterdam(アムステルダム)へ行く事にした。理由は、7月26日にユーレイルパスを使用開始したので、有効期間は8月25日までであった。24日か25日にイギリスへ渡る予定なので、その2~3日前までにパリに戻ってシーラに会う日時を連絡しなければならなかった。残りは後5日しか残っていないので、ミュンヘンで宿泊する余裕がなくなった。従って、午後10時59分発アムステルダム行き列車があるので、それに乗る事にした。それまで時間がまだ充分あるで、市内見物がてら、街を散策する事にした。
駅前やその周辺の道路及び市電の線路の工事を大々的に行っていた。最初、ミュンヘン駅に降り立った時、如何して駅前が工事で騒々しいのか分らなかった。4年後の〝1972年〟(今年は1968年メキシコの年)のミュンヘンオリンピックの為の工事である事に気が付いた。
それと関連しての事なのか、この都市は新しい近代的ビルデングが他の都市より多く見られたし、続々と建設中の建物もあった。まぁ、活気ある街と言えば聞こえは良いがその反面、騒々しい街であった。古い建物から画一化された新しい建物は、味もそっけもない機能重視の面だけを考えた物であった。そこには人の心を和む西洋建築の美と言う物が無く、しかも、周りの建物との調和がなかった。歴史あるミュンヘンの変貌を垣間見る思いであった。
「ビール」と言えばドイツだ。その中で最も旨いと言われるのがBayern(バイエルン)のビール、その地名の中心地がここミュンヘンであった。「ここまで来てビールを飲まずして、いつ飲むのか」と言う心境であった。飲む場所は、こと簡単に見付ける事が出来た。駅の構内にも幾つかスタンドバーがあったし、街の中でもあちこちにビヤホールがあった。勿論、私は試しに飲んでみた。1マルク(90円)で中ジョッキ1杯飲めた。安くてこれまた美味しく、結構いけた。濃くのある生タイプのビール、私は日本で過って味わった事のないビールであった。
夜、街をぶらついていると、こちらに来て初めて〝日本的なバー〟(日本的バーのあるのは以後、何処の国へ行っても見られなかった)を偶然に発見した。店構えは、『酒場』と言う感じがしたが、スタンドバーやビヤホールでもなさそうであった。私は何気なくドアを開け、中へ入った。薄暗い店内の隅にミニスカートに胸から巨乳がこぼれ落ちる程の女性5~6人が立っているのが目に入った。ボックス席では酒を飲みながら、男女が絡み合っていた。店のマダムらしき女性が、「どうぞ」と言わんばかりに私を席の方に促してくれた。私はこの様なバーで遊べる身分ではないと判断、早々退散した。でも、遊んでみたかった・・・残念だ。
西ドイツ・ミュンヘンは、言葉では難しいが、カメラ屋、ヨッパライ、そして女性を脇に座らせて酒(ビール)を飲んだり抱いたり出来るバーがあり、何となく雰囲気が日本に似ていて、何か懐かしさが感じられた。
午後10時59分、アムステルダム行きTEE急行列車・レンブラント号(画家の名前に似ている)、牽引はアメリカ製EL電気機関車のオール寝台車であった。私は2等の寝台車(寝台料金は9マルク)を利用した。
寝台車の同じ寝室で南アフリカ共和国の女性と出逢った。彼女は白人、背は普通で感じの良い子であった。彼女の名前は、J・Hopf(ホフさん)で、Durban(ターバン)に住んでいると言っていた。彼女はとても日本に興味を持っていて、「来年かその次の年に日本へ行く」との事で、お互いに住所交換をした。彼女は、「是非、私の国へも来て下さい」と言ってくれたが、行けるかどうか、疑問であった。
ベッドに入り、『日本で彼女と会えるであろうか。もし来日したら、彼女を何処へ案内してやろうか』と考えていたら、いつしか夢の中に入って行った。